浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

合理性(3) 不合理な関係と解釈主義

金杉武司『心の哲学入門』(14)

金杉の問いは、「心の本質、特に命題的態度[欲求や信念]の本質は、<因果性>にあるのか?」であったと思う。この問いに、「解釈主義」は、「命題的態度[欲求や信念]の本質は、<因果性>ではなく、<合理性>にある。他の命題的態度[欲求や信念]や行為との間の合理的関係にある。」と答える。前回は、この金杉の説明がよくわからないという話であった。

しかし、このまま読み進めてみよう。…具体例が出てきた。

例えば、ある人がデパートに行くという行為をしたとしよう。この行為の解釈において、タクシーを止めたいという欲求と、水を飲めばしゃっくりは止まるという信念をその人に帰しても、それは解釈とは認められない。デパートに行ったという行為は、それらの欲求と信念が帰されるだけでは、合理的な(理に適った)行為として認めることが全くできないからである。ある解釈が文字通り解釈として認められるためには、行為を合理的なものにする命題的態度[欲求や信念]を帰すことができなければならないのである。解釈に対するこのような要請を「合理性の要請」と呼ぶことにしよう。

合理性の要請:ある人の命題的態度[欲求や信念]や行為を解釈するには、それらの命題的態度[欲求や信念]や行為と合理的な関係を成すような命題的態度[欲求や信念]をその人に帰さなければならない。

上記の例では、「タクシーを止めたいという欲求」や「水を飲めばしゃっくりは止まるという信念」は、「デパートに行くという行為」の解釈として認められない。「デパートに行くという行為」の解釈としては、何かもっと別の欲求や信念がなければならない。

解釈主義によれば、ある人がどのような命題的態度[欲求や信念]を持っているかは、解釈においてどのような命題的態度[欲求や信念]がその人に帰せられるかということに尽きる。したがって、解釈に以上のような合理性の要請が課せられるということは、解釈主義の下では、人びとの命題的態度[欲求や信念]は、必ず他の命題的態度[欲求や信念]や行為と合理的な関係にあるものとして理解されるということになる。解釈主義によれば、他の命題的態度[欲求や信念]や行為と合理的関係を成さない命題的態度[欲求や信念]は、そもそも命題的態度[欲求や信念]として認めることができないのである

「デパートに行くという行為」と合理的関係を成さない「タクシーを止めたいという欲求」や「水を飲めばしゃっくりは止まるという信念」は、そもそも欲求や信念として認めることができない? いったい何を言わんとしているのだろうか。「タクシーを止めたいという欲求」や「水を飲めばしゃっくりは止まるという信念」が、他の命題的態度[欲求や信念]や行為と何の関係もなく生ずることがあり得るのだろうか。また「デパートに行くという行為」と合理的関係を成す欲求や信念があるとすれば、それを「因果関係」と呼んではダメなのだろうか。

解釈主義によれば、「他の命題的態度[欲求や信念]や行為と合理的な関係にない命題的態度[欲求や信念]」とは、存在するが認識できないようなものではなく、もはや存在するとすら認めることのできないものにほかならない。命題的態度[欲求や信念]はその本性上、合理的なあり方をした存在なのである

他の命題的態度[欲求や信念]や行為と無関係な命題的態度[欲求や信念]」など、あり得るのだろうか。

金杉は、命題的態度[欲求や信念]が他の命題的態度[欲求や信念]と不合理な関係にある事例を2つ挙げている。似たような事例なので、ここでは1つだけみておこう。

吾郎は、タバコが身体に及ぼす影響を十分に認識しており、健康であることに価値を見出しているとしよう。これらの点をすべて考慮した結果として、吾郎は、目の前にタバコを吸うべきでないという信念を形成した。それのも関わらず、吾郎は数時間後に、気分を良くしたいという欲求と目の前にあるタバコを吸えば気分が良くなるという信念を理由として、目の前にあるタバコを吸ってしまった。吾郎のこの自制を欠いた行為は、目の前にあるタバコを吸うべきではないという信念と矛盾を来している。…命題的態度[欲求や信念]や行為の間の合理的関係に綻びが生じていると言わざるをえない。

タバコは健康に良くないという信念と、タバコを吸えば気分が良くなる(ストレス解消になる)という信念は両立する。実際にタバコを吸うという行為をなすか否かは、(無数にからみあった要因からなる)状況による。これが普通の、常識的な考えではないか。ところが金杉は、タバコを吸ったことが「自制を欠いた行為」だと言い(たぶん金杉はタバコをすわないのだろう)、信念が「矛盾」していると言い、「合理的関係に綻びが生じている」と言う。しかし私は、実際に、ある時には「タバコを吸わなかった」、またある時には「タバコを吸った」行為には、すべて合理的な理由があると考える(合理的に説明できる。合理的に解釈できる)。

 

金杉は、不思議な言い方をしている。

局所的な不合理性…確かに、命題的態度[欲求や信念]や行為が以上のような不合理なあり方をすることはある。この限りで、解釈における合理性の要請を文字通りに認めることはできないだろう。実際われわれは、このような不合理性の余地を認めるような形で、人々の命題的態度[欲求や信念]や行為を解釈している。とはいえ、以上のような不合理なあり方は、局所的に成立する限りでのみ認められるものだと考えるべきである。

したがって、解釈における合理性の要請は次のように修正されるべきである。

合理性の要請(修正版):ある人の命題的態度[欲求や信念]や行為を解釈するには、大部分において、それらの命題的態度[欲求や信念]や行為と合理的な関係を成すような命題的態度[欲求や信念]をその人に帰さなければならない。

私には、ある行為が「不合理なあり方をする」とは考えられない。そのように言うのは、その行為を合理的に説明(/分析/解釈)できていないからである、と考える。

金杉は、「局所的な不合理性」なるものを認めた。そして次のように問う。

局所的な不合理性は、解釈の中でいかにして、不合理性のままその存在を認められうるのだろうか。

この問いにこう答える。

それは、大部分の合理的なあり方に「支えられる」ことによってである。つまり、ある命題的態度[欲求や信念]や行為と不合理な関係を成してしまう命題的態度[欲求や信念]も、その他の大部分の命題的態度[欲求や信念]や行為とは合理的な関係を成しているのでなければならずそれらの合理的な関係に支えられることによって、解釈の中でその存在を認められるのである。

これは先ほどのタバコの例で言えば、タバコを吸うことは他の信念と合理的な関係を成しているということであろう。そこで、金杉はこう言う。

合理性というものは、全面的に合理的であるか不合理であるかのどちらかでしかないという一枚岩的なものではなく、複合的な構造を持っている。そして、その複合的な部分が互いに支え合う構造を成しているのである。

これまた分からない言い方だ。「合理性は…複合的な構造を持っている」。複合的な構造とはいったい何だろうか? 支え合うとはどういうことだろうか?

 

金杉はさらに、解釈には、合理性の他に、「真理性の要請」も課せられると述べているが、これは省略する。

 

金杉は、本章のまとめで次のように言う。

命題的態度[欲求や信念]や行為の間に合理的関係が成り立つということを手掛かりに心とは何かを考える限りでは、合理性を因果性に支えられたものとして理解する機能主義と、合理性を因果性から自律したものとして理解する解釈主義の2つの選択肢が考えられる。

合理性を命題的態度[欲求や信念]の本質とみなす解釈主義の下では、命題的態度[欲求や信念]や行為が合理的関係を成すように解釈することが求められる。…この合理性の要請は、一切の不合理性を排除する完全な合理性を求めるものとして理解すべきではない。

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心とは何か。命題的態度[欲求や信念]や行為の間に合理的関係が成り立つということを手掛かりに考えていったら、「解釈主義」という考え方が出てきたということのようだが、私にはどういう主張なのかよくわからなかった。

欲求や信念がそれ単独で存在するものではなく、他の欲求や信念そして行為と関係している。状況によっては矛盾したようにみえる欲求や信念が存在する。そんなことは当たり前のことであって、そんなことを再認識したところで、「心とは何か」の解明にどれほどの寄与をしたというのだろうか。…結局のところ、解釈主義とは、「心とは何か」の問いに、どう答えたことになるのか、わからない。