浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「ことば」を欠く者たちへの視線

齊藤純一『公共性』(8)

安保(戦争と平和)の現実と同様に、文末の参考1~3にあげたような現実もしっかりと把握しておくべきだろう。(彼らは「ことば」を欠く者たちではなかろうか)。安保を論ずる人たちは、この現実をどう論ずるのだろうか。

 

私たちは、この世界に、共に生きている。一人では生きていない。私は、ご飯をたべ、野菜を食べ、魚を食べ、肉を食べている。しかし私は、米を作っていないし、野菜を作っていないし、魚を獲っていないし、動物の肉を加工もしていない。生産者のところに出向いて買い付けるということもしていない。「私は一人で生きていきます」などということはありえない。一人では文字通り食べていくことができない。私は、社会のなかで生きている。あまりにも「あたりまえ」のことを言っていると思われるかもしれない。「あたりまえ」だと思ったあなたは、私がいま述べた「あたりまえ」のことが何を意味するのか、よく考えてみてほしい。

私は、本書を読み、この「あたりまえ」のことが何を意味するのか考えていきたいと思っている。

 

今回から、第3章「生命の保障をめぐる公共性」である。タイトルはあまりパッとしないが、本文はなかなか示唆に富む。

公共的に対応すべき生命のニーズをどう解釈し、どう定義するかは、行政に委ねられるべき仕事ではない。生命のニーズが公共的な対応に相応しいかどうかを検討し、それを定義していくことはまさに公共的空間における言論のテーマである。ナンシー・フレイザーの言葉を用いれば、公共性は「ニーズ解釈の政治」が行われるべき次元を含んでいる。

ここで「生命のニーズ」をどう解釈するかが問題とされているのだが、次のような例を考えてみよう。

夫が鬱で休職中、昨年までは給与の8割いただいていたのですが、3年目になって組合からの支給になりボーナスも無くなりました。息子は大学生で仕送りが必要です。貯金を取り崩して生活していますが、残高が心細くなり、そして、このままいくと来年の2月で夫は退職になります。

私が働けたら良いのですが、私自身持病があります。甲状腺機能低下症で疲れやすく、狭心症で無理ができず、今年の春は心臓のカテーテル手術を受けました。更年期障害でしょうか、目がとても疲れやすく、新聞や本を読むのも長時間できません。パソコンも同じです。

こんな体では働く事も出来ず、夫の両親(義母は認知症)の世話や、家族の食事の用意だけで疲れています。でも、何かをしないと我が家は露頭に迷うのは目に見えています。

最終手段で生活保護があるのかもしれませんが、それだけは申請できません。夫の仕事は公務員、保護課のケースワーカーです。息子は頑張って、夢や希望を持って国立大学へ入学しました。それを潰すことはできないので、息子の大学をあきらめさせる事はできません。(http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7571383.html

このストレス社会のなかで、だれもが鬱(うつ)になる可能性がある。この家族の収入はいずれ断たれ、生活が破綻する可能性が大きい。最終的に「生活保護」があるのかもしれないが、受給できるかどうかわからない。「健康で文化的な最低限度の生活」が可能なのだろうか。

 

それを云々する前に、考えておかなければならないことがある。それは、「生命のニーズを、公共的に対応すべきものとしてではなく、私的(個人/家族)によって充足されるべきものとして、公共的空間から追放する脱-政治化の流れ」についてである。ここで、「生命のニーズ」については、次の写真のようなイメージをも持っておきたい。

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http://www.majeproductions.com/wp-content/uploads/2012/10/Image-couverture-Marcel.jpg

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https://d1br7wc30ambms.cloudfront.net/wp-content/uploads/2015/06/depression.jpg

 

斎藤は、こう述べている。

公共的対応を求めるニーズを、家族や親族の手によって充たされるべきもの自らの力によって市場で購買すべきものとして定義する。

そのために用いられるレトリックは、「自助努力」「自己責任」「家族愛」「家族の絆」などである。(「家族化する」「経済化する」に加えて、「市民社会化する」という新たな戦略も付け加えられるべきだろう。そのレトリックは、例えば「市民の活力」であり、「地域の連帯」である)。

(日本では)財政赤字社会保障費削減の文脈で、「自助努力」「自己責任」「家族の絆」「地域の連帯」が叫ばれる。誰もが認めるであろう価値:「自助努力」「自己責任」「家族の絆」「地域の連帯」を根拠にして、「生命のニーズ」を、公共から市場に移行しようという動きなのかもしれない。

「ニーズ解釈の政治」は、私的なものと公共的なものとの境界線をめぐる最も重要な抗争の一つである。この政治が言説の抗争である限り、そこで重要なのは、「言語の資源」が人々の間にどのように分配されているか、である。「ニーズ解釈の政治」においては、言説の資源の非対称性は決定的な重みを持っている。というのも、そこでは最も切実な必要を抱えているはずの人々が「ニーズ解釈の政治」に参入する資源において最も乏しいという逆説的な事態がしばしば起こるからである。自らのニーズを(明瞭な)言語で言い表せない、話し合いの場に移動する自由あるいは時間がない、心の傷ゆえに語れない、自らの言葉を聞いてくれる他者が身近にいない、そもそも深刻な境遇に長い間置かれているがゆえに希望を抱くことそれ自体が忌避されている(「適応的選好形成」とよばれる事態)……。新しいニーズ解釈の提起は新たな資源の配分を請求するものである。そうした請求をするためには、既にある程度の「言説の資源」を与えられてか、あるいは非常な努力によってその資源を自ら創り出していくことが必要になる。

斎藤はここで私たちがつい見落としがちな非常に重要な点を指摘していると思う。「言語の資源」が乏しい人の例が5つ挙げられているが、ここで重複を厭わず、再掲しておく。(上の写真を見ながら読んで欲しい)

  • 自らのニーズを(明瞭な)言語で言い表せない
  • 話し合いの場に移動する自由あるいは時間がない
  • 心の傷ゆえに語れない
  • 自らの言葉を聞いてくれる他者が身近にいない
  • そもそも深刻な境遇に長い間置かれているがゆえに希望を抱くことそれ自体が忌避されている

言語の資源に乏しい人は、議論に参加できない。彼らは、デモクラシーにおいて、少数者(少数意見の持ち主)ですらない。彼らを無視して良いのか。…デモクラシーのもと、議論を尽くして決定した事項が、彼らを抑圧するかもしれないということに思い至らなければならないだろう。

ハーバーマスアーレントの公共性論においては、人々がある程度の資源を手にしていることは半ば自明の前提となっている。自らのニーズ解釈を自分で提起していくための資源が欠けているがゆえに、政治的な存在者としては処遇されず、もっぱら「配慮」や「保護」の対象とみなされているという問題が真剣に受け止められているとは言い難い。「ニーズ解釈の政治」は、必要を充たすという次元のみならず、政治的存在者として「公共的な生」を生きるという次元にも深く関与している。

このことはまた、一国単位に限定して考えるべきものではない。

 

(参考1)2014年の自殺者数

2010年(平成22年)

31,690

2011年(平成23年)

30,651

2012年(平成24年)

27,858

2013年(平成25年)

27,283

2014年(平成26年)

25,427

日本の男性中高年層自殺率は世界でもトップレベルである。OECDは、日本はうつ病関連自殺により25.4億ドルの経済的損失をまねいていると推定している。(Wikipedia)

自殺統計の信憑性に関しては、次のような記事もある。

→ http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20090725

 

(参考2)認知症

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我が国では高齢化の進展とともに、認知症の人数も増加しています。65歳以上の高齢者では平成24年度の時点で、7人に1人程度とされています。なお、認知症の前段階と考えられているMCIの人も加えると4人に1人の割合となりますが、MCIの方がすべて認知症になるわけではありません。また、年齢を重ねるほど発症する可能性が高まり、今後も認知症の人は増え続けると予想されています。(政府広報オンライン

http://www.gov-online.go.jp/useful/article/201308/1.html

 

(参考3)生活保護について(永野海 弁護士 2015年3月16日)

最近、毎月のように「生活保護の受給者・受給世帯が過去最高」[約220万人]というニュースを目にします。過去最高の数字の後に、その後も毎月増加していれば、過去最高になるのは当然なので、もはやニュースソースの価値はないのではないかとも思いますが、それでもこれだけ頻繁に報道されるのは、アベノミクスの一方で貧富の差の拡大を象徴する話としてインパクトがあるのでしょう。

生活保護世帯の増加というニュースを聞くと、不正受給のニュースなども影響して「真面目に働いている人間が損をしている」と感じるなど、否定的な感想を持たれるかもしれません。

しかし、仕事上、毎年、何十人と生活保護受給者を見ている弁護士からすると、「この人には生活保護は必要ないのでは」と思うケースはほとんどありません。重い病気・障がいや不慮の事故による後遺症などを抱えて働けない人、離婚して頼る身内もいない中で子どもを抱えて仕事がどうしてもすぐに決まらない人、高齢で働けず受給できる年金もない人など「仕事を探す努力が足りない」というような言葉で片付けることのできる人は探す方が難しいぐらいです。逆にいえば、現場で保護の実態をみていると、生活保護は、誰が見ても本人の努力不足、意識不足と思うようなケースで簡単に支給されるほど甘い制度ではないように感じます(しばしば生活保護窓口の水際作戦なども問題にされます)。

現在の生活保護制度には、たくさんの問題があると思います。例えば、就労支援のアイデアもまだまだ不足しています。そして、生活保護世帯が増える原因の一つは高齢化の中で年金受給ができない世帯が増加していることですが、現在の年金納付制度をどう改革するのか、年金受給額と生活保護費の逆転現象など生活保護から脱却する意欲を阻害する要因をどう除去していくのかを考える必要があるでしょう。また、生活保護費の大部分を占める医療費の削減問題など、経済が右肩上がりではない中で生活保護費を削減する政策的対応が必要であることは言うまでもありません。(http://jijico.mbp-japan.com/2015/03/16/articles16745.html