浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

功利主義(3) 「不満足な豚」と「満足なソクラテス」

加藤尚武『現代倫理学入門』(3)

J.S.ミルの有名な言葉、「満足した豚であるより、不満足な人間である方が良く、満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスである方が良い」を知っている人は多いだろう。「満足した豚」とは、感覚的な=肉体的な=低級な(低俗な)快楽に満足している者である。しかし快楽には、知的な=精神的な=高級な快楽がある。「不満足なソクラテス」とは、知的な=精神的な快楽が充たされていない者のことである。

功利主義者は、「快楽」と「苦痛の不在」が、目的として望ましい唯一のものであるという。功利主義の批判者は、これに対して、「快楽よりも、もっと望ましい価値があるだろう。快楽が望ましい唯一のものであるというのは、豚向きの学説である」という。

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加藤は、次のように書いている。

ミルによれば、功利主義の批判者は、「生活が、快楽より高い目的――快楽より立派で高尚な欲望と追求の対象――を持たないと想定することを、全く卑しい下等なものだ、豚にしかふさわしくない学説だ」と言う。

功利主義の批判者がこのように批判するとき、あなたは功利主義を擁護する立場からこれに反論できるか。

ミルの信念はこうである。「人間存在は、動物的欲望よりも、高められた諸能力を持っているし、ひとたびこの能力を意識させられると、それを満足させないようなものは、幸福とはみなさない」。

ミルの言葉を再掲しよう。(→2015/11/23  功利主義 幸福(快楽と苦痛の欠如) 望ましいもの)

功利あるいは最大幸福原理を道徳の基礎として受け入れる信条に従えば、行為は幸福の促進に役立つのに比例して正しく、幸福に反することを生み出すのに比例して悪であると主張される。幸福とは、快楽と、苦痛の欠如とを意味し、不幸とは、苦痛と、快楽の喪失とを意味する。……快楽と、苦痛からの自由とが、目的としての望ましい唯一のものである。すべての望ましいもの(それは功利主義体系のなかでは、その他のどんな体系とも同じようにたくさんある)は、それ自身に内在する快楽のために、あるいは快楽を促進し苦痛を阻止する手段として、望ましいものである。

功利主義の批判者は、「快楽」を感覚的な=肉体的な=低級な(低俗な)快楽とのみとらえ、知的な=精神的な=高級な快楽をみていない。この両方を知るものは、後者を高く評価する、とミルは言うのであろう。(なお、上の引用中、「苦痛の欠如」と言う表現は適切ではない。「欠如」というのは「在るのが望ましいのに存在しない」ときに使う言葉なので「苦痛の不在」というべきである。)

両方を同じように熟知し、同じように評価し享受しうる人びとは、彼らの高い能力を行使する生存様式の方に、極めてはっきりした優位を与える。ほとんどの人間は、動物的快楽を完全に与えられるという約束と引き換えに、人間より下等な動物のどれかに変えられることに同意しようとはしないであろう。知性ある人間存在は誰でも、馬鹿者になることに同意しないし、教育を受けた人物は誰でも、無知な者になることに、感情と良心を持った人は誰でも、利己的で下劣な者になることに、同意しはしないであろう。…満足した豚であるよりは満足しない人間であるほうが良い。満足した馬鹿者であるよりは、満足しないソクラテスであるほうが良い。

恐らく大部分の人は、「馬鹿者になりたい」「無知な者になりたい」「利己的で下劣な者になりたい」とは思わないだろう。「満足した豚」とは、感覚的な=肉体的な=低級な(低俗な)快楽に満足している者のことである。彼は「馬鹿者」「無知な者」「利己的で下劣な者」である。私は、これは「学歴」とはあまり関係ないように思える。「学生」であるにもかかわらず、また「大学」を卒業したにもかかわらず、「無知な者」「利己的で下劣な者」が多すぎるように感じている(ここでは私の「感じ」を述べているだけである)。病気や貧困やいじめ等に苦しんでいる人のことを考えずに、「自分やその家族が幸福になれば良い」とか、「日本という領土に住んでいない、顔を見たことも無い人のことなど関係ない、どうでも良い」とか言う者は「利己的で下劣な者」と言われても仕方あるまい。ミルが言うように「感情と良心を持った人は誰でも、利己的で下劣な者になることに、同意しはしないであろう」と思うのだが、意外と「感情と良心を持たない人」が多いのかもしれない。何故だろうか。

 

今回の記事のタイトルを<「不満足な豚」と「満足なソクラテス」>としたが、これはミスタイプではない。

満足な豚」とは、感覚的な=肉体的な欲求(食欲と性欲)の充足だけで満足している者である。しかし少し考えてみれば分かるように、そんな人はまずいない。人は感覚的な=肉体的な欲求以外のいろいろな欲求を持つ(いろいろ具体例をあげるまでもない)。それを知的な=精神的な欲求と一括りにするのはどうかと思うが、まあいいとしよう。「不満足なソクラテス」とは、そのような知的な=精神的な欲求を充たそうとしているが、未だ充たされていない者である。「不満足」が望ましいわけではない。

では「不満足な豚」とは、どういう人か。感覚的な=肉体的な欲求以外の欲求を持ちながら(例えば、最新流行のファッションを身に着けたいという欲求)、それが充たされず、感覚的な=肉体的な欲求の充足にとどまっている者のことである。生活保護レベルの生活をしている人は、おそらく「不満足な豚」であろう。次に、「満足なソクラテス」とは、どういう人か。自分の見定めた知的な=精神的な欲求を充足している者のことである。しかし言うまでもなく「知的な=精神的な欲求」は千差万別である。客観的に見て「それはないだろう」と思うものでも、本人にとっては「知的な=精神的な欲求」でありうる。上述の定義では、例えば、最新流行のファッションを身に着けたいという欲求が充たされれば、「満足なソクラテス」である。また、ある「目標」に向かって努力していることに(その目標が実現されていなくても)、生活の充実感を感じていれば、その人もまた「満足なソクラテス」といって良いだろう。

このように見てくれば、「満足した豚であるより、不満足な人間である方が良く、満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスである方が良い」というミルの言葉も、「言い回しは面白いが、大したことは言ってない」ように思える。このミルの言葉は、功利主義批判派の「快楽」の解釈はおかしいという文脈での言葉ととるべきなのだろう。

 

前回(2015/12/15  功利主義(2)エゴイスティックな「幸福の追求」)最後のほうで、「最小限の規制」という小見出しで引用した部分には、続きがある。

すべての人間が聖人となるなら、よい社会秩序ができるだろうが、実現の見込みはほとんどない。これは最高線の倫理である。実際には人間は聖人ではないという前提で、社会の運営方法を設計しなければならない。その時すべての人間に要求される倫理水準は、低ければ低いほど、実現の見込みが高い

その通りだと思う。但し、最後の文章は「実現の見込みが高い」と言っているのであり、「望ましい」と言っているのではないことに留意しておこう。

功利主義の批判者は、そのような低い倫理水準は「豚の倫理」だと批判したらしい。加藤は、次のように書いている。

それでは豚の倫理かと言われてミルは、よせばいいのにむきになって「豚ではなくてソクラテスの倫理だ」と答えてしまった。ミルは自分だって高尚な文化を求めていると見栄を張って、余計な教養趣味を持ちこんだので功利主義を混乱させた。

加藤のミル解釈が妥当かどうかは判断できない(私はミルの著作を読んでいない)。だが、ミルは本当に「見栄を張って、余計な教養趣味を持ちこんだ」のだろうか。加藤がこのように言うのには根拠があるのだろうが、その根拠をどこで説明しているのか分からなかった。

 

加藤は、「大衆社会現象」を引き合いに出して、ミルを評価(批判)している。

ミルは、功利主義が認めるのは、豚の快楽よりはむしろソクラスの快楽だと主張(質的功利主義)する。

両方の快楽を比較するのに十分なだけの教育を与えれば、大衆の文化はソクラテス化する言論の自由が文化を向上させるのも同じシステムで、「両方の快楽を経験した人は、高級文化を選択する」という構造的要因があるからだと主張する。

大衆社会現象は、ミルの啓蒙主義的な期待を裏切る。…大衆文化は「両方の快楽を経験した人は低級文化を選択する」という構造的要因があることの実験報告である。テレビの番組ではつねに悪貨が良貨を駆逐する

「教育」や「大衆社会」や「テレビ」を論じ始めたら、これまた一筋縄ではいかない。表層的な知見だけで、一方的に断じることは避けたい。

加藤は、ミルの動機を推測している。

ミルが、豚とソクラテスという論法で、功利主義が文化的な低俗主義にならないと弁明したことには、

  1. 教育が普及すれば様々な選択を大衆の自由に委ねても文化は低俗化しないという文化主義啓蒙主義
  2. 文化と人間の特性の向上が人間の目的であるという理想主義
  3. 自由な選択は文化の向上をもたらすという自由主義

功利主義的正当化という動機が働いていたと思われる。

ここに挙げられている、文化主義と啓蒙主義、理想主義、自由主義は、もちろんその内容を吟味すべきだが、否定されるべきものではない。「功利主義的正当化」というのは、どういう意味かちょっとわからない。

しかし、ここには深刻な思想的な問題がひそんでいる。功利主義は文化水準の向上というような一元的な価値観でのみ正当化されるような目標を持つか。そもそも功利主義価値多元論を受け入れないのか。そして価値判断の主観性を守ろうとする自由主義価値判断の客観性を前提とする功利主義は本質的に一致するのかどうか。

加藤は、ここでは問いを提出するだけである。「入門者」は、そういう問いが提出されていたということを覚えておけば良いだろう。後日、この問いに立ち返れば良い。

ミルは、これらの難問に対して「豚とソクラテス」の論法を用いれば、一石二鳥いや一石三鳥の解答が出せると信じた。しかし、

  1. 国民の徳性に対して最低限の要求を出し、最小限の規制で十分であるとする最小限主義
  2. 理想主義ではなくて最小限の抵抗で済む法制度を求めるという法治主義
  3. 特定の価値を最善とするのではなくて、国民の自由な選好の最大限を社会的に実現しようとするのだという選好功利主義

の方が、功利主義の本来の良さを示しているように思われる。

ここでも加藤がそう思っていることは分かるが、「何故そう思っているのか」分からない。この後、詳細な説明があることを期待しよう。