浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

功利主義(4) 「幸福」の追求は、望ましいことなのか?

加藤尚武『現代倫理学入門』(4)

功利主義の問題点の話に入る前に「利己主義(エゴイズム)」の話をしておこう。「利己主義」とは、「自分の利益を最優先にし,他人や社会全般の利害など考えようとしない態度」(大辞林)である。このように書けば、ほとんどの人は、「私は利己主義者ではない」という。ところが、考えていることと言えば、「自分」と「家族」と「身近な仲間」の幸福(利益)だけである。これを合理化するために、そのような仲間たちによる「快適な空間」を構築し、他の同様な「快適な空間」とリンクしていくことにより、より良い社会が形成される、とする。世界(個人の内面をも含む)に「悲惨な現状」があることを見ようともせず、そしてこれを改善しようと努力している人たちを無視する。これを「利己主義」と言わずして何と言えば良いか。

さて、功利主義はこのような利己主義ではない。そのような利己主義が「立法の原理」となりえないことは言うまでもない。では功利主義のどこに問題があるのか。加藤は、功利主義のどこが問題なのかを5つにまとめて説明している。いずれ「詳細」を検討したいと思っているが、ここでは加藤の記述に従い、批判の要点を概観しておこう。ここで批判の対象となっている功利主義とは、次のようなものである、と理解しておこう。

功利主義は、行為や制度の社会的な望ましさは、その結果として生じる効用(功利、有用性)によって決定されるとする考え方である。ベンサム功利主義は、古典的功利主義とも呼ばれ、個人の効用を総て足し合わせたものを最大化することを重視するものであり、総和主義とも呼ばれる。「最大多数の最大幸福」と呼ばれることもあるが、正確には「最大幸福である。この立場は現在でも強い支持があるが、一方で、さまざまな批判的立場もある。(wikipedia)

 

批判1 単一原理主義の破綻

功利主義の原理からでは「平等」を導き出すことができない。同じような論点で「自由」を導き出すこともできないと言える。10人の人がいて、それを自由人と奴隷に分けた場合と、全員自由人した場合とを比べて考えて、全員自由人にした方が常に幸福の総量が大きいかどうか。自由人と奴隷の差別をした方が幸福(例えばGNP)の総量が大きくなる場合が存在すると主張すれば、功利主義を批判したことになる。功利主義はすべての社会的価値や権利を生み出す第一原理なのではなくて、それらを吟味するひとつの尺度にすぎないということが判明する。功利主義者が「最大幸福の原理は、すべての社会的価値と権利を導き出す唯一の第一原理である」と主張する限りでは、功利主義は間違いである。

功利主義の原理からでは「平等」を導き出すことができない」…功利主義が、「個人の効用[快楽・幸福]を総て足し合わせたものを最大化する」ということであれば、「平等」を導き出すことができないことは誰でもわかるだろう。各人10の効用を10人分集計して、総量は100であるところ、法改正により、9人の効用を各8に減らし、1人の効用を40にすれば総量は112となり、その法改正は望ましいということである。従業員100人分の給与・賞与を総額100減らし、役員の給与・賞与を総額150増やせば、それは功利主義的に望ましい。これは極端な例であるが、最大幸福原理にはそういう意味合いがあるということである。

「自由」に関しても同様であるという。仮に「自由」を「効用」で測ることができるとした場合、自由人と奴隷の差別をした方が効用(幸福)の総量が増大することはあり得る。

この批判の要点は、「最大幸福原理は、すべての社会的価値と権利を導き出す唯一の第一原理とはなりえない」というものである。…ベンサムの次の言葉を思い起こそう。

功利主義 幸福(快楽と苦痛の欠如)望ましいもの 参照)

自然は人類を苦痛と快楽と言うふたつの主権者の支配のもとにおいた。われわれが何をしなければならないかを指示し、われわれが何をするであろうかを決定するのは、苦痛と快楽だけである。一方では善悪の基準が、他方では因果の連鎖がこの玉座に繋がれている。

「行為や制度の社会的な望ましさ」を考える際の原理は、幸福だけではない。自由や平等もある。最大幸福の原理から、自由や平等は導き出せない。この批判は、「幸福」と「自由」や「平等」との関連の再考を迫るものである。

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https://talktomichaelmccartney.files.wordpress.com/2015/12/nobody-can-give-you-freedom-nobody-can-give-you-equality-or-justice-if-you-are-a-man-you-take-it-malcolm-x.jpg

 

批判2 幸福加算の不可能性

幸福は人により、時により、状況により変わるもので、各人の幸福(個人内比較)や多数の人の幸福(個人間比較)を加算することができない。人口、金銭、エネルギー消費、食料としてのカロリー摂取量などは、加算できるが、「のびのびとした学校に通う幸福感」+「健康を維持する幸福感」+「社会に出て出世する幸福感」というような加算はできない。加算ができるためには、あらゆる幸福に共通の要素が含まれていて、それが単位にならなければならない。加算が可能であるためには、それぞれの価値が独立不変である必要があるだろう。しかし「食事の前のビール」と「食事の後のビール」では味が違うから、「食事+ビール」の加算は無意味である。1人の人生における幸福の分配の問題もある。たとえ悲惨と幸福の量がそれぞれ等しくても、悲惨の後に幸福になるほうが、幸福の後に悲惨になるよりも好ましいだろう。

功利主義を聞きかじったことのある人にはお馴染みの批判だろう。ただ、加算不可能の批判に、「確かに、そうですね」と同意して終わるのではなく、功利主義の考え方に何らかの価値を認めるならば、「何らかの工夫をして、加算可能できないか」と考えるべきだろう。現に「幸福の指標化」の試みがみられるところであり、この方面の研究の進展に注目したい。

 

批判3 個体の基準の不在

最大多数とは誰かと言う問題がある。

一体、<何らかの点で影響を受けるすべての者たち>とはどれだけの範囲を含むのか。<全人類?あるいは感覚のあるすべての生き物>を指すのだろうか。人間以外の動物は含まれるのか。善を快楽と、悪を苦痛と同一視する理論は、快楽や苦痛を感じ得るどんな被造物も正当な理由によって無視できるとは思われない。それは今生きている人々だけを含むのか、それとも未来の世代も含むのか。(マッキー、1917-1981)

功利主義ではもともと「個人は本質的な重要性をもたず、重要であるところのもの、即ち快楽ないし幸福の全総計の断片が位置している点として重要であるにすぎない」(ハート)と言われるように、量としての幸福が重要なのであって、その担い手は重要ではない。1人当たりの幸福量(富)が一定で、人口が増えた場合に、最大幸福の増大として評価するかどうかという古典的な難問もある。10人の人が10点の満足点(合計100点)で生きてきたが、人口が増えて、15人の人が7点の満足度(合計105点)で生きるようになった時、功利主義者は「良くなった」と評価するかどうか。

誰についての最大多数かという問題には、受精卵、胎児、植物状態の人、脳死の人、故人、生物種、生態系が含まれるかという問題もある

幸福の総計が問題であるのならば、「個人の幸福」がそれ自体として考慮されることはない。幸福の総計が100から105に増えれば、(少なくとも古典的功利主義者は)「良くなった」と評価するだろう。何故かと言えば、最大幸福原理を「立法」の原理(「行為や制度の社会的な望ましさは、その結果として生じる効用(功利、有用性)によって決定される」)としているからであると思う。

「誰」の幸福かに関しては、「人間社会の立法」を考察対象とする限り、人間以外の生物は論外だろう。もちろん、人間と人間以外の生物(更には無生物の資源等)の関連が問題となる局面においては、何が望ましいかの議論の上、適切な立法がなされねばならない。

 

批判4 義務への動機の不在

功利主義は、個人が自分の不利益を顧みずに義務を果たす「義務を超える自己犠牲」を説明できない。協力の利益を確保するために義務が設定されると功利主義者は説明する。…個人がエゴイズムだけを動機づけとする限り、たとえ道徳法則を守ることが、結果として個人のエゴイズムに長期的には有利になるにしても、道徳法則を守る動機づけが不可能になってしまう。これと反対に、個人がすべて自分の利益を度外視して道徳法則を守るなら、結果として個人に最大限の利益が得られるということは十分に考えられる。つまり反功利主義者の功利主義は成り立つが、功利主義者の功利主義は成り立たない。

義務を、①~しなければならない(命令、作為義務)。②~してはならない(禁止、不作為義務)ものとすると、これは法的義務として、また道徳的義務としても考えられる。では最大幸福原理は、法的義務や道徳的義務とどう関連しているのか。いろいろな命令や禁止事項が、(最大幸福を原理として)法(ルール)として定められれば、その義務は履行されなければならない。「義務への動機」を云々する話ではない。では未だ法(ルール)として定められていないが、道徳的にみて、①~しなければならない(命令、作為義務)。②~してはならない(禁止、不作為義務)という義務に関してはどうか。功利主義が「行為や制度の社会的な望ましさは、その結果として生じる効用[有用性、幸福]によって決定される」というとき、それが「社会的な」望ましさを言っているのだとすれば、それは「個人道徳」について述べているのではない。「社会道徳(義務)」については、既に法(ルール)として定められている。「個人道徳(義務)」については、個人の問題であり、「義務への動機」が不在というのはあたらない。このような批判は、私には「宗教への動機が不在」といって非難しているように聞こえる。

なお、加藤はこの批判を、エゴイズム(利己主義)に関連づけて説明しているが、これは適切とは思えない。

※それは、法的には、③~しなくてもよい(免除)、④~してもよい(許可)となる。以上の命令、禁止、免除、許可に関しては、法システムの構造と機能(1)法規範 参照) 

 

批判5 配分原理の不在

ドンブリ勘定の功利主義には配分原理はありえない。だから例えば健康な1人の臓器を10人の病人に配分するとか、無実の人を犯人にして犯罪の予防効果を上げるとか、伝統芸術の保存を止めて公営賭博場をつくるとか、少数者を犠牲にして多数者が利益を得ることは、どんぶり勘定の功利主義のもとでは正当化される。

加藤が言う「ドンブリ勘定の功利主義」とは、個々人の効用(幸福)を問題とすることなく、社会全体の効用(幸福)の総量の最大化を問題にする功利主義であろう。加藤は、こう言っている。

最大幸福の原理を、「ドンブリ勘定の功利主義」と解するとき、国民の間の所得格差が大きくなっても、国民総生産を多くした方がよいという原則になる。国民総生産の増大が「善」(望ましいこと)なのだから、この立場では「所得格差の拡大はよくない」という主張は成り立たなくなる。「ドンブリ勘定の功利主義」を守れば、平等の原理は守られなくなる。

格差是正よりも経済成長を優先する政策は、加藤に言わせれば「ドンブリ勘定の功利主義」だろう。

現実には、「あからさまな反平等の政策」はありえないだろうが(有権者が黙っていない!)、巧妙に「反平等の政策・立法」が推進されることがありうるので、注意を要する。

いずれにせよ、「最大幸福原理」の功利主義が、配分原理を持たないことは明らかである。