浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

合理性(1) 「欲求」や「信念」はフロギストンか?

金杉武司『心の哲学入門』(12)

志向性」の話は前回で終わり。残りは、第4章「心の合理性」と第5章「心の認識」である。第4章は、1.合理性と因果性、2.消去主義、3.解釈主義、4.不合理性の節に分かれている。今回は、第2節の「消去主義」から始めよう。

 

金杉は次のように述べていた。…心脳同一説とは、「各タイプの心の状態は、特定のタイプの脳状態と同一である」と主張するものである。そうすると、信念や欲求のような心の状態(命題的態度)が、語・文法構造(構文論的構造)を持つとするならば、脳状態もまた語・文法構造(独立要素・構成規則構造=構文論的構造)を持たなければならないということになる。脳状態が、要素・規則構造を持つと言えるならば、それは心脳同一説や機能主義を支持する強い根拠となる。それでは、脳状態は実際に要素・規則構造を持つと言えるのだろうか。これについては、第4章第2節「消去主義」で詳しく扱う。(2015/11/28 志向性(3)信念や欲求は、言語のような仕方で何かを表象するのか?参照)

 

結論を先に言えば、

脳状態には構文論的構造[要素・規則構造]は見出せない。それゆえ、機能主義が考えるように、個々の命題的態度[信念や欲求]が、個々の脳状態によって実現されていると考えることはできない。

そして、消去主義と呼ばれる立場では、個々の命題的態度[信念や欲求]の存在が否定されることになるという。

 

まず、脳状態には構文論的構造(要素・規則構造)は見出せないという点について。

構文論的構造とは、文脈独立的な(即ち、様々な文脈を通して共通の)構成要素が構成規則に従って組み合わされているという構造のことである。

 

われわれの脳は、膨大な数のニューロン(神経細胞)のネットワークである。

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ニューラルネットワークの入力層は感覚器官、出力層は運動器官に相当するので、命題的態度[信念や欲求]に相当しうる脳状態は、中間層かシナプスの重み配置である。したがって問題は、中間層やシナプスの重み配置に構文論的構造を見出せないのは何故か、ということになる。

入力層は感覚器官に、出力層は運動器官に限られることはなかろうが、ここではそれは問題ではない。

まずシナプスの重み配置については、

同一の重み配置によって、複数の人の顔と名前を対応づけることができる。…しかし、重み配置は、それらの対応関係を複数の部分で分担して表象しているわけではない。なぜなら、それらの対応づけを可能にしているのは同じ一つの重み配置全体だからである。…同一の重み配置は、複数のものごとを、それぞれ全体に分散して、重ね合わせるように表象している。それゆえ、シナプスの重み配置のうちに構文論的構造は見出せない。

では、中間層はどうか。

顔と名前の対応関係で言うと、入力層における同一人物の異なる顔写真の興奮パターンは、中間層においていったん同一の興奮パターンにまとめ上げられ、それが名前を表わす出力層の興奮パターンへと変換されている。つまり中間層はある人の「顔」そのものを表象していると考えられる。それでは、この興奮パターンは、ある部分は目を表象し、別の部分は口を表象し、……というような分業体制を取っているのだろうか。答えは否である。…中間層のニューロン群もまた、ものごとを全体に分散して表象している。…それゆえ、中間層にも構文論的構造は見出せない。

脳の構造と機能の詳しいことは分からないが、金杉のこの結論に関しては妥当な気がする。(但し、「興奮パターンは分業体制を取っていない。中間層のニューロン群は、ものごとを全体に分散して表象している。」という記述は正確ではないように思う。)

 

では、欲求や信念といった命題的態度について、どのように考えれば良いのか。

消去主義と呼ばれる立場は、そのようなもの[欲求や信念といった命題的態度]の存在は否定されることになると言う。

消去主義の議論は次のようなものである。

常識心理学は、人々の行為を説明することをその中心的役割とする。…心の状態とは、電子や陽子などが、目に見える様々な物理的現象を説明する物理学の中に登場する理論的存在者であるのと同様に、行為という目に見える現象を説明する常識心理学という理論に中に登場する理論的存在者に他ならない。…正しい理論の理論的存在者はその実在性が認められるが、誤った理論の理論的存在者(ex.フロギストン)はその実在性が否定される。

[欲求や信念といった]命題的態度は、フロギストンと同じ身分にある。…主な理由は、脳状態には構文論的構造[要素・規則構造]がなく、それゆえ命題的態度を脳状態に個別的に対応づけることはできないという点である。

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「欲求や信念が存在しない」とは、消去主義はわれわれの常識に反するのではないか、と金杉は言う。

消去主義が常識心理学を因果的理論として理解するのは、命題的態度[欲求や信念]を、行為の原因として認められてはじめてその実在性が認められるものとして理解しているからである。…因果性を心の本質とみなし、心の実在性を因果性に基づいて理解しているのである。

ここで金杉は疑問を呈する。

心の本質、特に命題的態度[欲求や信念]の本質は因果性にあるのだろうか。そして、命題的態度の実在性は、因果性に基づいて理解されなければならないものなのだろうか。

消去主義は、本当に「欲求や信念の本質は因果性にある」「命題的態度の実在性は、因果性に基づいて理解されなければならない」と考えているのかどうか疑問があるが、それは措いておこう。

 

解釈主義という立場がある。

解釈主義は、因果性から自律したものとしての合理性に、命題的態度[欲求や信念]の本質を見出す。…解釈主義によれば、命題的態度[欲求や信念]にとって本質的なのは、解釈において認められるような命題的態度[欲求や信念]や行為の間の合理的関係が成立するということであり、そのために命題的態度や行為の間に因果関係が成立する必要はない。

この文章は難しい。どういう意味か。心の合理性に関して、金杉は2つの例を挙げている(第1節)。

  1. 拓哉がデパートに行ったとする。彼のその行為は、例えば、「彼は、友人にプレゼントを買いたいという欲求と、デパートに行けば友人へのプレゼントが買えるという信念を持っていたから、デパートに行ったのだ」というように理由に基づいて説明され、理に適った行為として理解される。
  2. 吾郎が、犯人は剛であるという信念を持っているとする。吾郎のその信念は、例えば「吾郎は、慎吾か剛のどちらかが犯人であるという信念と、慎吾にはアリバイがあるという信念を持っていたので、犯人は剛であるという信念を持つようになった」というように理由に基づいて説明され、理に適った信念として理解される。

例1においては、命題的態度[欲求及び信念]と行為の間に理由関係が成立している。

行為は、この理由関係に基づく説明によって理に適った行為として理解できるようになる。

心の哲学では、以上のように欲求・信念などの命題的態度[心の状態]が行為理に適ったものにする関係性を「合理性」と呼び、そのように理に適ったものとして理解された行為を「合理的な」行為とみなす。

例2においては、命題的態度[信念]と他の命題的態度[信念(犯人は剛であるという信念)]の間に理由関係が成立している。

このように、他の命題的態度[信念]を理に適ったものとして説明する際にも、われわれは命題的態度[信念]について語ることがある。

心の哲学では、以上のように欲求・信念などの命題的態度[心の状態]が信念理に適ったものにする関係性を「合理性」と呼び、そのように理に適ったものとして理解された信念を「合理的な」信念とみなす。

合理的説明と解釈について

それゆえ、以上のような合理的関係に基づく説明を「合理的説明」と呼ぶことにしよう。合理的説明は、命題的態度や行為を、ある理由に基づくものとして理解する営みにほかならない。それゆえ、合理的説明は、心の哲学において、しばしば「解釈」とも呼ばれる。

先ほどの解釈主義の引用文のなかに、「解釈において認められるような命題的態度行為の間の合理的関係が成立する」、「命題的態度行為の間に因果関係が成立する」という箇所があった。最初これを読んだとき、「ん? 文章になっていないのでは?」と思った。

これは恐らく、①命題的態度(欲求や信念)行為の間の合理的関係又は因果関係、②命題的態度(欲求や信念)他の命題的態度(欲求や信念)の間の合理的関係又は因果関係、の2つをまとめた表現であろう。

 

ちょっと切りが悪いが、今回の記事はここまで。

次回は、できれば、消去主義と解釈主義に対する私見を述べたいと思う。