浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

風土の樹液  マーク・トビー(Mark Tobey)

大岡信抽象絵画への招待』(11)

マーク・トビー(1890-1976)とは、20世紀西洋人名事典によれば,

米国の画家。元・コーニッシュ・スクール教授。ウィスコンシン州センタービル生まれ。シカゴ・アート・インスティテュートなどで学び、コマーシャル美術の仕事を経て1918年にバハイ教に入信。1934年日本旅行の際に書道に接し、その影響からホワイト・ライティングと呼ばれる神秘的、宗教的抽象絵画を開発。跳ねるように錯綜する線の無限連続でイメージを捉えようとした作風は、バハイ信仰と禅に由来しているものであり、ニューヨークの抽象表現主義の先駆的位置を占める存在であった。代表作に「ブロードウェイ」(1935年)があり、1958年にはベネチア国際ビエンナーレ美術展で国際大賞を受賞。

https://kotobank.jp/word/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF+%E3%83%88%E3%83%93%E3%83%BC-1626929

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http://compassionateseattlehome.org/media-gallery/detail/7429/12675

 

大岡は、こう書いている。

彼の画面を覆う微細な記号の集団は、みごとな筆づかいで描かれたトビー独自の<書>(カリグラフィ)と言えるかもしれない。それらは密集する形態でありながら、同時に光り輝く空間にまで昇華しきっている

「最近『描く行為』を口にする画家たちがいる。しかし、『心の状態』がまず最初の準備であり、それからアクションが生まれるのだ」と彼は書いたことがある。この言葉が大言壮語ではない証拠に、彼のあまり大きくはない画面には、観る者の瞑想を誘う深々とした空間がある。そこに私たちは、この画家における風土とその樹液の結晶を見ることができるだろう。

最初「樹液」という言葉をみて、それは「生命の樹」「イスラム教の天上の樹」の樹液かと思ったのだが、それほどの意味はなく、「風土」のあらわれの修辞的表現ではないかと思う。

大岡はトビーのどの絵を見てこう評しているのかわからないが、私は絵画を見て「風土」を感じることはない、というか「風土」なるものにあまり関心がない。人が生まれ育った環境に影響されるのは自明なことである。物理的環境よりも精神的環境のほうがより重要であり、精神的環境とは、その人が誰と話をしてきたか、どんな本を読んできたか等々に関わるのであってみれば、ことさらに「風土」を感じたり、読み込む必要はないのではないかと思う。

 

トビーの絵を画像検索していて、次の絵が目にとまった。

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WHITE JOURNEY, 1956  http://www.fondationbeyeler.ch/en/collection/mark-tobey

 

この絵を「小さなサイズ」で見ていても、全然おもしろくない。最初素通りしたのだが、少し大きくしたらどうかなと思い、画面いっぱいに大きくしてみたら、随分と印象が変わった。これはパソコン画面で見るのと、実物を見るのとの差でもあろう。そこで「サイズ」について、少し考えてみることにした。

言うまでもなく、サイズを大きくすれば、細かなものが見える。それらが複雑にからみあっているのが見える。逆にサイズを小さくすれば、全体が見えてくる。一見ランダムなものが大きな秩序(構造)のなかの要素であることが見えてきたりする。経験的には、有限の世界のなかで考えるわけであるが、観念的には、無限小・無限大を考えることができる。…とは書いてはみたが、一時期「無限集合」について勉強しようと、本を手に取ってみたりしたのだが、難しくてやめてしまったので、いまは何ともいえない。(カントールとかゲーデルとかの名前だけは覚えているが、そんなものは何の足しにもならない)…観測者がどのレベルで物事を見ているかは、非常に大事な点で、「もっと、ミクロに」と「もっと、マクロに」は、常に心がけているべきだろう。

 

さて、マーク・トビーの上の絵であるが、実物は、113.5 x 89.5 cmなので、実物をみればもっと細部がはっきりするだろう。その微細な部分が、相互につながり、全体を構成する。それはどれだけ意図的なものかはわからないが、何か「宇宙卵」を感じさせるもののようだ。