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「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

法システムの構造と機能(2) 「権利」とはなにか? 「表現の自由」に関する国連調査について

平野・亀本・服部『法哲学』(6)

服部は、法システムの構成要素を、1.法規範、2.法的活動、3.法的カテゴリーの3つであるとしている。今回は、2.法的活動、3.法的カテゴリーを検討する。特に、3.法的カテゴリーにおいて、権利義務という最重要な概念を検討するので、ここはしっかりとマスターしておきたい。勿論これで完結というわけではなく、今後折に触れて考えていく。

(なお、前回記事のタイトルを、<法とは何か(6)法システムの構成要素>から、<法システムの構造と機能(1)法規範>に変更します)

 

まず「法的活動」(法的機関の活動)である。

ここで法的活動として挙げられるのは、決定と理由づけである。広義の法的機関は、種々のタイプの決定に向けての準備を行い、実際に決定を下し、決定を理由づける。立法機関が法を制定し、裁判所が判決を下し、行政機関が行政決定など様々な決定を下すというのが、その主要な例である。

法定立法適用が法的機関の活動の中核をなしているが、両者は必ずしも分離されて行なわれるわけではない。規範秩序のある位置における法定立は、より上位の法規範の適用・具体化という側面を持っており、法定立と法適用は相対的な違いでしかない。

他方、このような法的決定において重要なのは、それが理由づけられたものでなければならないということである。…その際、諸々の法規範は、法的決定の前提を提供する役目を果たす。法的決定には、多少の差はあれ、いずれもこうした前提に依拠しつつ理由づけをすることが求められる。理由づけは、決定を下した者が当該決定に至った事実的な心理過程とは区別される、規範的な過程である。つまり、理由づけは、正当化を行なうものなのであって、当該決定が正しいとか、目的にかなっているとか、正義に合致しているとか、理性的であるとかいうことを示す理由を提示するものである。

正当化が成功裡に行なわれることによって、決定は恣意的なものではなくなり、ある程度は計算可能・予見可能なものとなる。その意味で、理由づけは、決定の実質内容を正当なものたらしめるべきだという要請とともに、法的安定性や平等の価値とも繋がっているのである

特に問題はないだろう。

 

次に、いよいよ権利と義務である。どういう概念であるか、しっかりと把握しておきたい。例えば、「基本的人権」に関する、次の説明をみてみよう。

基本的人権とは、人が生れながらにして,単に人間であるということに基づいて享有する普遍的権利をいう。人権思想は自然法思想に発し,まず,(1) 自由権的基本権 (思想,良心,学問,表現の自由など) を確立し,(2) 政治的基本権 (選挙権,請願権など) を保障し,拡充し,次いで (3) 社会経済的基本権 (生存権的勤労権,団結権など) という考え方が生じた。(ブリタニカ国際大百科事典)

ここでは基本的人権の内容として、自由権的基本権、政治的基本権、社会経済的基本権の3つが挙げられているが、これらに共通する「権利」とは、どういう意味だろうか? 

 

服部は、こう言っている。

権利・義務という概念は、種々の人間関係を、法的視点に基づいて構成・分析・処理する際に不可欠の要素として機能する。

学者によって、定義が違うだろうが、服部は次のように定義している。

権利とは、法によって一定の資格者に対して認められる、一定の利益を主張しそれを享受できる力を指す。言い換えれば、人が自己の意思に基づきある物事を行なったり行なわなかったりすることができる、法によって認められた資格・能力が権利と呼ばれるものである。

義務とは、規範の存在を前提とし、それにより人間の意思及び行為に与える拘束のことをいう。義務は一定の規範を根拠としている点で、単なる事実的もしくは心理的な強制・拘束とは区別される。義務には様々なものがありうるが、法的な意味での義務は、法的人格に課せられる、法を根拠とする拘束のことをいう。

売買契約においては、買主の商品の引渡し請求権に売主の引渡し義務が対応する。このように、一般的に権利と義務は、1つの法律関係の表裏をなし、権利には通常は義務が対応するとされる。しかし、行政上の各種の届出義務のように対応する法的権利のない法的義務もあれば、形成権(取消権や解除権がその例)のように対応する法的義務のない法的権利もある。

権利は、公権(公法関係を内容とする権利)と私権(私法関係を内容とする権利)に分類される。

公権は、立法・司法・行政の三権からなる国権のように国または公共団体が有する公権国家的公権)と、参政権自由権・平等権・国務請求権のように私人が有する公権個人的公権)とに分けられる。

私権は、目的とする内容からみて、財産権非財産権(人格権・身分権・社員権・相続権)に、更にその作用からみて支配権・請求権・形成権・抗弁権などに分類される。

上に例示された権利の詳細を検討しだすときりがないので、ここでは漠然としたイメージを持っておけば良いだろう。ただ、公権と私権があること、財産権と非財産権の区別があること位は覚えておきたい。そして何らかの「権利」を問題にするとき、それがどれに該当するのかを頭にいれておけば、無意味に議論が拡散することはないだろう。

服部は、「権利という概念が、どのような事態・状況を指すものとして用いられるか」について、W.N.ホーフェルド(1879-1918)の説を紹介している。

権利という概念は、以下の4つの法的関係のいずれかを指す。

  1. 義務と相関関係にある狭義の権利である請求権 私法上の契約により成立する法的関係の多く。
  2. 他人の権利・請求権から免れ、義務がないということにより特徴付けられる自由 市場において経済的競争への参加主体が享受・行使する自由や、頭を掻いたり散歩をしたりする自由。
  3. 自己の意思により自己及び他人の法的地位を変更できる法的能力である権能 国会の法律議決権、内閣総理大臣指名権。私人については、財産の譲渡、遺言、契約締結などの権能。
  4. 他人から一定の義務を課されないことに対する法的保障である免除 憲法が保障する基本的人権、とりわけ古典的自由権

このような分類が適切であるかどうかよく分からない。先ほどのブリタニカ国際大百科事典がいう「基本的人権」が、ここでは 4.の「免除」の例に挙げられているが、そのような扱いで良いのだろうか。また2.の「自由」と4.の基本的人権のうちの自由権とはどういう関係にあるのか。

 

権利とは何か、他の学者はどう言っているのだろうか。

「権利とは何か」について、さまざまな考え方があり、これまで多くの議論がなされてきた。広くは、一定の利益を享受しようとする意思、あるいは利益そのものが権利であるとする考え方があるが、一般に、法あるいは法規範との関連において、「一定の利益あるいはその利益を守ろうとする意思が法によって承認され、その実現について国家機関、とくに裁判所による保障を与えられているもの」と説明される。しかし、このような定義づけをしても問題は残る。「法によって承認され」というが、それでは、法があるから権利があるのか、たとえば自然法上の権利、道徳的権利は権利ではないのか。また、「裁判所による保障」というが、それでは、裁判で認められなければ、つまり裁判以前には権利はないのか、などの問題である。権利の実現の保障という観点からすれば、裁判によって認められたものだけが権利であるということになるが、そこまで厳密に考える必要はなく、一般に法律によって認められていれば権利であるといってよいと思われる。また、法律がその条文で権利として認知していなくても、国民が権利として確信し、権利主張をし、それが裁判所によって認められ権利として定着した場合には、これを権利ということができる(たとえば、日照権、プライバシーの権利、知る権利、入浜(いりはま)権など)。したがって、権利が制度的なものであるにしても、国民の権利意識の形成、権利主張を通して、新たな権利が形成されていくという側面を見落とすことはできない。(本間義信、日本大百科全書)

「権利」の一般的な理解は、引用で赤字にしたような定義だろう。そうすると、本間が言うように、いろんな疑問が出てくる。「法があるから権利があるのか、たとえば自然法上の権利、道徳的権利は権利ではないのか?」「裁判で認められなければ、つまり裁判以前には権利はないのか?

これについては、次回に考えてみよう。

 

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http://www.nyclu.org/files/2014/07/15/freedoom_1st_place.jpg

 

ここで本書の論旨から外れるかもしれないが、基本的人権の一つである「表現の自由」(自由権)に関する最近のトピックについてふれておきたい。なお、

表現の自由とは、最広義では,情報 (思想,意見,感情等を含む) の流通にかかわる国民の活動の一切が公権力によって妨げられない自由をいう。表現の自由は他の基本権の保障を不断に監視し,かつ民主主義の過程を維持するうえで最も基本的な権利であるとして,しばしばその「優越的地位」が説かれる。(ブリタニカ国際大百科事典)

トピックというのは、12月に予定されていた表現の自由」に関する国連特別報告者の来日調査が、日本政府の要請で来年秋以降に先送りされたという事件である。経緯については、次の記事を参照されたい。

www.amnesty.or.jp

若干の補足をしておくと、今回の国連の「表現の自由」特別報告者デイビット・ケイ氏は、米カリフォルニア大教授(国際法学者)で、国連人権理事会が任命した。特別報告者とは、人権侵害を調査し、「特別手続き」に従って個々のケースや緊急事態に介入するための独立の人権専門家である。

この要請書によると、

本年10月に開催された国連総会第三委員会よりも前に、日本政府は特別報告者に対して、12月1から8日にかけての日本への公式訪問に対する招待を行った。この公式訪問における調査対象には、国連自由権規約委員会が昨年懸念を表明した2013年制定の特定秘密保護法の実施を初め、インターネット上の権利、メディアによる取材報道の自由、知る権利などに関する事項が含まれていた。 

ところが、11月13日ジュネーブの日本代表部は特別報告者に対して、「関係する政府関係者へのミーティングがアレンジできないため、訪問は実施できない」という理由で、2016年秋まで訪問を延期すると示唆した。

国連人権理事会が関心を持っているのは、「特定秘密保護法の実施、インターネット上の権利、メディアによる取材報道の自由、知る権利などに関する事項」である。これらが、「表現の自由」を妨げているのではないかという疑いである。

私はいまこれらを個別に論ずるだけの能力を持っていないので、「表現の自由」を侵害するものであるとは言わない。ただ、政府はこの件に関しては、真面目に対応すべきだと思うし、マスコミは自らの「表現の自由」に関わる話であるから、もっと大きく取り上げてもいいのではないかと思う。

政府は、なぜドタキャンしたのか?

岸田文雄外相は「予算編成作業があり、十分な受け入れ態勢がとれなかった」と述べた。だが、訪日は10月時点で決定しており、延期要請の理由としては説得力を欠き、その対応は不可解だ。(毎日新聞 2015年12月04日)

川村泰久・外務報道官は同日の記者会見で、特別調査官は特定秘密保護法の運用やメディアの表現の自由などについて関心を持っていると明かし、「当初の想定よりしっかりした対応をしなければならないと判断した」と延期理由を説明した。(朝日新聞 2015年11月26日)

こういった新聞記事を読むと、川村外務報道官の「当初の想定よりしっかりした対応をしなければならないと判断した」というのが、正直なところかなという気がする。

もしそうであれば、政府&外務省は、国連人権理事会の調査に、これから1年ほどかけて「理論武装」をしなければならないような行動をとってきたのではないかと疑わせる。

要請書が言うように、「今回の決定は、日本政府の国際人権基準を軽視する姿勢の表れと国際社会から受け止められ、結果として、日本は国内の人権問題を改善する意思が欠如しているとみなされる可能性がある。」と思う。