平野・亀本・服部『法哲学』(4)
近代法の成立とその諸原理
いきなり近代法とは何々であると言われても、「それがどうした?」と反問されてしまう。私は「法哲学」を学ぼうとしているのであり、教えようとしているのではないから、そんな反問を気にする必要はないのだが、私自身、どんな本でも「それがどうした?」という問いを持ちながら、読んでいきたいと思っているので、それを胸に秘めながら始めよう。
世界大百科事典には、近代法について次のように書いてある。
およそ19世紀初頭までに確立した近代市民社会の法をいう。私有財産の保障や契約の自由等の近代資本主義社会の基本的要請や,それらと密接に関連する政治的な個人主義,自由主義,民主主義等の諸原理によって構成された法秩序。これらの基本的原理は,憲法においては人格の平等,基本的人権の尊重,議会制民主主義,権力分立,法治国家原理等に,また私法においては私的自治の原則,所有権の不可侵性,契約自由の原則,過失責任の原則等に,刑法においては罪刑法定主義の原則等に具体的に示されている。(世界大百科事典 第2版)
このようにいろんなことが書いてあると、「はあ?」となってしまう。これは初心者向けの説明ではなく、いろんな術語の詳しい説明の後の「まとめ」というか定義の文だろうと思う。どこに重点があるのか明確でない。
服部は、端的に次のように述べている。
近代法とは、政治的には近代市民社会の成立を背景としつつ、その経済的基盤である近代資本主義の経済システムを維持する為、かかるシステムの中核に位置する市場メカニズムの基本的枠組みを整備・保障するという機能を担う法システムである。近代市民社会においては、国家が独占的に掌握した物理的強制装置が恣意的に発動されるのを防ぐため、権力行使が法によって規制される(法治主義)。その一方で、人々の水平的な社会・経済関係は、自由で独立した個人が展開する、物やサービスを巡る取引・交渉によって形成・維持される。
市場は、諸個人が互いに対等な立場で交渉し、物やサービスの売買などの取引を行なう場である。自由な経済主体としての個人や企業は、価格と品質を武器にして市場における競争に参加する。そうした自由な主体間の競争を成り立たせ、これを外部から保障する規範の体系が近代法である。近代法は、どのような外的介入・権力的支配からも自由な状況で、ただ当事者同士の競争によってのみ物やサービスの価格が決定されるよう、取引に関する公正なルールを整備するものなのである。
非常に明快である。近代法とは、取引に関する公正なルールを定めるものである。国家権力が取引に介入することなく、当事者の自由な取引を可能ならしめるよう公正なルールを定めるものである。
近代法は、物の売買など取引に関する公正なルールを用意するという機能を果たすため、市場に参加する主体については人格の対等性、その客体に関しては所有権の絶対性、その媒介手段としての契約の自由の3つを基本原理とする。更に故意過失のない限りは各主体に自由な活動を許すことを裏返しに表現した「過失責任の原理」がこれに加えられることもある。これらの諸原理は、自由かつ独立の所有権者が相互の意思の合致に基づいて契約を締結するのを可能にし、ひいては市場全体がうまく作動するために欠かせない条件である。言い換えれば、契約による市民の自由な取引活動を促進することこそ、近代法の諸原理の狙いだった。
ここではこれらの基本原理の内容を詮索する必要はない。近代法とは、取引に関する公正なルールを定め、契約による市民の自由な取引活動を促進するためのものであったと理解しておけば十分だろう。
さて、問題はこれからである。「公正なルール」が定められたのでそれで良し、というわけにはいかなかった。
近代法の限界と現代法の特質
どこがダメだったのか。
第1の問題は、経済力が大企業等の特定の経済主体に集中したことにより、市場メカニズムの効率的な作動が阻害されたことである。市場メカニズムは本来、顧客獲得をめぐる企業間の自由競争を通じて、商品の適正な需給関係と価格が決定されることにより、円滑に作動するものであった。独占企業の出現は、こうした自由競争を妨げ、市場メカニズムの正常な作動を妨げる。だが近代法システムには、こうした事態を十分に予想していなかったし、それに対処する方策も備えていなかった。
そこで現代法は、独占を禁止し、自由競争を確保しようとする。
経済的自由競争を妨げる要因を除去し、市場メカニズムの適正な作動を保障するという、近代法の経済的な側面での限界を補完する機能である。国家からの自由を確保すれば経済的自由競争は可能となるという近代法の前提は幻想に終わった。それゆえ、むしろ国家が、法を通じて積極的に経済秩序に介入し、自由競争を可能ならしめる実質的条件を整備するという任務を負うようになるのである。
http://cache.gawkerassets.com/assets/images/4/2010/04/versusmag.jpg
独禁法と言えば、ちょっと古い話題だが(独禁法の歴史からみれば新しいが)、米司法省対Microsoftのトラスト訴訟(独禁法訴訟)を思い出す。どういう訴訟かというと、
裁判のあらまし…1998年、司法省と米国20州は Microsoft を反トラスト法違反の疑いで提訴し、連邦地裁において裁判が始まりました。同年6月、Microsoft は Internet Explorer を統合した Windows 98 を発売しています。裁判の主な争点は、Microsoft が OS 市場における独占的な地位を利用してメーカーに圧力をかけ、当時ブラウザ市場で圧倒的なシェアを誇っていた Netscape を排除することを試みたかどうか。アメリカの独占禁止法 (シャーマン法) はあらゆる独占を禁じているわけではなく、それが公正な競争の結果であるならば問題ありません。しかし、もし独占に至る過程で非合法な手段を用いたり、独占的な地位を利用してライバルを排除するような行為があれば違法となります。独占企業がシャーマン法に違反している場合、本来あるはずの競争がなくなることで消費者は不利益を被ります。そこで消費者の利益を代弁して、司法省が企業を訴えるのです。
(http://nanapho.jp/archives/2011/05/microsoft-doj-antitrust-settlement-will-ends-may-12/)
Windows 98やNetscapeという懐かしい名前がでてくるが、それはさておき、裁判はどうなったか。2000年、連邦地裁は Microsoft に企業分割を命じる判決を下したが、Microsoftは当然に控訴。2001年の控訴審は地裁の分割命令を破棄し、審理は連邦地裁に差し戻された。
2001年、司法省と Microsoft は和解案を提出。2002年の同意審決に至ります。同意審決で Microsoft は次のような是正措置命令を受け入れています。
・PC メーカーが競合 OS を採用しても報復してはならないこと、
・PCメーカーに対して均一の料金で Windows をライセンスすること、
・PCメーカーが競合ソフトウェアをプリインストールすることを契約で制限しないこと、
・Microsoft 製品が使用していた API やプロトコルを公開することなど。
(http://nanapho.jp/archives/2011/05/microsoft-doj-antitrust-settlement-will-ends-may-12/)
これを見れば、Microsoft は、不適切な手段でライバル企業のビジネスを阻害したと認められる。但し、消費者に被害を与えたか(OS価格が不当に高くなったかどうか)に関しては明確ではない。当然、Microsoftにも言い分はあるわけで、興味のある方は、例えば、http://www.econ.tohoku.ac.jp/~kawabata/02kigyomssuit.pdf 参照。
市場経済の発展は独占企業を生むようになった。自由競争の結果が、勝者を固定化し、自由競争を妨げるようになった。そこで公正な取引ルールの制定だけでなく、独占を禁止するようになった。かっては国家の介入を排除し、自由競争を確保しようとしたのに対し、今度は国家の介入により自由競争を確保しようとする。目指すところは同じである。とするとここに国家の変容があると思われる。このあたり、歴史を勉強しないとよくわからない。
もう一つ、仮に一国内では独占になったとしても、世界を舞台に熾烈な競争が繰り広げられる。グローバルな競争下では独禁法はどうあるべきなのか。しかしここでは、国家が、独禁法に基づき、既存の経済秩序に介入し、「自由競争」を確保しようとしている点を確認しておくにとどめよう。
次に近代法のどこがダメだったかの第2点目。
第2の問題は、近代法が基本原理として想定した「人格の対等性」が、現実には妥当しないことが明らかになったということである。近代法システムには、諸個人を法的・政治的レベルで形式的に平等に扱えば、それで十分だという前提があった。そのため使用者に対する労働者、企業に対する消費者のように、実際には社会経済的弱者の地位に甘んじざるを得ない当事者が存在することを、そもそも予定していなかったのである。
近代法システムのこうした限界に対処する必要が生じると、それまで市場メカニズムの基本的枠組みの保障にその任務を限定されていた国家が、社会経済秩序の形成・維持に積極的に参与することが求められるようになる。消極国家・自由放任国家から積極国家・福祉国家への移行と言われるものがこれである。そして法システムの面からこの現象を見るとき、それは現代法という新たな特質を持つ法システムの登場を意味したのである。
近代法が標榜した自由かつ平等な諸個人という理念は、諸々の社会経済的格差に苦悩する弱者層の存在を看過ないし無視するものであった。そのため現代法は、自由かつ独立の取引主体としての抽象的な人格から、具体的なありのままの人間の姿へとその照準を移行させ、彼ら社会経済的弱者の生存あるいはその実質的な自由・平等にも、真摯な配慮を払おうとするのである。
服部はここで労働者と消費者を並べて穏やかに述べているが、近代法成立後、(特に19世紀末、20世紀初頭の)「諸々の社会経済的格差に苦悩する弱者層」が現実にどのような苦境に陥っていたのかを歴史的事実として把握しておくべきだろう。具体的にどのような人々が、どのような格差に苦悩していたのか、彼らは現実をどう受け止め、どうしようとしていたのか、時の為政者はこれをどうしようとしていたのか。現代の「諸々の社会経済的格差に苦悩する弱者層」とどこが同じでどこが異なるのか。
ここで現代の以下の話を紹介しよう。New York Times紙に載ったAmazonの労働環境に関する告発記事である。(どれだけ本当か分からないが…。Amazonよりは日本企業の方があてはまるかもしれない。)
Amazonに入社してくる新入社員に求められていることは只一つ、「壁を登り続ける」ことであり、そうするためのカードに書かれた14の規則を守ることを求められる。…この記事によると、Amazonの社員(アマゾニアンと呼ばれている)は、限りない高みに上ることが絶えず要求され、泣き言をいう者はもちろんのこと、病気にかかった者までもがたちどころに排除される一方、ドローンを使った宅配の新方法やボタンを押すだけでトイレットペーパーがたちどころに補充されるといった、ビジネス上の新しいイノベーションを発案できた者のみが生き残ることができる猛烈な競争システムの元で会社が成立しているとしている。
しかし、その一方で革新的なビジネスアイディアであれば、部門に関わりなくどんな社員であっても提案することが可能で、例えば、ドローンを使った宅配の新方法は、航空工学もロジスティックスも何も専門知識を持たない、低レベルエンジニアの発案で進められる結果になったものだという。
そのため、アマゾニアンは上から下まで、麻薬中毒患者のように周りを忘れて絶えず、仕事に没頭するようになり、アマゾニアンの間ではこの高みの状態に達した「良きアマゾン社員」のことを「アマボット(アマゾンロボットという意味)」と呼んでいるとしている。つまり、Amazonでは良き社員とはロボットのように働くことでAmazonのシステムに自らを同化させることができるスタートレックでいうところのボーグのような存在となるのである。
(http://www.businessnewsline.com/news/201508230856030000.html)
http://www.borg.media/cost-20-cent-drone-shipping/
日本では、このような人を「企業戦士」とか「社畜」と呼んできた。企業戦士にはプラス・イメージが、社畜にはマイナス・イメージがあるように思われる。私は、そこに共通の精神的貧困を感じる。
なお、ドローンは無人暗殺機とも言われる。