浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

大きな美しい未知の都会 ヴォルス、リオぺル、フォートリエ

大岡信抽象絵画への招待』(13)

ヴォルス(Wols、1913-1951)

Wikipediaによると、ヴォルスの生涯は次のようなものだった。

ヴォルスことアルフレート・オットー・ヴォルフガング・シュルツェは1913年、裕福なプロテスタントの家庭の息子としてベルリンに生まれた。父アルフレートはワイマール共和国の高級官僚であり、当時の新しい絵画にも理解を示す教養人であった。その息子オットー(ヴォルス)は幼時からバイオリンを習い、絵画、写真、音楽などに多彩な才能を示す少年であった。一家は1919年に父の出身地であるドレスデンに移転。オットーは少年時代の大部分をそこで過ごした。1930年、オットーは当時通っていた高校を退学処分になる。ユダヤ系の級友をかばいすぎたことが原因であったとされる。その前年の1929年には父が死去しており、裕福な家庭に育ったヴォルスの生活はこの頃から変わりはじめ、帰るべき故郷をもたないボヘミアンとしての人生が始まる。(中略)20世紀フランスを代表する文化人であるジャン=ポール・サルトルはヴォルスの作品を高く評価し、ヴォルスはサルトルやアントナン・アルトーの作品の挿絵を担当することとなった。1947年にはドルーアン画廊で第2回の個展を開催。彼の画家としての名声は次第に高まっていった。しかし、常にラム酒の瓶を手放さなかったという彼の体はアルコール中毒に蝕まれており、健康は次第に悪化していった。1951年、腐った馬肉で食中毒を起こしたことが元で死去。38歳の若さであったが、不摂生のきわみにあった彼の風貌は衰え、50歳くらいにしか見えなかったという。

このような生涯を知り、大岡の解説を読むと、ただ単なる「美術鑑賞」にとどまらない何か考えさせるものがある。

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大岡はこう書いている。

ヴォルスの水彩画の小さな画面には、しばしば信じられないほど多様な、錯綜した形態がひしめき、そこから二重、三重のイメージの混淆がたえず湧き起こる。一つの画面が、海底とも星雲とも壁のいたずら描きとも見えてくる。それは微視的な世界の有する独特な魅惑をもっていて、そこに目をさまよわせているうちに、人はいつのまにか長い旅をしてしまうのだ。そしてそのとき感じられる「時」の感触は、この小さな画面が大きな広さと深さを持っていることを実感させる。微視的なものと巨視的なものとの不思議な混同が生じる。これはあるいは、ヴォルスが久しいあいだ写真家として生計をたてていたこととも関係があるかもしれない。写真家はファインダーという窓を通して、局部的なものに思いがけない大きさを見出し、また大きな風景をもある枠の中に取り入れてしまうからである。

「私の夢はすべて非常に大きな美しい未知の都会で起こる」とヴォルスはノートに書きしるした。また、批評家ヴェルナー・ハフトマンはこんなふうに書いている。

「彼の水彩の夢の都会は、地中海の妖気をもっている。街路、広場、旅館、港がきわめて繊細な線で描かれ、目が何時間もそこをまさぐっていられるほどである。それはカフカあるいはクービンが、夢の物語の舞台として考えた奇妙な神秘の場所を思い起こさせる。人間の誰も住まないその場所は、繊細な自律的組織体であって、サンゴのように固有の構造に成長し、画家自身にだけ憩いの場所を与える。」

この絵を見る私とヴォルス(別にヴォルスに限らないが)とは、生きた時代も場所も大きく異なる。人生経験が異なる。彼がどういう思いでこの絵を描いたかわからない。私の人生経験を通してみるものと、彼が彼の人生経験を通して描こうとしたものは大きく異なるだろう。では全く重なるところがないかといえばそんなことはない。「大きな美しい未知の都会」は、私の夢でもある。

 

ジャン・ポール・リオぺル(Jean Paul Riopelle、1923-2002)

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Robe of stars, 1952 http://www.riopelle.ca/sites/default/files/1952_043h.jpg

 

大岡が取り上げているのは、上の絵である。

ジャン・ポール・リオぺルの絵の赤、黄、青、そして白、黒の色斑と滴らし(ドリッピング)の細く鋭い線が織りなす空間は、地殻と天体との双方の極を踏まえてその双方のイメージを平面に一挙に灼きつけたような印象を与える。ここには、色彩の補色関係への細心な配慮が働いているはずだが、絵全体の与える印象は、闇の彼方で爆発を繰り返しつつ、見事な秩序を形づくっている宇宙的な形成力への賛歌といったものであって、画面の構造はその秩序の相似形たらんとしているようである。

私はこの絵に感じるところはないが、大岡の「闇の彼方で爆発を繰り返しつつ、見事な秩序を形づくっている宇宙的な形成力への賛歌」という表現には感心する。(私の宇宙のイメージは、こんなカラフルではない)。

ジャン・ポール・リオぺルは、

1923年にモントリオール生まれ。抽象表現主義の画家・彫刻家。カナダ現代美術の建国の父とみなされている。彼の作品は、オタワの国立美術館、近代美術館、ニューヨーク市グッゲンハイム美術館など、世界中の美術館やギャラリーに収容されている。…彼の最後の主要な仕事は、オマージュ・ローザ·ルクセンブルク(ローザルクセンブルグへのトリビュート)。http://ja.mayberryfineart.com/artist/jean_paul_riopelle

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TRIBUTE TO ROSA LUXEMBURG http://roadtrekingartist.weebly.com/blog/quebec-city-and-levis

 

実物を見たら感じるところがあるかもしれない。

ここに出てくるローザ・ルクセンブルクとは、ポーランドに生まれドイツで活動したマルクス主義の政治理論家、哲学者、革命家(wikipedia)なのだろうか。もしそうだとすると、ジャン・ポール・リオぺルは、どういう思いで、この絵を描いたのか。

 

ジャン・フォートリエ(Jean Fautrier、1898-1964)

Wikipediaによると

1937年、フォートリエは創作活動を再開し、1943年には22の彫刻作品を残した。また同年ゲシュタポナチス・ドイツの秘密国家警察]に捕まり、パリから逃走してシャトネ=マラブリーに避難避難先で連作『人質』を制作した。この作品は1945年に展示され、サルトルなどから「最も戦後的な画家」という賛辞を受けた。

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人質の頭部 1944   http://d1udmfvw0p7cd2.cloudfront.net/wp-content/uploads/2014/05/z4-tokyo-fautrier-a-20140522.jpg

 

大岡は書いている。

「同時代の苦悩の悲壮な象形文字を見出すところまで――苦悩を今日の瞬間から力いっぱい永遠的なるものの世界に突入させるところまで、その苦悩の肉を削ぎ落とそうとする、この最初の試み」と、アンドレ・マルローはフォートリエの1945年の「人質」展序文で書いた。「人質」連作には、まるで一枚の枯葉、土と皮に化してしまったような人間の顔が、幽鬼のように置かれている。拷問され、手足を切断された肉体、凝固し、ほとんど土塊そのものと化しているそれらの肉体は、ナチズムという思想が地上に生み出した惨禍の、おそらく最も寡黙な、そして最も美しい――鎮魂曲のような――証言の一つだった

今日の芸術家が、どれほどの政治的感性、即ち「人間的存在」を(それと意識しないで)抹殺せんとする力に対する感性、を持ち合わせているか知らないが、そういう芸術家がいても不思議ではない。