浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

ピアノ演奏のあるボタニカルカフェ

岡田暁生『音楽の聴き方』(2)

最初に岡田の話を聞き、その後ちょっと余談になるかもしれませんが、私にとっては本論のサロン音楽についてふれましょう。

 

神の代理人としての音楽批評

19世紀における音楽の神聖化と不可分の関係にあったのが、ロマン派の時代に生まれた音楽批評である。…音楽について語る者は芸術の神殿に仕える司祭であって、神の代理人たる彼らの言葉は一種の神託なのだ。

批評家でもあったシューマンは、ショパンモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の『お手をどうぞ』による変奏曲作品2を次のように評している。

「…この時はまるで見覚えのない眼、なにというか、花の眼、怪蛇の眼、孔雀の眼、乙女の眼が妖しく僕をみつめているような気がした。そうしてところどころそれが特に鋭く光るのだ」。

これがロマン派の音楽批評である。

ここでは音楽そのものについて即物的に語るというより、音楽との摩訶不思議な交感が詩的アラベスクでもって綴られている。批評言説は音楽と一心同体になって恍惚の表情を浮かべてみせるのである。(P42)

こうしたロマン派の音楽批評が、まるで神を名指すことを憚るかのように、ことさらに言葉の無力を言い立てるのは面白いことである。音芸術の神殿において散文を口にすることは、その神秘に対する冒涜なのだ。

言葉を用いながら、言葉の無力を嘆いてみせる――ここにロマン派的な音楽批評が本質的に孕んでいる自己撞着がある。一方で音芸術を「言葉を超えたもの」として神聖化しながら、他方でそれについて語らざるをえないという矛盾を、いかにして繕うか。それが近代の芸術批評の直面した課題だったとすら言えるかもしれない。

「芸術は言葉ではありません、見るのです、ひたすら見るのです」と説くのは、まさに「祈るのです。ひたすら心を無にして祈るのです!」という司祭の説法そのものだ。…どうやろうがそれは、「『語れない……』と語るしかない」という袋小路に入り込んでしまうのである。

 

聴衆は信者か公衆か?

格式ばって厳かでもったいをつけたバイロイト音楽祭の空気が、ストラヴィンスキーには耐え難かったようである。…「ワーグナーの舞台神聖祝典劇《パルジファル》は、芸術作品を宗教の儀式を形づくる神聖で象徴的な祭典と同じ高さにおくことの理念である。そして実際ばからしい儀式によるこのバイロイトのこの喜劇は、宗教の儀式の無意識な猿真似ではなかっただろうか」。音楽を宗教化することの矛盾をストラヴィンスキーは、とりわけ聴衆の振る舞いの中に見ようとする。つまり近代の聴衆とはまるで双頭の怪物(キメラ)のような存在であって、眼を閉じて粛々と聴き入る「信者」であると同時に、(金を払って評価する)「公衆/消費者」なのだ。

現在のバイロイト音楽祭の雰囲気はどうなのだろうか。近代の聴衆がキメラである-つまり「信者」であり、値踏みをする「消費者」でもあるという指摘は興味深い。

消費者でありながら信者を気取るバイロイトの聴衆について、ストラヴィンスキーは次のように批判する。「宗教の儀礼に対し信者が批判的態度をとるなどということは到底想像できない。それは言葉の上の矛盾となろう。信者が信者たることをやめることになるのだから。聴衆の態度というものはまさに正反対である。信仰にも、盲目的な服従にも左右されない。演奏に対して、賞賛するか拒絶するかである。人はたとえ意識しなくても、判断してから受け入れる。批判の機能が本質的な役割を演ずる。この二つの明らかに別の思考方法を混同することは洞察力の欠如、悪趣味の証拠である。けれども精神的に堕落した非宗教的な大衆の公然とした増大が人間を全く野獣化に導くような今日のような時代に、このような混同が生じたとしても、さほど驚くにはあたらない」。

高い入場料を払い、チケットを持っている自分のステータスを鼻にかけ、「素晴らしい」などと品定めをしながら、まるで信者のように厳かに振る舞う聴衆。ストラヴィンスキーはその矛盾をつく。そもそもバイロイトに限らず近代音楽は、ベンヤミンのいう礼拝の対象であると同時に、公的空間に展示される商品である。そしてロマン派の音楽批評が「値踏み」と「神学」の間を揺れ動く矛盾の一因もまた、このあたりにあったに違いない。

 

鑑定家としての音楽批評?

「音楽をあくまで音楽そのものとして捉える」というドライな姿勢でとりわけ有名だったのは、ワーグナーと敵対したことでも知られるウィーンの批評家ハンスリックである。彼は詩的音楽批評が大嫌いで、「音楽そのもの」と「音楽がかきたてた情緒」とを混同する夢想的な聴き方に対し再三警告を発した。

「音楽美学は従来その問題の取り扱い方においてほとんどすべて重大な過誤を犯しているといっても差し支えないであろう。すなわち、今までの音楽美学は音楽において何が美しいかということを基礎づけようとせずに、むしろその際に我々を圧倒する感情の描写に終始しているのである」。ハンスリックに言わせれば、「主観的感情から出発して対象の周囲をくまなく詩的な散策を行って回遊し、再び感情にかえってくるというような方法とは縁を断たねばならない」。ナルシズム的に自分の感情を撫で回す音楽批評に対して、彼は容赦ない。特に、「感情への耽溺は多くの場合、音楽美の芸術的理解に対して何らの教養を持っていない聴者たちの行うところである素人は音楽において最も多く「感じ」、教育ある芸術家は最も少なく「感ずる」」という批判は痛烈である。ハンスリックが目指すのは、あくまで事象そのものに基づく音楽批評である。対するに彼がここで批判の矛先を向けているのが、詩的/神学的な音楽批評であることは疑いない。

 

もう一度ロマン派の音楽批評家シューマンに戻るが、パリのサロン音楽が大嫌いだったシューマンは(但しショパンは唯一の例外)、次のような表現で「偽物」のサロン音楽を断罪する。

「最悪なのは、丁重さによって我々に初めから丁重さを強要する術を心得ている類の社交界の人々と同席することである。彼らは我々が何か非難しようとしても、お辞儀の一つでそれが口にできないようにしてしまうし、彼らともっと深くつきあおうとしても、うまくかわされてしまうのだ。彼らは実生活でも、宮廷でも、サロンでも幅を利かしていて、したがって芸術からも追放することができない。…もちろん後年になって数分間、絶賛の嵐がすぎ去り、身体もかってのしなやかさを失ってから、これらの小器用な才に恵まれた人たちが時としてより良きものに対する憧れの気持ちに、そう、早々と過ぎ去った青春への悔いに襲われるということもあろう。そのとき、より高きものへの努力が彼らに翼を与え、新しい勇気をもたらすだろう。彼らは自分が失ったものを取り戻そうとする。あるときはそれはうまくいき、あるときは時すでに遅しである。貴族や金持ちのサロンには決して見つけ出すことができない芸術の真の故郷へのこうした憧憬の中で、この夜想曲は恐らく作られたのであろう。しばしばそこにも虚栄心がまだ見え隠れしている。だがそれらは全体として、並のサロン・ヴィルトゥオーソには決して見られない高貴な感情の証明である。これはタールベルグの最良の作品の一つである」。

シューマンはなかなかの文筆家のようだ。

最後の哀れむような賞賛は、ショパンを称えるときの恍惚の表情と実に対照的である。これは本来的な意味での批評というよりもむしろ、持ちこまれた品を前にして「こんなものは偽物ですな、それにしては上出来ですが……」と言い放つ鑑定家の言葉に似てはいまいか。それは「何が、なぜ、どう悪いか」について、懇切丁寧に教えてくれはしない。本物は「見れば/聴けば分かる」。19世紀の音楽批評は、芸術家と言う神の代理人であると同時に、後世に残すべき「本物」とそれ以外の「偽物」とを容赦なく選別する目利きである。音楽が宗教/商品であり、聴衆が信者/公衆であったのと同様、批評家は神官であると同時に画商になるのである

 

サロン音楽

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岡田は19世紀後半のブルジョワのサロンの絵を掲載して、次のように説明している。(同じ絵がないか探してみたが見当たらなかったので、代わりに上の絵を載せておく。)

主人は紅茶を飲みながら友人とのおしゃべりに興じ、奥には立派なグランド・ピアノがシャンデリアに輝いている。19世紀のサロン音楽はこうした上流ブルジョワの居間のBGMであった

 

サロン音楽とは何か。

元来は、16世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパの王侯貴族のサロンで演奏されていた音楽を指したが、19世紀に入ると、パリやウィーンの貴族や、富裕な市民の邸で行われた音楽を指すようになった。後者は、主に文人や芸術家などを中心とした、閉鎖的な集まりで演奏されていたという点に特色がある。小規模な編成の優雅で叙情的な小品が多いが、演奏に高度な技巧が求められるものも少なくない。

代表的な作曲家には、ショパンやリストなどが挙げられるが、各地のサロンは、若手作曲家の登竜門的な役割も果たしており、パリのマラルメのサロンからはドビュッシー、ポーリーヌ・ヴィアルドのサロンからはフォーレと言った、後の近代フランス音楽を代表する作曲家が生まれている。

現在では上記の意味から転じて、小編成の上品な軽音楽を広く指すことが多い。(wikipedia)

本来は客をもてなすために客間で演奏する軽い音楽。ディベルティメント,ターフェルムジークなど。現代では軽音楽一般をさすことが多い。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

ショパンの有名な曲を聴いてみましょう。

最初は、もっとも有名な「ノクターン第2番変ホ長調Op.9-2」です。

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次に、映画「戦場のピアニスト」でも使われた「ノクターン第20番嬰ハ短調」です。

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こんな曲を、紅茶を飲みながらサロンで聴いてみたいですね。

ボタニカルカフェがそのようなサロンに近いのではないかと思います。(ボタニカルとは、「植物をとりいれた」というような意味だそうです。辞書をみたら、botanyの語源はギリシャ語で「牧草」だそうです)

こんな感じです。

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先日、私が行ったボタニカルカフェには、ピアノは置いてありませんでしたが、そこでショパンを聴けたら最高に良かったでしょうね。