浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

心と体の相互作用

ラマチャンドラン,ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』(21)

ラマチャンドランは、想像妊娠の話を取り上げている。想像妊娠とは、

妊娠したいと思い詰めていると――妊娠を極度に恐れているケースもときおりあるが――本当の妊娠の兆候や症状がすべて出てしまう場合がある。腹部は、後ろにそった姿勢と不可解な脂肪の蓄積に助けられて、ものすごくふくらむ。乳首も妊婦と同じように色素が沈着する、月経も止まるし、乳汁も分泌し、つわりがあって、胎児の動きも感じる。すべてが正常に見えるが一つだけちがう――赤ん坊がいないのだ。

モンロー博士が診察したメアリー・ナイトは想像妊娠だった。

どう言えばいいのか。すべては彼女の頭の中のことで、体の劇的な変化は幻想によるものだなどということを、どう説明したらいいのか。…「メアリー」。彼は穏やかに言った。「赤ちゃんはもうすぐです。今日の午後には生まれるでしょう。痛くないようにエーテル[麻酔]を使います。陣痛ははじまっていますから大丈夫です」…少したってメアリーが目覚めると、モンロー博士は彼女の手をとってやさしくなでた。そして落ち着くのを待ってから言った。「メアリー、お気の毒だが悪い知らせです。赤ちゃんは死産でした。できるだけの手は尽くしましたが、だめでした。本当に残念です」。メアリーは泣き崩れたが、この話を受け入れた。するとたちまち分娩台の上で、腹部のふくらみがひいていった。

1週間がすぎた。そしてモンロー博士を仰天させることが起こった。前よりも大きなおなかをしたメアリーが診察室に飛び込んできたのだ。「先生!」と彼女は叫んだ。「またきました。双子の一人がおなかに残ってたんです! おなかを蹴っています!」

 

問題は、心と体の関係(心身医学)である。

人間の心が妊娠のような複雑なものを出現させるのなら、脳は体に対して、あるいは体のために、ほかにも何かできるのではないか? 心と体の相互作用の限界はどこにあるのだろうか。どんな経路がこうした不可解な現象を成立させているのだろうか。

科学者ラマチャンドランは、このように問う。

想像妊娠の発生率に文化が影響を及ぼしていることは否定できない*1が、実際の体の変化はどうしておこるのだろうか?…想像妊娠で見られる臨床的徴候の全体をもっとも簡便に説明するなら、子どもが欲しいという強い気持ちとそれに伴う抑鬱で、ドーパミンノルアドレナリン――脳の「喜びの神経伝達物質」――の濃度が下がるからだということになるだろう。この低下によって、排卵を起こす卵胞刺激ホルモンとプロラクチン抑制因子と呼ばれる物質の産生がともに減少する。これらのホルモンの濃度が下がると、排卵や月経が停止してプロラクチン(母性ホルモン)の濃度が上昇する。

 

ラマチャンドランの次の話はおもしろい。

心と体の相互作用のもっと一般的な例は、周囲の世界から来る知覚刺激と免疫系との相互作用に関係する。30年ほど前から医学生がしばしば聞かされる話に、喘息発作はバラの花粉を吸い込んだときだけ起こるのではなく、バラを見ただけでも、プラスティックのバラでも、いわゆる条件アレルギー反応を引き起こすことがあるというものがある。言い換えれば、本物のバラと花粉の体験によって、バラの外観と気管支の収縮との間に「学習された」連合ができあがる。この条件付けはどの位厳密に働くのだろうか? 脳の視覚野から出たメッセージが肺の気管支の内側にある肥満細胞まで、どのように伝達されるのだろうか。実際の経路はどうなっているのだろう。心身医学ができて30年たつが、明確な答えはまだない。

バラ喘息は有名な話だそうだ。

フランスのある婦人は、初めて発作をおこした時に部屋にバラの花がありました。バラの花が喘息の原因と思いこんでしまったその婦人は、その後バラの花を見るたびに発作をおこし、最後は、主治医が胸につけていた造花のバラを見ても発作をおこしたと言うのです。 これは典型的な「思いこみ」による、自己暗示性の喘息発作です。 これとよく似た例に、部屋の掃除をしていて、ホコリを意識しない内はなんともなかったのに、カーテンのすきまから差し込む日光の中に、ホコリがただよって浮いているのを見たとたんに発作が始まったなどという例もあります。

http://www.kyutoku-clinic.or.jp/html/jar/jar/155_shinninnhakokomade.htm

 

f:id:shoyo3:20160510204908j:plain

http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/019/229/85/N000/000/001/143501811650664029177_RIMG0155.JPG

 

ひまわり療法

私は医学生だった1960年代後半に、オックスフォードから来た生理学の客員教授に、この条件付けについて質問し、条件付けされた連合を臨床で使えないかと聞いてみた。「患者に造花のバラを見せるだけで、条件付けを通して喘息発作を起こせるなら、理論的には条件付けを通して発作を未然に防ぐか無効にすることもできるんじゃないでしょうか。例えば先生に喘息があって、私がノルアドレナリンのような気管支拡張剤をのませるたびに造花のひまわりを見せたとします。すると、ひまわりのイメージと喘息発作がおさまることが関連付けられるでしょう。しばらくすると、ポケットにひまわりの造花を入れておいて、発作がおこりそうになったら、それを取り出して見るだけでいいということになるんじゃないでしょうか」

ばら喘息の話を聞いて、ひまわり療法を思いつくとは、ラマチャンドランの発想力は素晴らしい。

この教授は(あとで私の指導者になった人だが)、それは独創的だがばかげたアイディアだと言い、私たちは陽気に笑いあった。ありそうもない奇抜な考えに思えたからだ。こうして退けられたものの、私はひそかに自分の考えを持ち続け、免疫反応を条件づけることが本当にできるのではないか、もしそうならその条件付けのプロセスはどのくらい選択的になりうるだろうかとあれこれ考えをめぐらせた。

なぜ、この教授は「ばかげたアイディア」だと思ったのか。既存の理論に凝り固まっていたのだろうか。「心」を正当に評価できなかったのか。

 

私はいまもこの実験を試さなかった自分に悪態をついている。このアイディアを心にしまいこんだまま、数年前にほかの人が偶然の発見をした際に、自分がチャンスを逃したことを思い知らされたのである。マムマスター大学のラルフ・エイダー博士はマウスを用いて食べ物に対する嫌悪を研究していた。吐き気を誘発するシクロフォスファミドという薬をサッカリンと一緒にマウスにあたえて吐き気を起こさせ、次にサッカリンだけを与えたときに吐き気の徴候があらわれるかどうかを見た。結果はうまくいった。予想どおりマウスは食べ物に対する嫌悪を、この場合はサッカリンに対する嫌悪を示した。しかし驚いたことに、同時にマウスはありとあらゆる感染症を起こし重病になってしまった。シクロフォスファミドは吐き気を誘発するほかに免疫系を大きく抑制することでも知られている。しかしなぜサッカリンだけでその作用があらわれたのだろうか。エイダーは、無害のサッカリンを免疫抑制薬と組みあわせたことがマウスの免疫系に連合を「学習」させたのだという正しい推論をした。いったん連合ができあがると、マウスがサッカリンに遭遇するたびに免疫系の働きが急激に下がり、感染に対して弱くなる。これも心が体に影響をおよぼすという強力な例であり、同時に医学と免疫学の歴史に残る画期的な業績の一つである。

ここまで、心が体に影響をおよぼす例を紹介してきたが、この「心」というものがどういうものであるのかについて、ラマチャンドランは明確に述べているわけではない。別途「心」がどういうものであるのかについて検討しなければならない。

 

以上のような例を挙げた理由は三つある。

1つ、教授の言うことを聞いてはいけない――たとえそれがオックスフォードから来た人であっても(あるいは私と同業のセミール・ゼキがいつも言っているように、オックスフォードから来た人ならとくに)。

2つ、これらは私たちの無知を例示するものであり、たいていの人がはっきりとした理由もなしに無視しているテーマについて実験をする必要があることを明示するものである。奇妙な臨床的現象を示す患者は一つの例にすぎない。

3つ、心と体を分けることは、もはや医学生を指導するための教育上の便法でしかない――そして人間の健康や病気や行動を理解するうえで有益な概念ではない――と認識すべき時が来ている。

 私には、このうち2つ目が「教訓」であった。すなわち、現在、無視されているテーマが、「はっきりした理由」もなく無視されていることがあるということである。自分が重要と思うテーマは追求し続けてよい。

 

*1:1700年代に200人に1人だった想像妊娠の発生率が、現在はおよそ1万人に1人に減少している。現代の妊婦は何度も検査を受けるのであいまいさが残る余地はない。超音波という身体的な証拠を提示されれば、妄想やそれに伴う体の変化は通常は消えてしまう。