浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

公共的価値と社会国家(2) 人々の生からどのような生き方が奪われているのか

齋藤純一『公共性』(10)

ニーズについて、再度引用しておこう。

ニーズの中には、私たちが生きていくうえで切実なものであるにもかかわらず、そもそも権利には翻訳しがたいものがある。権利とは強制的な実現を他に迫るものであるが、例えば強制された愛情、強制された友情、強制された思いやり、強制された尊敬はいずれも語義矛盾でしかない。M.イグナティエフが『見知らぬ者たちの必要』において、一方で提起しているのは、現代の社会=福祉国家が公共的に対応しえていない、そうしたニーズの問題である。

ここで、「権利」とは「一定の利益あるいはその利益を守ろうとする意思が、法によって承認され、その実現について国家機関、とくに裁判所による保障を与えられているもの(日本大百科全書)」と理解しておく。

例えば「思いやり」、これは私たちがこの社会で、同じ人間として、共によりよく生きていこうとするときの一つの価値理念といってよいだろう。無視・排除・抹殺ではなく、同じ人間として生きていこうというものである。私はこれは「普遍的な価値理念」と言って良いのではないかと思う。これがダイレクトに「法」になることはないが、いろいろな場面でルールを定めようとするとき、「思いやり」があるかどうかが、法の内容を左右する。そしてまた法の解釈をも左右する。

社会国家は人々が抱く切実なニーズのすべてを充たすことはできない。社会国家がその強制力を持って充足しうるのは、既に権利へと翻訳されているニーズだけである。では、人々が権利として要求できるニーズとは何か。権利としては要求できない、あるいは要求すべきではないニーズとは何か。

現代のリベラルな正義論が精力を傾けてきたのは、両者の境界を設定する規準を明らかにすることである。その基本的なスタンスは、国家が強制力を持って実現すべきものを、人々の生にとって「共約可能な」価値に限定することである。「リベラリズム (liberalism)のきわめて重要な想定は、平等な市民が共約不可能、和解不可能なほど異なった善の諸構想を持っているということである」(ロールズ)。リベラリズムの言う「善の構想」(「善き生の構想」)とは、自らの生を生きるに値するものとする指導的な価値について各人がそれぞれ抱く解釈である。それは、価値が相争う「神々の闘争」の時代には、各人各様に異なり、そこに共約可能性を見出すことはできない。共約可能性を想定することができるのは、各人がどのような「善の構想」を描き、どのような「ライフ・プラン」を追求するのであれ、誰もがより少なくをではなく、より多くを欲する価値についてである。

「共約可能な価値」とは、あまり聞きなれない表現だが、「(最大)公約数的な価値」つまり「みんなが共通に認める価値」といったほどの意味だろう。これは「普遍的な価値理念」といって良い。そうすると、リベラリズムとは、人はさまざまな(自分が正しいと思う)価値を持っている、それは認める、そしてその中から「共通なもの」を取り出し、それを「普遍的な価値理念」として合意しようという考え方のように思う。

ジョン・ロールズは、そうした価値を「基本財=基本的な善きもの」(primary goods)とよぶ。「基本財は、市民のいだくニーズが何であるかを特定するものである。……それは、市民がその[善き生についての包括的な]見方を追求していく際、すべての人あるいはほとんどの人々によって高度に価値のあるものと確実にみなされるものである」(ロールズ)。正義は、この基本財――ロールズが挙げるのは、自由、機会、所得と富、自尊の基礎である――をどのような人々に、いかなる優先順位をもって分配するかについての基本原理である。

ロールズは「基本財=基本的な善きもの」と言っているが、「普遍的な価値理念」と同義だろう。ロールズが挙げるのは、「自由、機会、所得と富、自尊の基礎」であるが、それが「普遍的な価値理念」かどうかはわからない。「普遍的な価値理念」と同定するためには、何らかの民主的な手続が必要となるだろう。ロールズがここで「基本財の分配」というのは、「普遍的な価値理念に基づく諸ルールの制定」といった意味に理解しておきたい。

リベラリズムの特徴は、このように、共約可能な価値を共約不可能な価値から峻別することにある。もし共約不可能な価値(何らかの「善の構想」)が正義を僭称し、公権力によって自らを強制するならば、それとは異なる、それとは競合する「善の構想」を追求する人々の生は極度に抑圧されざるをえないからである。公権力が強制的に実現することのできる価値は、共約可能な価値にのみ限定されねばならない。共約的な価値を公共的価値、非共約的な価値を非公共的価値とよぶならば、リベラリズムの基本関心は、国家の活動を公共的価値の実現という範囲に制約することにある。

普遍性を認められない(偏狭な)価値を「正義」と僭称し、これを強制するならば、他の価値を追求する者の生が抑圧される。これを避けるためには、普遍的な価値として認められたもののみをルール化すべきである。…もちろん、こう言っただけで問題が解決するわけではない。

これに対して、共同体主義 (communitarianism)とよばれる立場は、特定の文化的伝統を背景に持つ共同体の内部では「善の構想」も抑圧なしに共有されうると考える。この立場は、共同体内部の成員にとっての公共的価値を「共通善」として定義するわけである。「共通善」は、成員によって共有される「善の構想」を意味する。

「共通善」を「普遍的な価値理念」と考えれば、小規模のコミュニティでは「共通の価値」を保有しやすいとは言えるが、大規模なコミュニティでは難しい。グローバルなコミュニティでの「普遍的な価値理念に基づく諸ルールの制定」が課題であると思う。

共同体主義が、共同体を国家とは異なる次元に位置付けるのに対して、新保守主義 (neoconservatism)は、共同体を国家と同一視する。第1部でも述べたように、いずれの立場も、人々の複数性を抑圧する同化/排除の機制を免れえない。共同体主義の場合は共同体内の人々の複数性を、新保守主義は諸々の共同体の間の複数性および人々の間の複数性の双方を。

これだけの記述では、何とも言い難い。別途検討したい。

さて、公共的価値とは誰もが――どのような「善き生の構想」を追求していようと――権利として国家に要求できる価値である。その公共的価値を非常に狭い範囲――ロバート・ノージックによれば「暴力、窃盗、詐欺に対する保護、契約の執行等」――に限定し、国家による所得や富の強制的な再分配を明確に否定するのが、自由至上主義 (libertarianism)とよばれる立場である。

「公共的価値とは、誰もが権利として国家に要求できる価値」とは、「普遍的な価値理念に基づき、それを具現化する諸ルールを定める。そのルールの実現について、コミュニティが保障を与えているような価値」と理解しておこう。そうすると、libertarianismは、「普遍的な価値理念」を非常に狭い範囲に限定しようとする考え方であるようだ。

対照的にリベラリズムは、所得や富を公共的価値の内容に含めており、その限りで社会国家による生命の保障を肯定している。公共的価値をどのように定義するかは、それ自体公共的空間における解釈の政治に委ねられるべきテーマだが、公共的価値の一つの解釈としていま最も展望があると思われる構想に言及したい。

「社会国家による生命の保障」とは、欧米諸国(及び日本)の基礎年金制度を想定しているのだろうか。「公共的空間における解釈の政治」という言い方をしているが、「普遍的な価値理念に基づく諸ルール(法)の制定・改廃をめぐる政治」と考えておけば良いだろう。

それは、公共的価値を物質的な財としてではなく、「財と人との関係性」においてとらえ直すインド出身の経済思想家アマルティア・センの構想である。センは、公共的価値を「基本的な潜在能力」として解釈する。「潜在能力」とは、ある人に実質的に開かれている「生き方の幅」(川本隆史)、つまり「人々が行いうること・そうでありうること」の範囲を意味する。センが、公共的価値を「基本財」として定義するロールズらの理論を批判するのは、人々が「基本財」を用いて実際に何をなしうるかという視点が欠落しているからである。仮に等しい「基本財」を与えられたとしても、健康状態、年齢、障碍の有無などの相違によって、人々がなしうることに大きな開きが生まれてくる。重要なのは、一定以上の財を所有していることではなく、人々がその財を用いて何をすることができるか、どういう状態に自らを置くことができるかということである。

私はロールズを読んでいないのでよく分からないのだが、齋藤の言うようにロールズの基本財が「基本財=基本的な善きもの」(primary goods)ならば、「善きもの」(価値理念)に重点があるのであり、物質的な財(所得や金融資産や固定資産)に重点をおいていないのでセンのロールズ批判はあたらないのではないかという気がする。とはいえ「重要なのは、一定以上の財を所有していることではなく、人々がその財を用いて何をすることができるか、どういう状態に自らを置くことができるかということである。」というのはその通りだと思う。

ニーズをgoodsへの必要としてではなく、doings and beings への必要として再定義すべきなのは、そのためである。センの「潜在能力」アプローチが優れていると思われるのは、それが構造化され・制度化された抑圧や差別のゆえに、人々からある「生き方の幅」が失われている事態に光を当てることができるからである。

「潜在能力」アプローチなどと呼ばずとも、「そのルール(法)のもとでは、非常に不利益を被る人がいる。みんなと同じようなことが行えない。彼らのことも考えよう。」と言えば分かる話だろう。

何故に、女性は男性を補助する仕事に就かせられることが多く、その逆ではないのか。何故に、同性愛者のグループは公共の施設への宿泊を拒否されるのか、何故に、ある障碍をもつ子供たちは他の子供たちと共に学び、共に遊ぶ機会を奪われるのか……。センが「潜在能力」として例示するのは、適切な栄養を得ていること、避けられる病気にかかっていないこと、早死にしないこと、文字が読めること、自尊心を持ちうること、友人をもてなすこと、会いたいと思う人に会えること、コミュニティの生活で一定の役割を果たすことなどである。

ここに挙げられていることは、いずれも大事なことである。しかし、「なーんだ、この程度のことなの」という感じもする。もっとラディカルなことを言っているのかと思った。

そのうち誰もが平等になしうべき事柄が「基本的な潜在能力」である。セン自身は、第三世界の現実を踏まえ、「基本的な潜在能力」をある範囲――移動、衣食住、衛生・医療、物理的安全、初等教育に関する事柄――に絞るが、例示された事柄は、私にはすべて基本的であるように思える。私たちの公共的価値を定義するものとして「基本的な潜在能力」が優れていると考えるもう一つの理由は、それが豊かであるとされている生から奪われている事柄にも適切な再解釈の光を投げかけるからである。

「移動、衣食住、衛生・医療、物理的安全、初等教育に関する事柄」をすべて「基本的」な潜在能力と呼んでいいかどうかは疑問である。例えば、「あばら家」から「高級住宅」まである。「病気が著しく進行した後での受診」かた「高度な検査機器を使った予防診断」まである。どのレベルまでが「基本的」か。「基本的」かどうかを、誰がどのように決めるのか。そこが最も重要な論点ではなかろうか。

貧困と呼ばれてきた事態は、センのアプローチからすれば、財の欠如としてではなく基本的な潜在能力の「剥奪deprivation」として把握されねばならない。この「剥奪」という尺度は、第三世界における開発のあり方を批判的に評価することにも実際貢献してきたが、それだけではない。この尺度を用いれば、いわゆる先進国に暮らしている人々の生からどのような生き方が奪われているかもくっきりと浮かび上がってくる。ゆっくりと休養できることの剥奪、薬物の含まれていない食物を摂ることの剥奪、騒音に悩まされないことの剥奪、車社会におけるある人々(例えば高齢者)からの「移動の自由」の実質的剥奪等々である。

「剥奪」という尺度については、次の記事が参考になる。

剥奪(deprivation)アプローチ」とは、イギリスの社会科学者ピーター・タウンゼンドによって開発された個人(世帯)単位の社会調査をもとに人々の生活水準を測る計測方法です(Townsend 1979)。所得データが、その所得によって得ることができるであろう生活水準を表すのに対し、生活水準そのものを直接的に測定しようとするのが剥奪アプローチです。例えば、「1日3食、食べることができるか」「冷蔵庫を持っているか」「病気になった時に医療サービスを受けることができるか」など、実際の生活に必要なものやサービスをリストアップし、それらの欠損を調べることによって貧困の推計を行うことで、より貧困の実態に近い測定ができると考えられています。…剥奪アプローチによる貧困の測定は、国際的にも(所得による貧困指標と並ぶ)貧困指標の柱となってきています。剥奪アプローチは、「剥奪(deprivation)」、「相対的剥奪(Relative deprivation)」、「物質的剥奪(material deprivation)」(項目の中に、物質的なもののみを含む剥奪指標)など、いくつかのバリエーションがあります。(以下、省略)

http://www.hinkonstat.net/%E8%B2%A7%E5%9B%B0%E6%8C%87%E6%A8%99-%E7%B5%B1%E8%A8%88-%E3%81%AE%E7%A8%AE%E9%A1%9E/2-%E5%89%A5%E5%A5%AA-deprivation-%E3%82%A2%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%81/

齋藤は、次のように述べている。

公共性と言う観点からすれば、長期間にわたる「孤独」は基本的な潜在能力の剥奪の一つとして数えられるべきだろう。自らの言葉に耳を傾けてもらえる機会を持ちうることは、政治的存在者としての人間にとって基本的な潜在能力である。センが識字教育を重視するのは、人々が「どういうことを考え、何を必要としているかを自分で考え、それを社会に訴える機会」を逸しないようにするためである。自らの考えを他者に伝える機会を持ちうること――理性を公共的に使用しうる機会を持つこと――は、セン自身の視点からも、基本的な潜在能力の一つとして位置付けられているとみてよいだろう。

 

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「潜在能力」とは、ある人に実質的に開かれている「生き方の幅」、つまり「人々が行いうること・そうでありうること」の範囲を意味するのであった。そうすると、「孤独」とは「話し相手がいない。自分の言葉に耳を傾けてくれる人がいない。」ということである。それは社会のなかで自分が存在しないということに等しい。独り言を言うしかなくなる。街中や駅の構内でもそういう独り言を言う人を見かけることがある。それは精神の病いなのだろうが、私はそういう人を見かけると「なぜ、そんなふうになったのだろうか? 何かがおかしいのではないか」と思う。

それを「潜在能力の剥奪」と言っても良いし、そう言わなくてもそれを「社会問題」の一つとして捉えるべきだろう。

「自らの考えを他者に伝える機会を持ちうること(理性を公共的に使用しうる機会を持つこと)」を、基本的な潜在能力の一つとして位置付ける。それは「コミュニティ」のなかで、共に生きていくための、基本的な条件であり、基本的な「権利」であると思う。