浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

法とは何か(2) 法は強制秩序なのか?(2)

平野・亀本・服部『法哲学』(2)

私は前回冒頭に、「もし、あるルールを制定する又は改定するとしたら、いかなる手続きをふむべきなのか」という問題意識について書いた。しかしこれは舌足らずだった。私は「どのようなルールを制定すべきか」を当然の前提にしていた。これを今後、「ルール制定者の視点」と呼ぼう(「立法者の視点」といっても良いのだが、小さな組織のルールも視野に入れているので、控えめに「ルール制定者の視点」と呼ぶ)。本書を読んでいくにあたり、「ルール制定者の視点」からはどうなんだろうか、ということを忘れないようにしたい。

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服部は、法を強制的な命令(強制秩序)とみる見方には、いくつかの問題点があるという。

第1に、法の持つ強制的・命令的な性質があまりに一面的に強調されており、法が強制権力を統制し、恣意的な権力行使を防ぐ働きを持つことが見過ごされている。法は強制権力が発動される条件を定める規範であり、実力行使という意味での強制そのものではない。

独裁国家でなければ、政府が有無を言わせずに国民を支配することはない。法は、政府の恣意的な権力行使を防止する。政府は、憲法以下の法に従って行動しなければならない。

第2に、人々が法に準拠しつつ互いに主体として行為しているという法の日常形態が、法と強制の結びつきを強調する見方では見逃されやすい。法の重要な役割の一つは、人々に対して行為の準拠枠組みをルールとして提供することにある。…契約締結や企業活動など私法上の法律行為の大部分がその典型である。法は、最終的には実力行使を中核とする強制権力によって担保されているのは事実だが、しかしそれとともに、人々の自発的な遵法意識によりそれが実施運用されるという面も重要な意義を持っている。

赤信号で停止するのは、権力により強制されているためではない。スムーズな道路交通のために、青信号で進み、赤信号で止まるという約束事(ルール)が、行為の準拠枠組みとなっている。

第3に法を強制と見る見方は、人々を法的強制の客体としてしかみておらず、このように人々が主体的に法を用い動かしていることを見落としやすい。そして、法が主として人々の主体的な行為によって動かされているというこの側面は、法が国家権力の強制よりもむしろ人々の合意にもとづいて形成・運用されるということをも意味している。

 

法が、人々の合意にもとづいて形成・運用されるものであるということ、これは民主主義の基本である。しかし、「果たして、本当に、法は人々の合意にもとづいて形成(制定/改定)されているのだろうか?」、また「果たして、本当に、法は人々の合意にもとづいて運用されているのだろうか?」という問いは、いまなお有効だろう。

ここである組織において、その組織に属する人たちが話し合ってあるルールを定めたとしよう。そのルール(法)は、強制的な命令であろうか。上に指摘されている3つの問題点に関してはどうなっているだろうか。恐らくそのルールは問題含みだと考えられるだろう。

ルール制定者の視点からはどうか。私があるルールを定めるとする。そのルールは強制力を持ったルールである。しかし、①私はルールを制定するにあたり、「私はルールを制定する権限がある」ということを前提にしている。そのような権限付与のルールが既にあることを前提にしている。私は、ルールを守らない者にペナルティを与えることをそのルールに含めるが、そのようなペナルティが実効性あることを前提にしている。②私はルールを制定した。組織のなかで行動する者は、このルールを守る必要がある。言い換えれば、このルールに準拠して行動する。③私はルールを制定したといったが、実際には原案のみを作成し、その原案を関係者が議論の上、修正し作成したものである。だから大部分の人にとっては、守らないとペナルティがあるぞと脅さなくとも、このルールは守られる。

 

法規範

 法規範とは、法共同体の成員が自己の行動の規準として受容し、自己の行動の正当化の理由や他人の行動に対する要求・期待あるいは非難の理由として公的に用いる社会規範の一種である。こうした性格を持つ法規範が、各種の法制度、法曹集団、法的思考方法と並び、法システムの中心的要素をなし、一方では国家権力からの、他方では道徳・宗教・習俗など他の社会規範からの、法システムの自立性を支えているのである。

 規範とは、「~しなければならない/~すべきである」(当為)というかたちをとり、「~である」(存在)とは異なる。法システムとは何か、後で説明があるだろう。

法規範は、古代・中世には道徳規範や宗教規範などとは未分化の状態にあった。しかし、社会生活や統治機構が複雑化する近代になると、法の制定・運用の国家化が進むにつれ、道徳・宗教などの社会規範から法規範が次第に分化独立するに至った。そのような展開とともに、法規範は、究極的には国家が掌握している物理的強制力を背景に、人々に対して一定の行為を命令ないし禁止することを通じ、人々の行為を規制するという性質を強めることになった。

法規範が、道徳規範とは未分化の状態にあったが、近代になり道徳規範から分化独立するに至ったとあるが、法と道徳の関係は重要な論点である。

法規範による人々の義務付けの様態は、道徳規範や宗教規範の場合とは異なる。後者の諸規範は、人々の内心に受け入れられ、いわば良心からの動機づけにより、人々を規範に従った行為へと義務付ける。これに対して法規範の場合は、良心のレベルでの受け入れまでをも求めるものではない。…人は、個々の法規範ないし法秩序全体に対し、深い内心レベルでそれにコミットする必要はなく、あくまでも法的な問題処理のために、それらに準拠して行為・判断・評価を行うということさえなされれば、法の規範性としては十分なのである。

人は、法規範を嫌々でも(心では反対していても)受け入れていれば、とやかく言われることはない。しかし道徳規範や宗教規範ではそういうわけにはいかない。心から受け入れることが要求される。でも人の心の中までは見えないから、神を信じるふりをしていればよいわけで、道徳や宗教が法と化してしまう(それにはエゴイスティックな理由があるのだろうが)。

ルール制定者はどの程度の詳細さでルールを定めるか。これはちょっと悩むところで、ポイントだけを定めて後は良心(良識)に任すということをする。ここでいう「良心」が「道徳」と関係してくる。道徳心(良心)のない者が、ルールをねじ曲げて解釈したり、そんなことは書いてないと開き直ったりする。さらにはペナルティが課されていなかったり軽かったりすると、ルールを無視したりルールに反する行為をする。こうなると、道徳と六法全書の分厚さは反比例するのではないかと思ったりする。(デジタル化で紙はなくなるので、厚さよりは条文数(文字数)で言わなければならないだろうが)

法規範の多くは、典型的には「AならばB」、即ち一定の要件事実に対して一定の法律効果が帰属させられるべきことを指図するという、いわゆる「条件プログラム」の形での規定方式をとっている。このタイプの法規範は、法準則(法ルール、法規則)と呼ばれており、制定法の条文の多くは、この意味における法準則である。このように予め定立された一般的な法準則を、過去に起こった具体的事実に適用することにより、事案を公正に処理する特殊な思考技術が、法的思考(リーガル・マインド)と呼ばれるものである。

法的思考は、予め定立された一般的準則への準拠という方式を取る点で、将来志向的な政策的思考や、諸々の利害関係者の間での妥協を目指す利益調整的思考とは基本的な性格を異にする。このような法的思考は、今日の法システムの基本をなす近代法体系の自立性を支えるものであり、職業としての法曹集団や法的素養をもつ職業人などによりその運用が担われている。

私はこれまで、法という言葉を、法=ルール=規則の意味で使ってきたが、今後は「AならばB」という形で制定される法を「法準則」という言葉で理解しておきたい。

私は、ここに述べられているような法的思考(リーガル・マインド)だけではダメだと思う。正確に言えば、「予め定立された一般的な法準則を、過去に起こった具体的事実に適用することにより、事案を処理する」やりかたではダメだと思う。しかし服部はこう書いている。「事案を公正に処理する」。「公正に」という文言が入ると、そこには「政策的思考」や「利益調整的思考」が入ってくるのではないか。そうするとこれら3つの思考法は、厳密に区分されるものではなくなる。しかし、政策的思考が勝ってくると、強引な法解釈がなされる。これをどう考えれば良いのか。たぶん後で出てくるだろう。

「事案を公正に処理する」ではなく、「事案を処理する」という公正ではないかもしれない機械的な解釈が何故まかり通るのかを考えてみなければならない。…「ルールブックにそう書いてあるから、その行為は違法である。正しくない。」という思考から一歩も抜けられない。「問題には答えがある」という思考から抜けられない。「その答えは間違っているかもしれない」とは考えられない。