浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

スメタナの交響詩 《モルダウ》 わざ言語 平原綾香

岡田暁生『音楽の聴き方』(4)

平原綾香は、最後のほうにでてきます。)

岡田は、指揮者たちが練習で用いる語彙を、4つのカテゴリーに分類する。

  1. 「もっと大きく」とか「ここからクレッシェンド[次第に強く]して」といった直接的指示。
  2. 「ワイン・グラスで乾杯する様子を思い描いて」といった詩的絵画的な比喩。
  3. 音楽構造に関するものや作品の歴史的文化的な背景についての説明。
  4. 身体感覚に関わる彼らの独特の比喩の使い方。

岡田は、4番目のカテゴリーに注目している。例えば、次のような喩えである。

  •  40度くらいの熱で、ヴィブラートを思い切りかけて (ムラヴィンスキー
  • いきなり握手するのではなく、まず相手の産毛に触れてから肌に到達する感じで (クライバー
  • おしゃべりな婆さんたちが口論している調子で (チェリビダッケ

それまで単なる抽象的な音構造としか見えなかったものが、これらの言葉がそこに重ねられるや否や突如として受肉される。体温を帯びた生身の肉体の生きた身振りとなるのである。

 また岡田は、こうも言う。

一見、絵画的とみえる比喩でも、指揮者の使う言葉はしばしば鮮烈な身体イメージを伴う。例えばスメタナモルダウ》のリハーサルでフリッチャイは、「狩りの音楽」について「ここではもっと喜びを爆発させて、但し、狩人ではなく猟犬の歓喜を」という指示をしている。ここで意図されているのは、静止した詩的な絵画イメージなどではなく、もっと生々しい臨場感――制止もきかず跳ね回り、主人に抱き着こうとする犬たちの、四方八方にこだまする吠え声。小刻みに震える尻尾など――だろう。

 

ここにスメタナモルダウが出てきた。初心者としては、これがどういう曲なのか基礎知識を仕入れておこう。

モルダウ』は、スメタナによる連作交響詩「わが祖国」第2曲である。チェコの象徴・モルダウ(ヴァルダヴァ)河がテーマ。交響詩とは、詩的あるいは絵画的内容を表現しようとする管弦楽曲

ベドルジハ・スメタナ(1824~1884)は同じチェコ出身で後輩格であるドヴォルジャークと共に、土地に根ざした作風を持つ、いわゆる「チェコ国民楽派」として有名な作曲家です。そしてスメタナはヨーロッパ各地で研鑚を積みつつも、やはり自らが生まれ育ったチェコのことが忘れられず、帰国後「ヴィシュフラド(高い城)」「モルダウ」「シャールカ」「ボヘミアの森と草原にて」「ターボル」「ブラニーク」という一連の交響詩を次々と世に出し、祖国への熱い思いを託します。そしてこの6曲は今からちょうど120年前の1882年11月、この順番で連作交響詩「我が祖国」としてプラハにて初演され、大好評を博しました。以来この曲はチェコ国民の愛国心を象徴する傑作として、現在チェコで毎年行われている「プラハの春音楽祭」の初日は決まってチェコフィルハーモニーにより「我が祖国」全曲が演奏される等、スメタナの生涯をかけた愛国心はたくさんのチェコ国民に受け継がれています。http://kuruitans.jp/vltava.htm

スメタナ交響詩モルダウ》 (わが祖国より)

www.youtube.com

もう一つの解説記事によると、

約12分間にわたって演奏される交響詩モルダウ」では、モルダウ川の源流からプラハ市内へと続く、上流から下流への川の情景が非常に鮮明に描写されている

上流~チェコの山奥深いモルダウ川の水源~

まずチェコの山奥深いモルダウ川の水源から雪が溶けて水が集まっていく様子が描かれ、森を抜け、勇壮な狩人が横切る。そして角笛が響き渡り、村の結婚式の傍を行き過ぎ、月明かりの静寂の中、水辺を妖精が舞い踊る。

下流~突然の急流、プラハ市内へ~

やがて、徐々に水量が増えていき、突然の急流に水しぶきが上がる。いよいよプラハ市内に入り、勇壮な古城を讃えるかのごとく華やかな演奏が続き、そしてモルダウ川はプラハ市内を抜け悠然と流れ続けていく・・・

http://www.worldfolksong.com/classical/symphony/moldau.html

 

プラハ市内のモルダウ

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%B4%E3%82%A1%E5%B7%9D#/media/File:Vltava_in_Prague.jpg

 

最初の「ここではもっと喜びを爆発させて、但し、狩人ではなく猟犬の歓喜を」という指示の話に戻るが、

スメタナの音楽は、猟犬の歓喜を表現している」のではない。むしろ逆に、音楽の中に本来内在している強烈な運動感覚が、「猟犬の歓び」という言葉を与えられることで、まざまざと私たちの身体に喚起されてくるのである。フリッチャイはこの箇所の前後で、4本のホルンがひとかたまりになって溶け合うことなく、それぞれが独立して四方から呼び交わし、こだまするような効果を再三求めている。おそらく「猟犬」という比喩も、こうした声部の独立性を詩的に表現したものであろう(ところ構わず跳ね回る犬たちは、兵隊のように行儀よく整列して行進などしないわけだから)。ここでは、音楽が猟犬を表現しているのではなく「猟犬」という言葉が音楽構造の比喩-それも極めて鮮烈な-として機能しているわけである。

 

岡田は、音楽を「語る」ことについて、次のように言う。

音楽は比喩を大量に用いずしては語ることが不可能な、特異な芸術である。それゆえ音楽批評は宿命的に、「~のような」で溢れかえることになる。もちろん「再現部の終わり近くになって、突如として減七和音を介した遠隔調への転調が生じる」と言えば、専門家ならかなり具体的な響きをイメージできるだろう。だがそれでは門外漢にはほとんど理解できまい。一般的な表現を心がけようとするなら、「曲の終わり近くで、魔法の扉のような甘い響きを通して、思いがけない風景が目の前に開かれる」といった表現に頼らざるを得ない。詩人にならざるを得ないのだ。そして「~のような」が主観的な詩的夢想に陥ることなく、まるでパントマイムのように生きた音楽をまざまざと現出させることが出来るかどうかは、まさにそれが「わざ言語」として有効に機能するかどうか、つまりリアルな身体感覚をどれだけ喚起できるかにかかっているのではないだろうか。(P66)

「わざ言語」とは、

生田久美子は、特定の身体感覚を呼び覚ますことを目的とした特殊な比喩を、「わざ言語」と呼んでいる。…(例えば、日本舞踊の師匠は)「指先を目玉にしたら」とか「天から舞い降りる雪を受けるように」といったあいまいな表現を使う。…一つの動作の細部ではなく、どういう身体全体の構えと感覚――生田はそれを「形」に対比させて「」と呼ぶ――でもってそれを行うかが、とても重要なのだ。こうした動作の根源にある「型」の感覚を喚起するのが、わざ言語というのである。

聴衆は批評家ではない。でも、岡田がはじめに述べているように、ただ単に「良かった」「感動した」ではなく、語りあえれば楽しい。「わざ言語」のような表現ができれば望ましい。音楽に限った話ではない。

 

平原綾香の moldau を聴いてみてください。

www.youtube.com

 

平原綾香は、こう語っています。(http://www.e-onkyo.com/news/110/

 歌詞を書き始めたとき、初めに“耳をすませば~”という言葉が聴こえてきました。後で分かったことですが、スメタナは晩年「我が祖国」を作曲したとき、聴覚を失っていたそうです。このフレーズが初めに浮かんだことが、なんだか不思議。流れゆく人生の河を、坂本昌之さんのピアノと私の歌で表現しました。レコーディングしたときの空気感を大切にしたかったので、あえてリップノイズも残してもらいました。どこか、探してみてくださいね。

作詞:平原綾香

耳をすませば なつかしい 幼い日のぬくもり

哀しみの河は 流れゆく 私の記憶飲み込んで

あなたを愛せば せつなくて いつも 何かが足りなくて

涙の空を 孤独の森を 別れを越えて

自由の海に辿り着く そこでまた 会えたらいいのに

なぜ人は言葉 選んだの 抱きあえばすべて 伝わるのに

流れに逆らう心だけが ふたりすれ違った日を知っている

それでも私は流れゆく 消せない思いもそのままに

悩んでも 振り返っても 時は戻らない

それなら未来を見つめたい

愛されなくても愛していたい

ただあなたを愛させて

これは、平原の「わざ言語」かもしれない。