浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

生命倫理学(1) 自己意識を持った存在?

加藤尚武『現代倫理学入門』(8)

生命倫理学では、人工妊娠中絶、安楽死、臓器移植などの問題を扱う。何が問われているのか。

「生きている」とはどういうことか。「植物人間」は人間なのか。「精神異常者」は人間なのか。胎児は人間なのか。奴隷は人間なのか。先天性障害児・奇形児は人間なのか。遺伝子診断で選別をして良いのか。脳死は死なのか。将来に希望を持てず死にたいという者に、自殺ほう助をしてはならないのか。苦痛を避けるための安楽死なら許されるのか。現に存在する植物人間、精神異常者等々にどう対処すべきなのか。(これにお金の問題-貧困の問題がからんできたらどう考えるべきなのか)…思いつくままにあげてみたが、決して解決済みの問題とは思われない。問題は、個別的・具体的に考えられねばならないが、これらに共通する基本的考え方(人間観)があるのではなかろうか。

 

本書第6章「判断能力の判断は誰がするか」は、バイオエシックス生命倫理学)を扱っているが、以上の問題意識を持って読んでいきたい。

 

人格」(person)という言葉が出てくるが、加藤の説明は分かりにくく、ここでつまづく。「人格の範囲」という小見出しで、次のように書かれている。

かつては人格、すなわち生存権を持つヒトの範囲はそのような暗黙にして自明の前提を形作っていた。一人の人格を分割することはあり得なかった。現在では、人格の範囲の自明性が成り立たない。人工妊娠中絶、臓器移植、安楽死に直面して、人間は人格の範囲を決定しなければならなくなっている。

人格という言葉をこのような意味で使う者は、倫理学者以外にいないのではなかろうか。辞書の定義を見ておこう。

デジタル大辞泉によると、

  1. ㋐独立した個人としてのその人の人間性。その人固有の、人間としてのありかた。「相手の人格を尊重する」「人格を疑われるような行為」 ㋑すぐれた人間性。また、人間性がすぐれていること。「能力・人格ともに備わった人物」
  1. 心理学で、個人に独自の行動傾向をあらわす統一的全体。性格とほぼ同義だが、知能的面を含んだ広義の概念。パーソナリティー。「人格形成」「二重人格」
  2. 倫理学で、自律的行為の主体として、自由意志を持った個人。
  3. 法律上の行為をなす主体。権利を有し、義務を負う資格のある者。権利能力。

世界大百科事典によると、

道徳的にすぐれている人を〈人格者〉というように,日本の慣用法においては人格という語は,カント以後のドイツ哲学思想の影響のもとに,理性的存在者として自律的に行為する主体を意味し,その尊厳性を強調する道徳的意味あいを含む語として用いられてきている。しかし,心理学においてパーソナリティpersonalityの訳語として人格という語を用いる場合,それは道徳的な意味あいや価値的な評価は含まない。それは〈人がら〉あるいは〈性格〉の意味にちかく,たとえば〈パーソナリティとは,個人のなかにあって,その人の特徴的な行動と考えとを決定するところの,精神身体的体系の動的組織である〉(G.W.オールポート)という代表的な定義にみられるように,各人を特徴づけ,その人独自の行動様式をもたらす精神と身体の内的・統一的システムを意味している。

加藤がここで使っている「人格」とは、「自律的に行為する主体」の意味であり、「その尊厳性を強調する道徳的意味あいを含む」ものであろう。

しかし「自律的に行為する」というのも、どういうことなのかは自明ではない。

児玉聡は、非常にわかりやすい説明をしている。

「人格とは何か?」という問い…生命倫理学でこの問いが重要になるのは、この問いの答え方次第で、胎児、植物状態や脳死状態の患者などをどう取り扱うかが変わりうるからである。たとえば、人格というのを「自己意識を持った存在」と定義づけるならば、ある時期までの胎児や脳死状態の患者は人格とみなされないことになるだろう。すると、これらの「人格を有しない者」に対しては「人格を有する者」とは別の取り扱い方が許されることになる。

https://plaza.umin.ac.jp/kodama/bioethics/wordbook/person.html

アメリカの哲学者エンゲルハート(1941-)は、次のように言っているという。

すべてのヒトが人格であるわけではない。胎児、乳児、ひどい知恵おくれのヒト、不可逆的昏睡状態にあるヒトなどは、人格でないヒトの例である。自己意識、理性、道徳感覚という3つの特徴が道徳について議論ができる存在を同定する。(エンゲルハート)

加藤は、エンゲルハートの人格概念を次のように要約する。

  1. すべてのヒトが人格なのではない。
  2. 可能的に人格であるもの(胎児)は、現実的な権利(生存権)をもたない。
  3. 自己意識、理性、道徳的感覚をもつ、対応能力のある責任主体が「厳密な意味での人格」である。
  4. 乳児やボケ老人は、「社会的な意味での人格」であり、生存権は有するが、責任と義務を免除されている。
  5. 「厳密な意味での人格」に関してのみ、同意の必要が成り立つ。

1の「すべてのヒトが人格なのではない」というのは、「生物種としてのヒトがすべて自己意識を持っているわけではない」と解するとわかりやすい。

2の胎児が生存権を持たないというのが妥当かどうかは、「生存権」の解釈次第だろう。

3と4の「人格」を「自己意識を持った存在」と置き換えると、違和感がある。「社会的な意味で自己意識を持った存在」とか、「厳密な意味で自己意識を持った存在」というのは、何を言っているのかわからない。3と4に関しては、「厳密な意味」とか「社会的な意味」とか訳のわからないことを言うのではなく、行為主体の状況に応じて、「ある行為」の評価をし、責任と義務を定めれば良い。そのような状況や評価は法(ルール)として定められる。5の「同意の必要が成り立つ」というのは意味不明。「対応能力のある責任主体」ならば、「議論して物事を決めよう」ということだろうか。

人格について語られるのは、ひとが正当な理由で賞罰を下すことができ、道徳生活の核心部で、ある役割を演じうるような存在を同定するためである。そうした存在が道徳に関する議論に参加しうるためには、彼らが自分自身について反省することが必要だろう。それゆえ彼らは自己を意識しているのでなければならない。道徳共同体の可能性を思い浮かべるためには、自分や他人にとっての行為規則を考えることができる。すなわち理性的存在者である必要があろう。(エンゲルハート)

まあ、学者らしい言い回しというところだろうが、「理性的な人間ならば、よりよき社会をつくるために、よく話し合ってルールを決めていこう」ということを言っているにすぎないと思われる。つまり、大したことを言っていない。ただし、現実認識が「理性的存在者がいない」というのならば、それなりの意味ある言明かもしれない。

道徳的判断力をもつ自己意識的・理性的存在者というのが「人格」の定義である。要するにまともな判断力をもった人間のことである。それはしばしば「対応能力」(competence)という言葉で表現される。この言葉が「人格としての能力」とほとんど同じ意味で使われる。人格は他の人格に対して、対応・応答する能力、すなわち責任能力をもち、人格同士は互いに匹敵し、対等に対応しあう。

「対応能力」という新しい言葉を持ち出しているが、上記エンゲルハートと同じことを言っているのであろう。

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http://www.paulkiritsis.net/psychosis.jpg

 

人格は、自分自身と自分の関心事を、自分自身の言葉で表現することができる。しかし、人格でない有機体の場合には他の人びとが彼らのために選択してやらなければならない。対応能力を備えた成人の患者は、自分の関心事を自分の言葉で表現することができる。人格は自己立法者である。乳児、ひどい知恵遅れの人、自分にとっての負担や利益の序列を自分一人では決められないような人には人格(という概念)はあてはまらない。(エンゲルハート)

ここで「人格でない有機体」とは、「乳児、ひどい知恵遅れの人、自分にとっての負担や利益の序列を自分一人では決められないような人」である。

当然、胎児は人格ではない。新生児、乳児はもちろん、子どもは生まれて数年を経ないと人格にはならない。植物状態の人や重度の知的障害者やいわゆる「ボケ老人」は人格ではない。植物状態の人や脳死者は人格ではない。とすると生後2年の子どもを、異常性欲者が殺害した時、知能の発達したチンパンジーを実験者が誤って殺害した時よりも罪が軽いということになる。また強度のボケ老人の身体を、移植用に適するならば自由に利用して良いということになる。胎児、植物状態の人、脳死状態の人を実験用に使う、血液、血管などの再生可能器官の算出機として使うという可能性が考えられる。

 「人格でない」というのを、「人間ではない」と理解すると、「ボケ老人」や「植物状態の人」は、本当に「人間ではない」と言ってよいのかという疑問に答えなければならない。YESと答えるならば、それらを自由に処分して良い(細かい論議は別にして)。

「人格でない」というのを、「自己意識を持った存在ではない」と理解すると、「自己意識を持たない存在は、自由に処分して良い」という帰結は自動的には出てこないと思われる。議論をすすめなければならない。

 

道徳的な応答、責任の能力の有無で、人格か否かを決定する尺度にするというのが、バイオエシックス生命倫理学)の主流をなす考え方である。しかし、人格の範囲からもれた乳児、幼児、老衰者に生存権を認めないということは、社会的に許容されることではない。そこで、エンゲルハートは対応能力を現に所有している「厳密な意味での人格」と、その人格の保護などのために社会的に生存権を与えられた「社会的な意味での人格」とを分けて設定している。

これだけではまだ分からない。議論をすすめなければならない。