浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

志向性(1) 痛みの感覚は、X を表象している

金杉武司『心の哲学入門』(8)

今回から、第3章「心の志向性」である。「志向性」とはなにか。それはなぜ「心」の基本的特徴といわれるのか。

最初に志向性とは何々であるという定義から入るより、例示からのほうが理解しやすい。

「雨が降っている」という文は、雨が降っているということを、表している。

富士山の絵は、富士山を、表わしている。

この例示を念頭に置けば、次の定義が理解できる。

志向性とは、あるものが何かを表したり、意味したりする働きや、何かに向けられている、あるいは何かについてのものであるという性質のことである。

そうすると、言葉や絵は、志向性を持つ、ということができる。

一般に、「記号」や「表現」として理解されるものはすべて志向性を持つ。

「記号」や「表現」は、何かを表わしているからこそ記号や表現というのではないかと思う。

志向性を持つものは「表象」と呼ばれ、何かを表わす働きは「表象する」と表現される。また、表象の対象となるものや事柄は「表象内容」あるいは「志向的内容」と呼ばれる。さらに、それらの内容は、実際に存在しているものや、実際に成立している事柄である必要がない。(ex.「現在のフランス国王」という語、「地球は平らだ」という文)

このような「志向性」と「心」は、どう関係してくるのか。

志向性を持つものの中には、信念・欲求・感情・知覚といった心の状態も含まれる。例えば、

「雨が降っている」という信念は、雨が降っているということを、表象している。

正広に対する愛情は、正広を、表象している。

目の前にある木の知覚は、目の前にある木を、表象している。

f:id:shoyo3:20151014173943j:plain

http://www.lomography.jp/magazine/196747-junge-meister-05-elena-ayllon

 

では、次のような心の状態は、志向性を持つか(何かを表わしているか)。

もやもやした感情は、(?)を表象している。

痛みの感覚は、(?)を表象している。

もやもやした感情は何にも向けられていない漠然とした感情であるように思われるし、痛みの感覚も同じように、痛み独特の感覚があるだけで、それに加えて何かを表わしているようには思われない。しかし、「表象主義」あるいは「志向説」と呼ばれる立場の論者は、あらゆる心の状態が志向性を持つと主張する。それらの論者によれば、心の状態としての痛みの感覚は、身体状態としての痛みを表象している。

痛みの感覚は、身体状態としての痛み、を表象している。

それ故、…痛みの感覚はあるが、実際には痛みはないということ(つまり、誤った感覚であるということ)もありうる。また、実際に痛みがあるのに、痛みの感覚が生じていないということもありうる。以上の考えを支持するものとしては、例えば、事故などで手足を失った患者が、もはやないはずの手足に痛みを感じるという「幻影肢」の現象や、身体が傷つき身体状態としての痛みは生じているが麻酔をしているために痛みの感覚は生じていないといった現象が挙げられる。また表象主義の論者によれば、もやもやした感情は、身体の一部(例えば内臓)の状態や身体全体の状態を表象する心の状態として理解することができる。

「身体状態としての痛み」とは、何だろうか。よくわからない。金杉は次のように言っている。

心の状態としての痛みの感覚は、身体状態としての痛みを表象している。それゆえ、目の前にある木の知覚が、実際には目の前に木が無いとしても生じ得る(つまり、誤った知覚でありうる)のと同様に、痛みの感覚はあるが、実際には痛みはないということ(つまり、誤った感覚であるということ)もありうる。

「木の知覚が誤った知覚でありうる」というのは理解できる。しかし、「痛みの感覚はあるが、実際には痛みはないということ(つまり、誤った感覚であるということ)もありうる」というのは理解できない。「痛みの感覚はあるが、実際には痛みはない」とはどういう意味か。「痛み」とは、「痛みの感覚」のことではないのか。私には、この文は「痛みの感覚はあるが、実際には痛みの感覚はない」としか読めない。…「幻影肢」の例が出てくるので、この「痛み」を、「痛みを感じるはずの手足」に置き換えてみると、「(手足の)痛みの感覚はあるが、実際には痛みを感じるはずの手足はない」となる。これなら理解できる。しかし、元の文に戻って、「痛みの感覚は、身体状態としての痛み、を表象している」の「痛み」を、「痛みを感じるはずの手足」に置き換えてみると、「(手足の)痛みの感覚は、痛みを感じるはずの手足、を表象している」となる。これまた理解不能である。

では、「麻酔」の例はどうか。「(A)身体が傷つき、身体状態としての痛みは生じているが、(B)麻酔をしているために、痛みの感覚は生じていない」。(B)はわかるが、(A)がわからない。このわからなさは、幻影肢の例と同じである。

表象主義者が、もやもやした感情や痛みの感覚が、志向性を持つというときの説明がどうにも理解できない。この後を読み進めればわかってくるのかもしれない。