浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

志向性(5) 因果的説明と目的論的説明

金杉武司『心の哲学入門』(11)

金杉は、「心の状態は、いかにして何かを表象する[表す]のか?」について、因果的説明と目的論的説明をしている。まず因果的説明について、

心の状態XがYを表象するのは、YがXの原因であり、両者の間に安定した相関関係が成立するとき、かつそのときに限る。

この説明によれば、例えば、目の前の木の知覚[X]が目の前の木[Y]を表象するのは、その知覚[X]の原因が目の前の木[Y]であり、目の前に木があれば大抵は木の知覚が生じるという安定した相関関係がそれらの間に成立するからなのである。

この説明は説得的だろうか。金杉はこの説明には難点があるという。

この因果的説明では、表象の誤りの可能性が説明できない誤表象問題]。表象は一般に誤ることがある。例えば…ひもを蛇に見間違えたとしたら、それは誤った知覚である。因果的説明がこの誤表象の可能性を説明できないのだとしたら、それは因果的説明が志向性の説明として不適切であることを意味する。

蛇の知覚は、知覚の対象が遠くにある場合や対象が見えづらい場合には、ひもを原因として生じることがあり、しかもそのような悪条件の下では、蛇の知覚とひもの間に、ひもがあればたいてい蛇の知覚が生じてしまうという安定した相関関係も成立する。そのような場合、蛇の知覚は誤った知覚であると考えるのが自然である。しかし、以上の関係が認められるならば、因果的説明によると、その場合、蛇の知覚[X]は、蛇を表象しているのではなく、ひも[Y]を表象していることになってしまう。…その知覚は正確には「蛇の知覚」ではなく、「ひもの知覚」と呼ばれるべきである。この知覚が誤った知覚だと考えられるのは、それが、ひもを表象すべきところを、蛇を表象してしまったと考えられるからにほかならない。しかし、因果的説明は、そもそもこの知覚が蛇を表象しているという事実を説明できないのである。このように、因果的説明は誤表象問題に直面してしまう。それゆえ、志向性の説明として適切であるとは言えない。

金杉の説明を要約すれば、実際には「ひも」であるのに、誤って「蛇」と表象することがある、それゆえ因果的説明は適切ではない、ということになろう。

志向性の因果的説明が上記の通りであれば、よく分からない説明である(説得的であるとは思われない)。ただ、金杉の説明には、引っかかるところがある。

「知覚」とはなにか。通常、次のように理解されているのではなかろうか。

知覚とは、一般的には,感覚器官を通して,現存する外界の事物や事象,あるいはそれらの変化を把握すること。広くは,自分の身体の状態を感知することをも含める。把握する対象に応じて,運動知覚,奥行知覚,形の知覚,空間知覚,時間知覚などが区別されるが,いずれの場合にも事物や事象の異同弁別,識別,関係把握などの諸側面が含まれる。(ブリタニカ国際大百科事典)

金杉は、「蛇の知覚は、知覚の対象が遠くにある場合や対象が見えづらい場合には、ひもを原因として生じることがあり、しかもそのような悪条件の下では、蛇の知覚とひもの間に、ひもがあればたいてい蛇の知覚が生じてしまうという安定した相関関係も成立する」と述べていた。これはどういう状況だろうか。目の前に「くねくねした何か」がある(いる)。「視覚」は、「くねくねした何か」をとらえている。これを「ひも」と認識するか、「蛇」と認識するか、あるいは「うなぎ」と認識するかは、「言語」や「記憶」とも関連する。(「ひも」とか「蛇」とか「うなぎ」とか認識しても、その内容がどのようなものであるかは明確ではない)。目の前にあるものが「ひも」であるか「蛇」であるか「うなぎ」であるかは、事前に(見る前に)決まっているわけではない。実際に見て、「記憶」と関連づけて、(言葉の使い方の慣習にしたがって)「ひも」とか「蛇」とか「うなぎ」とかを判定する。目の前にあるものが、科学的な分析の結果、「ひも」とか「うなぎ」と判定されたとしても、ある人が「蛇」であると認識した場合、そのように認識すること、そのように知覚することは「誤り」だろうか。これは「知覚」という言葉の定義に依存するように思われる。金杉は「蛇の知覚は誤った知覚であると考えるのが自然である」と言うが、私には必ずしも「誤った知覚」であるとは思われない。

 

次に、志向性の「目的論的説明」である。

先の例における蛇の知覚は、ひもを表象すべきところで蛇を表象してしまっているがゆえに、「誤り」と評価される。誤表象問題の存在は、表象に、この「べき」で表される規範的な性格があることを示している。志向性の適切な説明は、表象のこの規範的性格をすくいとることのできるものでなければならない

そうだろうか。「ひもを表象すべき」なのだろうか。表象に、「~しなければならない」とか「~してはならない」というような強い「当為」の意味合いがあるとは思われないが、それはさておき、金杉の説明を聞こう。

目的論的説明は、心の状態の原因ではなく結果すなわち行為に着目する。

信念の表象内容の目的論的説明:ある信念がPという表象内容を持つのは、それが、実際にPという状況が成立している場合には、Qという表象内容を持つ欲求とともに、その欲求を満たすQという行為を引き起こすような信念であるときかつその時に限る。

例えば、ある信念が、目の前に水がある[P]という表象内容を持つのは、実際に目の前に水がある[P]ときには、その信念が、水を飲みたい[Q]という欲求とともに、その欲求を満たすような行為、即ち水を飲む[Q]という行為を引き起こすからである

知覚についても同様であるという。「信念」の代わりに「知覚」という言葉に置き換えて、同じ例文が挙げられている。

最初の問いは「心の状態は、いかにして何かを表象するのか?」であった。ところが、この目的論的説明では、「心の状態[信念]が、ある表象状態を持つのは、どのような状態[信念]のときか?」を説明している。また例文(青字)では、「心の状態[信念]が、ある表象状態を持つのは、なぜか?」を説明している。これらは最初の問いと同じなのだろうか。とても同じだとは思えないが、こういう問いもあるだろう。では、こういう問いに対して、上記の目的論的説明は説得力があるだろうか。私は、信念とは「ある事柄についてもたれる確固として動揺しない認識ないし考え」(日本大百科全書)と常識的に理解しているので、ある信念がある表象内容を持つのに、「欲求」や「行為」が関係してくるようには思えない。

金杉の話を聞こう。

この目的論的説明によれば、ある信念が正しい信念であるかどうかは、それがそのとき実際に、欲求を満たすような行為を生み出すかどうかで決まる。例えば、目の前に水があるという信念は、水を飲みたいという欲求があり、実際に目の前に水がある時には、その欲求を満たすような行為、即ち、水を飲むという行為を引き起こすと考えられる。それゆえ、そのような状況では、この信念は正しい信念であることになる。それに対して、水を飲みたいという欲求はあるが、実際に目の前のあるのが毒物であるという場合には、この信念は、毒物を飲むという行為を引き起こしてしまう。これでは欲求が満たされないので、この場合には、この信念は誤った信念であることになる。

今度は、「ある信念が正しい信念であるのはどういう場合か?」を問うている。これは「志向性の説明」なのだろうか。

前段で、水を飲むという行為を引き起こせば、「正しい信念」であり、後段では、そのような行為を引き起こしても欲求が充たされなければ、「誤った信念」であるという。

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ところで、信念になぜ「欲求」が関係してくるのか。

これはつまり、信念(と知覚)の表象内容を、欲求の表象内容に基づいて説明しているということである。

そして欲求の表象内容を説明するのに、「進化論的目的」という概念が持ち出される。

目的論的説明によれば、欲求の本質は進化論的な目的に適う行為を引き起こすことにある。ある行為が進化論的目的に適っているかどうかは、それが、主体の属する生物種の生存確率を上昇させてきたような行為、つまりその生物種の自然選択に役立ってきたような行為であるかどうかによって決まる。

個人の欲求の話かと思っていたら、「進化論的目的」というとんでもないものが出てきた。

それゆえ、欲求の表象内容は、それが信念とともに引き起こす行為のうち、主体が属する生物種の自然選択に役立ってきたような行為はどれであるかによって決まることになる。例えば、ある欲求が水を飲みたいという欲求であるのは、それが信念とともに生み出す、水を飲むという行為が、主体の生物種の自然選択に役立ってきた行為だからに他ならない。

欲求の表象内容の目的論的説明:ある欲求がQという表象内容を持つのは、それが、信念とともに、進化論的目的に適ったQという行為を引き起こすような欲求であるときかつその時に限る。

「水を飲むという行為が、主体の生物種の自然選択に役立ってきた」…?? いったい何を言いたいのだろうか。

以上のようにして、目的論的説明は、心の状態がいかにして何かを表象するのかを説明することができ、しかも、表象の規範的性格をすくいとることができるがゆえに、誤表象問題に直面せずに済む。それゆえ、目的論的説明は志向性の説明として適切である。しかも、目的論的説明は、心の状態の志向性を進化という自然現象によって説明しようとするものであり、物的一元論の枠組みの中に位置づけることもできる。実際、目的論的説明によれば、行為を生み出している信念や欲求、知覚は、自然選択を受けてきた生物種の脳状態ということになるだろう。

以上みてきたように、目的論的説明が、心の状態がいかにして何かを表象するのかを説明することができたとは思われない。また表象の規範的性格をすくいとることができたとも思われない。但し、最後の「行為を生み出している信念や欲求、知覚は、自然選択を受けてきた生物種の脳状態ということになるだろう」は、自然科学的に検討する価値のある仮説であると言えるかもしれない。

金杉は、上記引用のような書き方をしているので、「目的論的説明」に与しているのかと思いきや、そうでもない。

目的論的説明は、誤表象問題とは別のいくつかの問題に直面すると考えられる。

一つは、われわれの欲求の中には、進化論的目的に適っていない行為によって表象内容が与えられるようなものもある。(ex.エベレストに登りたいという欲求、自殺をしたいという欲求)。

もう一つ。進化論的目的という観点から志向性を説明するということは、進化の過程で自然選択を受けてきた生物種のみが志向性を持ちうるということである。

これは「目的論的説明」にたいするかなりの批判ではないか。こういう問題があるというなら、先に引用したような書きっぷりにならないと思うのだが…。

これらの問題をうまく処理できない限り、志向性を十分に説明したとは言えず、それゆえ、志向性を物的一元論のうちに位置づけることが出来るとは結論できない。

金杉は、本章「心の志向性」の最後のところで、次のように述べている。

心の状態が志向性を持つのはなぜかをいかにすれば説明できるのかという観点から考えるかぎりでも、決定的な結論を出すことができなかった。可能性としては、物的一元論が正しいという可能性も二元論が正しいという可能性も残されている。

最初の問いは、「心の状態は、いかにして何かを表象するのか?」だったのではないか。ここでは「心の状態が、志向性を持つのはなぜか?」と言っている。問いがころころ変わっているような気がする。