浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

法とは何か(3) 悪法問題-「悪法」でも、法は守らなければならないのか?

平野・亀本・服部『法哲学』(3)

簡単に言えば、「法は守らなければならない」。…あるルールを定めるということは、守られることが当然の前提となっている。ルールを定めるが、「守らなくてもいいよ」などと言っては、ルールを定める意味がないだろう。実際にはルールを守らない者が出てくるだろうが、だからといって「守らなくても良い」ということにはならない。このように、「法は守らなければならないものである」という性質を、法の妥当性という。(ここでは法の「妥当性」という言葉の意味をこのように解しておく)。

私はいま「守られることが当然の前提」と言ったが、哲学者という人種は物事をラディカルに(根底的に)考える。「当然の前提」を疑う。「法は、なぜ守らなければならないのか」、「法が規範であることの根拠は何か」、「法の妥当性は、何に基礎づけられるか」。…表現がだんだん難しくなるが、同じことを言っている(たぶん)。

なぜ「当然の前提」と思われるものを疑わなければならないのか。…「非人道的な行為を人々に義務付けたナチス立法」*1が念頭にある。このような悪法も「当然に守らなければならない法」なのか*2。しかし、過去のことはともかく現代において、このような悪法が存在するのか。おそらく一つの法全体が悪法であることが明白な法などないだろう。その法令(ルール)の一部の条項(規定)が、「おかしい」ということが大部分であると思う。ここで「おかしい」というのは、他の法令や条文と矛盾しているとか、非常識であるとか、無意味であるとかの意味である。そのような条項を無視して良いと考えるのかが「悪法問題」であると考えられる。…毎年、数えきれないくらいの法改正が行われている。ではそのような改正を要する条項は「おかしな条項」(悪法)であり、守らなくても良いのだろうか。おそらく改正されるまでは「守らなければならない」と考える人が多いだろう。では「非人道的な行為」を認める(招来する)条項は「守らなくてもよい」と考えるときとの差はどこにあるのか。

このような悪法の存在可能性を念頭に置いて、服部の話をきいてみよう。

f:id:shoyo3:20150904154209j:plain

https://linguisticcapital.files.wordpress.com/2012/09/by-tiago-hoisel.jpg

 

f:id:shoyo3:20150904154237j:plain

サルバドール・ダリ 聖アントニウスの誘惑(1946)   http://ernestsewell.com/image/13654246072

 

1.法学的妥当論

法の妥当性とは、それが現実に遵守されているか否かといった事実の問題とは全く無関係に、法規範がその性質として持つ規範性そのものを指す、という考え方。下位の法規範の妥当性は、より上位の法規範の妥当性に基礎付けられるとし、憲法を頂点とする階層的な法体系への帰属により、個々の法規範に対し妥当性が付与される。個々の法規範の妥当性の根拠は、それが定立される際に基礎となったより上位の法規範が妥当しているという点にある(規範説)。

「私は上の者に命じられただけ」と逃げ、トップ(憲法)に「あなたは、何を根拠にそういうのか」と問い詰めても答えない(答えられない)*3。これでは悪法に対処できないだろう。

なお、法規範とは、「法共同体の成員が自己の行動の規準として受容し、自己の行動の正当化の理由や他人の行動に対する要求・期待あるいは非難の理由として公的に用いる社会規範の一種」であった。(法とは何か(2)参照)

 

2.事実的妥当論

法の妥当性をその実効性と同一視する立場。①規範が定める行動が社会成員により一般的に従われているという事実に妥当性の発現をみる(社会学的妥当論)。②人々によって法が拘束的なものとして心理的に受容されているという事実に法の妥当性があるとみる(心理学的妥当論)。

「何故、法は守られなければならないのか」と問うているときに、現実に「法が守られている」、「法が受け入れられている」と言ったところで答えになっていないことは明白だろう。…そこで、社会学的妥当論者は言う。

社会の成員による規範遵守の慣行が一種の規範性を生む(慣行説)。

服部は、この慣行説についてこう言っている。

(慣行説は)一種の「事実の規範力」を説くものであり、法についての真理の一面をついてはいるが、事実に抗って指図を与えるという法の規範性の重要な特性を過小評価している点で問題が残る。

先日の記事「複数性と公共性(3)」で、「アーレントの恐れは、人々が正常な規範にしたがう行動を繰り返すことによって、政治的に従順な生の様式へと馴致されてしまうことにある」という斎藤の記述を引用したが、これは「事実の規範力」を指すものだろう。…しかしこれはちょっと考えただけでもおかしい。「何故、法は守られなければならないのか」と問うているときの答えになっていない。なおかつ「規範遵守の慣行が一種の規範性を生む」というのは、「みんながこれまでずっとそうしてきたから、あなたもそうしなければならない」と言うことと同じであり、まったく説得力がない。

社会学的妥当論者のもう一つの説は、

法を創設しそれを貫徹する者の実力[が規範性を生む](実力説)

服部は、この実力説についてこう言っている。

強制的命令によって規範性が支えられるという法の一面を的確に捉えてはいる。しかし、法定立者の実力は、法の名宛人の服従を引き起こす原因とはなりえても、服従する義務を正当化する理由にはなりえない。

「法を守らなければ、罰するぞ」という脅しが、規範の正当化の根拠となりえないのは誰もがわかると思う。そこで、②の心理学的妥当論だが、

心理学的妥当論に立つ場合に、法規範の妥当性の根拠として挙げられるのが、一定の法規範が社会成員の多くによって受け入れられ、何らかの意味での承認・合意に支えられているという経験的な心理学的事実である。法に対する人々の承認・合意を法の妥当性の源泉と見るこの考え方は承認説とよばれ、「事実の規範力」を重視する見解の1つとしてこれを支持する論者も多い。

この承認説を、「多くによって受け入れられている」ということに力点をおくのではなく、「承認・合意に支えられている」ということに力点をおいて理解するならば、かなり有力な説であると思われる。ただ、これによってナチス立法のような悪法に立ち向かえるかどうかに関しては疑問がある。

 

3.哲学的妥当論

法の規範性を、ただ単に上位規範によって付与されるだけでなく、法が奉仕しようとする法以外の価値・理念によって基礎づけられるものと理解し、法の妥当性をそのような意味における法の規範性と同一視する。この考え方は、法が実現を目指す何らかの法外的な価値・理念に妥当性の根拠を求める(理念説)。

「何故、法は守られなければならないのか」という問いに、「その法が目的とするところの価値・理念」の実現のために、法は守られなければならない、と答えることになる。これによってナチス立法のような悪法に立ち向かうことができるように思われる。ごく普通の常識的な考え方のように思えるが、これに対して服部は次のように述べる。

実定法システムとしての近代法の自立性(近代法システムは、道徳や自然法の諸規範から自立している)を考慮に入れるなら、基本的には法学的妥当論の説く妥当概念と妥当根拠の理解を基礎にして、今日の法システムのあり方を捉えていくべきであろう。

近代法が、道徳規範や宗教規範から(未分化の状態から)自立してきたことは、「法とは何か(2)」で見てきたところである。そこでは、こう述べられていた。

人は、個々の法規範ないし法秩序全体に対し、深い内心レベルでそれにコミットする必要はなく、あくまでも法的な問題処理のために、それらに準拠して行為・判断・評価を行うということさえなされれば、法の規範性としては十分なのである。

理念説は、道徳との関係をどう考えるのか。

いま問うているのは「何故、法は守られなければならないのか」、すなわち「法の規範性は、何によって基礎づけられるのか」という問いである。近代法が道徳規範等から自立してきたという歴史的事実と、いま問うていることは異なる事柄のはずである。そうであるなら、「基本的には法学的妥当論の説く妥当概念と妥当根拠の理解を基礎にして、今日の法システムのあり方を捉えていくべきであろう」ということにはならないと思うのだがどうだろうか。

服部は次のように述べている。

しかし、だからといってそれが、「いかなるものでも法たりうる」(ケルゼン)ことになっては、人々に受け入れられないであろう。この点について、どのように考えれば良いのか。

1つの考え方は、法と道徳の分離を依然として維持しながら、法システムが道徳をはじめとする法外的な諸価値から事実上の影響を受けることを認めようというものである。…この見方は、法以外の価値への関わりをまったくの事実の問題として捉え、これを規範的なコントロールの対象外のものと位置付けている点は不適切だといえよう。

服部は、「法以外の価値を、規範的なコントロールの対象とせよ」といっているように思えるが、「規範的なコントロールの対象とする」とは、どういう意味なのかよくわからない。

もう1つの考え方は、法は実定法システムとして分化自立する過程で、重要な道徳的価値を内部化しており、それに反する「法」は法としての資格を持たない、とするものである。

ここで、「それに反する法」とは、「重要な道徳的価値を内部化していない法」という意味か。このように考えれば、ナチス立法のような悪法に立ち向かえるだろう。これは「道徳等の価値」に根拠を認める点で、「理念説」と言っても良いのではないか。

服部の法システム論は後述されるが、ここでは次のように述べている。

道徳的価値や政治的見解を含め、法システムの外部のさまざまな要素は、それらが法システムの内部構造に適した形を取る場合に限り、法システムの内部へと引き入れられる。そうしたシステムとその外部の間をつなぐ独自のチャネルを通じて、道徳的価値をはじめとする法システム外の要素の影響行使がコントロールされる。この意味で、法は道徳から自立してはいるものの、法独自の観点で道徳規範の内部化をおこなっているのであり、その限りにおいて法と道徳は関連を持つと考えるべきなのである。

独自のチャネルがどういうものなのか分からないが、たぶん後で説明があるのだろう。

 

「ルール制定者」からすれば、ルールは守ってもらわなければならない。一部の人間から、これは悪法だから守る必要はない、などと言われては困る。そこでルールを守らない者にはペナルティ(刑罰)を与える。多数決でルールが定められるのであれば、少数者はそのルールに従わざるをえないのか。

多数者としてのルール制定者と少数者としてのルール受容者の双方の立場から、悪法問題(法は守らなければならない)をみた場合、服部の説明で十分か。

 

*1:ニュルンベルク法(「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」と「帝国市民法」の総称。ユダヤ人から公民権を奪い取った法律として悪名高い。-Wikipedia)が、「非人道的な行為を人々に義務付け」ているのかどうか、ここでは問わない。

*2:もしこの法が特殊な状況における特殊な法律であるというなら、その特殊性は何であるか。現代世界の諸国家の諸立法の中に、類似な法律はないと言い切れるのかどうか。

*3:トップ(憲法)を前に発言を憚るのは、ありうる状況である。