浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

水俣病(1) 普通に魚を食べて、手足が麻痺し、脳が蝕まれ、ついには狂って死んでいく

下の写真をしばらく眺めて、思いを巡らしてみてください。…何の予備知識もなく、この風景を眺めた場合、どのように見えるでしょうか。

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上の写真は、水俣メモリアルです。これは、①水俣病により犠牲となられた方々に対しての慰霊・鎮魂、②水俣病の経験を踏まえ、災禍を再び繰り返さないことの祈念、③水俣病の教訓を後世に伝えること、を目的に作られました(1996年に完成)。

水俣病は、誰もが知っている公害の一つです。次のビデオは、小学校5年生の社会科教材の一つ「公害」です。


NHK for School 社会のトビラ 2011年度 第19回 公害[水俣病]

 

次のビデオもみて下さい(青林舎、1976年度作品)。上記の教材ビデオには見ることのできない、「人間性」に迫る視線が感じられます。少し、長いので後で見てもらっても結構です。(しばらくしてから始まります)

www.youtube.com

 

Wikipedia等の説明から、いくつかピックアップしましょう。

  • 患者には重症例から軽症例まで多様な形態が見られ、症状が重篤なときは、狂騒状態から意識不明をきたしたり、さらには死亡したりする場合もある。一方、比較的軽症の場合には、頭痛、疲労感、味覚・嗅覚の異常、耳鳴りなども見られる。
  • 胎盤を通じて胎児の段階でメチル水銀に侵された胎児性水俣病も存在する
  • 発症後急激に症状が悪化し、激しい痙攣や神経症状を呈した末に死亡する劇症型は、高濃度汚染時期に大量のメチル水銀を摂取し続けたものに見られる。
  • 劇症型には至らないレベルのメチル水銀に一定期間曝露した場合には、軽度の水俣病や、慢性型の水俣病を発症する可能性がある。
  • いったん生じた脳・神経細胞の障害の多くは不可逆的であり、完全な回復は今のところ望めない。
  • 加齢にともなう体力低下などにより水俣病が顕在化する場合も考えられる。
  • 重症例はもちろん、軽症であっても、感覚障害のため日常生活に様々な支障が出てしまう。例えば、細かい作業が出来ず、あるいは作業のスピードが落ちる。怪我をしても気付かず、傷口が広がったり菌が侵入する原因となる。こうしたことから、「危なくて雇えない」などと言われ、職を失ったとする証言は判決文や出版物中に複数存在する。
  • 水俣病公式発見前後、劇症型の激しい症状は、「奇病」「伝染病」などといった差別の対象となった。
  • こうした差別のため、劇症型以外の患者が名乗り出にくい雰囲気が生まれ、熊本大学研究班に送られてくる症例は劇症患者ないしそれに近いものだけとなった。
  • 水俣市では新日本窒素肥料に勤務する労働者も多いことから、漁民たちへの誹謗中傷が行われたり新日本窒素肥料への批判を行う者を差別することも多かった。
  • 水俣病に対しては、発生当初から差別や中傷が行われてきた。2000年代以降は沈静化したとされていたが、2014年5月1日に、水俣病慰霊式の様子がテレビニュースで放映された際、出演しインタビューに応じていた認定患者で水俣市水俣病資料館の語り部の会長を務める男性が、ニュース放映日以降、「いつまで騒ぐのか」などの中傷電話を継続的に受けている実態が明らかになった。

患者の症状は、ビデオをご覧になればお分かりの通り、まことに悲惨なものがあります。自分がそのような症状になった、あるいは身内の者がそのような症状になったと想像してみてください。

しかし、ここで引用したものは、そのことを再度強調するためのものではありません。論点は2つです。

  1. 症状には、軽度から重度まで、幅があること。
  2. 排除-差別の継続

第1点に関しては、ビデオ等ではつい重度の「劇症型」に目を奪われがちですが、軽度や慢性の症状に関しても、日常生活や仕事で大きな不都合となるということ、これにどう配慮するのかが問題になると思います。

第2点に関して言えば、この排除の構造、差別は非常に根深いものであると思っています。これは水俣病患者に限った話ではありません。およそコミュニティの維持にとって、排除・差別の問題は避けられないでしょう。どうしたら良いのか? それはこのブログ全体のテーマでもあります。

  •  日本の高度経済成長期に発生した四大公害病の一つであり、「公害の原点」ともいわれる。
  • 1956年5月1日、新日本窒素肥料水俣工場附属病院長の細川一は、新奇な疾患が多発していることに気付き、「原因不明の中枢神経疾患」として5例の患者を水俣保健所に報告した。この日が水俣病公式発見の日とされる。
  • 1959年7月に有機水銀熊本大学や厚生省食品衛生調査会から出されると、チッソは「工場で使用しているのは無機水銀であり有機水銀と工場は無関係」と主張し、さらに化学工業界を巻き込んで有機水銀説に異を唱えた。これは当時、無機水銀から有機水銀の発生機序が理論的に説明されていなかったことによる。
  • 1959年10月、水俣病発見者細川一院長は、院内ネコ実験により、アセトアルデヒド酢酸製造工場排水を投与した猫が水俣病を発症していることを確認し、工場責任者に報告している。しかし、工場の責任者は実験結果を公表することを禁じた。
  • これは、水銀中毒であることは確かだが、当時、数ある有機水銀のうちのメチル水銀が原因であるという確証が得られなかったことに起因する。この物質がメチル水銀であったことはすぐに判明したものの、初期の曖昧な内容が東大医学部などの反論を招いた。そして、それに対する再反論作成の必要に迫られるなどして原因特定の遅れを招くことになった為である。
  • このころ、清浦雷作・東京工業大学教授はわずか5日の調査で「有毒アミン説」を提唱し、戸木田菊次・東邦大学教授は現地調査も実施せず「腐敗アミン説」を発表するなど、非水銀説を唱える学者評論家も出現し(御用学者)、マスコミや世論も混乱させられた。
  • しかし、排水と水俣病との因果関係が証明されない限り工場に責任はないとする考えかたは、被害の拡散を防ぐための有効な手段をほとんど打てずに経年していく、という重大な問題を抱えることになり、結果として大量の被害者を生みだし、地域社会はもとより補償の増大などで企業側にとっても重篤な損害を生むもとになった。
  • 原因の特定が困難となった要因の1つとして、チッソ水俣工場と同じ製法でアセトアルデヒドを製造していた工場が当時国内に7か所、海外に20か所以上あり、水銀を未処理で排出していた場所も他に存在したにも関わらず、これほどの被害を引き起こしたのは水俣のみであり、かつ終戦後になってから、という事実がある。この事実が化学工業界の有機水銀起源説の反証として利用されて研究が進まず、発生メカニズムの特定をとことんまで遅らせることとなった。
  • 病気の発見から約11年が経過した1967年になり、ようやくチッソ工場の反応器の環境を再現することで、無機水銀がメチル水銀に変換されることが実験的に(いまだ”理論的”にではないことに注意)証明された。
  • 1968年9月26日、政府は、メチル水銀化合物が原因と断定、公害病と認定した。

主要登場人物は、患者、企業、学者、行政です。

企業は、「因果関係が証明されない限り、企業に責任はない」と主張します。当然の主張のように思えます。結果論でものを言わないことが大切です。自分が企業側の当事者であると想像してみてください。因果関係がよく分からない状況の中では、「濡れ衣をきせられて、損害賠償金を支払うことになるのではないか」と思うのではないでしょうか。「疑わしきは罰せず」ではないか。この企業側の論理については後で考えてみたいと思います。

原因究明、因果関係の解明に学者(病院長の細川を含む)が登場します。「有機水銀説」が主張されるが、すんなり通りません。私はこれは、企業側を説得するだけの論拠を提示できなかったためだと思います。上記の引用では、「有毒アミン説」や「腐敗アミン説」を主張する学者を「御用学者」といっているが、本当に御用学者かどうかは分かりません。「マスコミや世論も混乱させられた」というのも本当かどうか分かりません。「マスコミや世論」がまともであれば、それらを「一つの仮説」と受け止めたでしょう。結果論で判断すべきではありません。彼らの説が正しかった可能性を排除すべきではないでしょう。求められるのは学者間の議論です。問題は議論の場と、それでも決着がつかない場合の対処の仕方だろうと思います。

ここで行政というのは、国(厚労省環境省など)や県(環境関連部局)のことです。直接の当事者ではない国や県がなぜ出てくるのでしょうか。規制権限の不行使が問題になるのでしょうが、これについても後でふれることにしましょう。また、国や県は、「私たち」でもあるということに留意すべきと思われます。水俣病患者に国や県が訴えられたということは、「私たち」が訴えられているということです。

 

  • 1959年12月30日には、新日本窒素肥料水俣病患者・遺族らの団体と見舞金契約を結んで少額の見舞金を支払ったが、会社は汚染や被害についての責任は認めず、将来水俣病の原因が工場排水であることがわかっても新たな補償要求は行わないものとされた。
  • 1969年6月14日には、熊本水俣病患者・家族のうち112人がチッソを被告として、熊本地裁に損害賠償請求訴訟(熊本水俣病第1次訴訟)を提起した。被告のチッソは「工場内でのメチル水銀の副生やその廃液による健康被害は予見不可能であり、したがって過失責任はない」と主張していた。
  • 1973年3月20日には、熊本水俣病第一次訴訟に対しても原告勝訴の判決が下された。判決は、「化学工場が廃水を放流する際には、地域住民の生命・健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務を有する」として、公害による健康被害の防止についての企業の責任を明確にした。
  • 1973年1月20日には、水俣病の患者・家族141人、チッソに16億8千万円の損害賠償を求めて提訴(第2次訴訟)。1979年3月1審勝訴、1985年8月16日2審勝訴。
  • 1977年7月1日、環境庁水俣病の患者認定には複数症状の組み合わせが必要との判断条件を環境保健部長通知で伝える。(後天性水俣病の判断条件)…これには、医学的ではなく政治的で不十分であるとの批判があり、この認定から外れた住民(未認定被害者)の救済が今日まで続く補償・救済の主要な問題となってきた。
  • 1980年5月21日、水俣病の発生・拡大について国・県の責任を問う第3次訴訟(原告1362人)が提訴され、1987年3月31日の1審判決、1993年3月25日の2審判決とも全面勝訴となった。
  • 1990年9月には東京地方裁判所で「公式発見後34年以上が経過してなお未解決であることは悲しむべきこと」であるとして水俣病裁判の早期解決を勧告した。その後、熊本や福岡、京都の裁判所でも同じような勧告が続いた。しかし、行政の主体たる国は和解を拒否、福岡高等裁判所は1991年9月、和解協議への参加を拒む国の姿勢を批判。
  • 1995年12月15日、国や原因企業などを相手に損害賠償請求訴訟を起こしていた未認定被害者らは、自民党社会党新党さきがけの連立与党三党による調停を受け入れ、これら訴訟の大半が取り下げられた。このときの政治解決により、被害者には一時金260万円などが原因企業から支払われたほか、医療費の自己負担分などが国や県から支給されており、その対象者は約12,700人に上る。この政治解決を受け入れずに、訴訟を継続したのが水俣病関西訴訟である。
  • 2004年10月15日、最高裁は関西訴訟に対する判決で、水俣病の被害拡大について、排水規制など十分な防止策を怠ったとして、国および熊本県の責任を認めた。…国や熊本県は1959年の終わりまでには水俣病の原因物質およびその発生源について認識できたとし、1960年以降の患者の発生について、国および熊本県に不作為違法責任があることを認定している。…この判決の後、それまで補償を求めてこなかった住民からも被害の訴えや救済を求める声が急増した。
  • 2009年7月:水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法(通称:水俣病救済特別措置法)が成立。その前文において「国及び熊本県が長期間にわたって適切な対応をなすことができず、水俣病の被害の拡大を防止できなかったことについて、政府としてその責任を認めおわびするとともに、公健法に基づく判断条件を満たさないものの救済を必要とする方々を水俣病被害者として受け止め、その救済を図る」ことが定められた。
  • 2014年5月16日、国と熊本県に対し、食品衛生法に基づく被害実態調査と違法性の確認を求める行政訴訟が起こされた。厚生省(当時)は、「すべての魚介類が汚染されているわけではない」などとして食品衛生法の適用を見送った。

この引用をみると、訴訟はすべて終結したような印象を受けるが、そうではありません。未だに係争中の訴訟があります。例えば、「ノーモア・ミナマタ第2次訴訟」です(熊本、東京、大阪の各地裁で裁判中)。

水俣病公式発見の日が、1956年5月1日とされているので、60年を経過してもなお、全面解決となっていないわけです。

 (つづく)