浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

法の射程と限界(1) 他人に迷惑をかけなければ、何をしようと自由なのか?

平野・亀本・服部『法哲学』(9)

服部は、法的規制の正当性とその限界について、次のように述べている。

公権力機関による強制の正当性が問われるとき、人々の自由への正当な干渉の形態として、まず第1に挙げられるのは、古典的自由主義者ミルが『自由論』で説いた、他人に対する危害防止のための強制である。このいわゆる危害原理は、リベラルな社会における法による正当な自由制約原理として承認することができよう。

まず、最初の「公権力機関による強制の正当性が問われるとき、人々の自由への正当な干渉の形態として」という表現が問題である。「強制」とか「干渉」という表現が価値判断を含む表現である。「自由」が無条件に望ましいものであり、自由を制限するものは、権力による強制あるいは干渉であって、本来は望ましいものではない、という含みがある。しかし「自由」が無条件に望ましいものであるかどうかは自明ではない。

公権力機関による強制とは、「法令を守れ。守らなければ処罰する。」ということであろう。いまこの法令をルールと呼べば、(民主主義社会においては)「みんなでルールを決め、決めたルールは守りましょう」ということだから、これを「自由への干渉」と言うのは違和感がある。「自由への正当な干渉」と言っても、「正当な干渉」という表現自体がおかしい。「干渉」というのは既に「不当な」ということを含意している。

 

服部は、「自由への正当な干渉」の第1候補として、「他人に対する危害防止のための強制」を挙げている。ミルのいわゆる「危害原理」である。

ミルは、『自由論』の中で、社会の成員に対し法的刑罰等を通じ当人の意思に反してでも正当に権力を行使しうる唯一の目的は、他人に対する危害の防止であると説いた。

同じことであるが、児玉の次の説明がわかりやすい。

個人の自由が(法によってであれ、社会的圧力によってであれ)干渉ないし制限されうるのは、個人の行動が他者に害を与える場合に限られる。(児玉聡)

https://plaza.umin.ac.jp/kodama/ethics/wordbook/harm_principle.html

Aの行動が他者に害を与えるようなものであった場合、Aの行動は、法によって制限されるというものである。これを「危害原理」と理解しておこう。

当然の主張に聞こえるかもしれない。しかし、この「制限される」という部分を、「自由への干渉」と捉え、「法によって制限する」部分を、「権力による強制」と呼ぶのは果たしてどうか。「みんなで決めたルールを守りましょう」と言うことを、なぜ「強制」と言ったり、「自由への干渉」と呼ばなければならないのか。

 

児玉は面白い例(ロバート・N・ベラー、『心の習慣 アメリカ個人主義のゆくえ』からの引用)を挙げている。

「この惑星上のいかなる住人も、ほんのちょっとばかりの自分の空間をもつ権利があると思います。そして、他人の空間を侵害するようなことは良くない。カリフォルニアがどんなところか、どうしてカリフォルニアはこんなに住みやすいのか、私がいつも言っているのはこの点です。ここの住人は、誰かに自分の価値体系に踏み込まれでもしない限り、まずもって他人の価値体系のことなど気にしないで暮らしてゆけます。ここで皆が心得ている大雑把なルールは、こうです。金と好きな人を手に入れたのなら何をやっても結構。但しよその誰かの財産に傷をつけたり、安眠妨害をしたり、ひとのプライバシーに鼻をつっこんだりはしないことこれで万事オーケー家の中でなら、マリファナ吸って麻薬を打って、どんな馬鹿をやらかそうとも、どうぞご勝手に。しかし路上でそれをやらないように。私の子どもに見せないように。どうぞご自分ひとりでおやりください。それなら文句なしです」(ベラー)

f:id:shoyo3:20160202160755j:plain

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d2/Young_woman_with_a_pen_in_the_nose.jpg

 

実にうまい説明である。カリフォルニアには自由の風が吹いている!

「他者に危害を加えなければ(迷惑をかけなければ)、何をしようが自由だ」と考える人が、「頭でっかち」(知ったかぶりに理屈を振り回す人)に多いのではないかと思われる。だが、普段の生活を素直に振り返ってみよう。一体どれほどの「自由」があるといえるだろうか。せいぜいが買い物での商品選択の自由、テレビでどの番組をみるかという選択の自由といった類のものではないか。大部分の時間は、しなければならない仕事をする、勉強をする、食事をする、スポーツをする、おしゃべりをする、眠るなどの、「自由」を意識することなく過ごしている時間ではないか。そしてさまざまなルールのもとに、これらの社会生活を送っている。そのルールの中には「他者に危害を加えてはならない」というものも含まれる。こう見てくれば、なぜ「他者に危害を加えなければ(迷惑をかけなければ)、何をしようが自由だ」と言わなければならないのか分からない。(念のために補足しておくと、危害原理が「個人の自由が制限されうるのは、個人の行動が他者に害を与える場合に限られる」と言うのは、「個人の行動が他者に害を与えなければ、個人の自由は制限されない」ということと同じである)

しかしいま見たように「自由」に大した意味がないとすれば、危害原理の主張に意味があるとは思えない。何かよく分からないが「自由」なるものに絶対的な価値をおいてはじめて、危害原理が意味あるものになるのではないか。

 

ちょっと待て。このような議論こそ、「頭でっかち」の議論ではないか。歴史を顧みない議論ではないか。幻想の民主主義を前提にした議論ではないか。…ルール(法)は、誰がどのように定めるのか? この問いの回答次第では、先の議論は成立しないだろう。独裁政権が定めたルールを考えてみよ。少数派の意見を無視し、多数派による強行採決で定めたルールを考えてみよ。それは、「私たち、みんなが決めたルール」と言えるのか。そのようなとき、「個人の自由が制限されうるのは、個人の行動が他者に害を与える場合に限られる」と主張することには意味があるのではないか。その反論はわからないでもないが、それでも私は、「個人の自由が制限されうるのは、個人の行動が他者に害を与える場合に限られる」と言うのは、あまりにも乱暴な、滅茶苦茶に単純化した議論であると思う。そんな簡単な話ならば、六法全書はいらない。…価値理念を論じているのだと逃げるかもしれないが、その「自由」という価値理念が不明確であるため説得力がない。

 

服部は、「自由への正当な干渉」の第2候補として、リーガル・モラリズムを挙げている。

第2に、売春や猥褻文書頒布などの道徳犯罪に関して、法による道徳の強制、すなわちリーガル・モラリズムの是非が問われる。

この検討は、次回にまわそう。