浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

生命倫理学(2) 「障害児」であっても、産むべきなのか?

加藤尚武『現代倫理学入門』(9)

生命倫理学は何を問題にしているのか。それは、「人工妊娠中絶、重度障害児の出生直後の安楽死(または治療停止)、苦痛回避のための安楽死脳死者からの臓器摘出」といった問題である。こういう問題を考えているから「生存権」といったような言葉が出てくる。

加藤は、生命倫理学の人格概念(自律的に行為する主体ないし自己意識を持った存在)の問題点を4つ挙げているが、生命倫理学が何を問題にしているのかを十分に理解したうえで、読んでいきたい。

第1の問題点…権利を能力の現存によって規定するという観念は権利概念の本質に反する。例えば、所有権が権利として意味を持つのは、たとえ私に占有の物理的な能力が欠如していても、私の占有が保証されるという点にある。決定や意思表明が現実的に可能である者と、生存権を有する者とを重ね合わせてしまうならば、生存権生存権を行使する能力のある者にのみ認められるという権利以前の状態に帰してしまう。あえて言えば、対応能力を失ったにもかかわらず生存が保証されるからこそ、生存の権利と言うことができる。権利とは個人に獲得能力が欠如している場合にも、獲得を公共的に保証するシステムである。私に言論の自由という権利があるということは、私が自由な言論を表現する能力を失っても、それを公共機関が保証するということを意味する。対応能力がある者が決定する以外に仕方がないという事実上の制約は、生存権をその範囲に合わせることを意味しない。生存権はつねにそれを行使する能力よりも拡張的に決定されねばならない。

「妊娠中に、出生前診断で、胎児が(重度)障害児であったことがわかった場合、人口妊娠中絶は許されるか?」という問題意識をもって、加藤の言うこの問題点を考えてみよう。…まず例として挙げている所有権であるが、「占有の物理的な能力が欠如していても、私の占有が保証される、そのようなものとして所有権が規定されている」と言うのは理解できる(納得できるかどうかは別問題だが…)。また、「自由な言論を表現する能力を失ったとしても、私には自由な言論を表現することが保証されている、そのようなものとして言論の自由という権利が規定されている」と言うのは理解できる。ただ、これを一般化して、「権利を能力の現存によって規定するという観念は権利概念の本質に反する」とまで言ってよいのか疑問である。「胎児の生存権」をこれに当てはめてみると、「胎児の生存の権利を、意思決定や意思表明の能力の現存によって規定するという観念は、生存権概念の本質に反する」ということになろう。…ちょっと、おかしくはないか? 論点がずれていないか。生存権を無条件に前提することにならないか。

論点は次のような点にあるのではないか。(1)胎児は「人間」であるか。(2) (重度)障害児として生まれてきた場合、「人間的生活」が可能なのか。(3) (重度)障害児であっても生存権はあると言って、「産むことを強制」した場合、誰が養育するのか。

加藤は、これらの論点に一切ふれずに、所有権や言論の自由というような焦点のずれた問題から一般的命題を引き出し、生存権の問題に適用するという疑問のある議論を展開しているのではないか。

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http://music-book.jp/comic/news/news/98982

 

第2の問題点として循環がある。選挙権から黒人を除外することを白人の投票によって決定してはならない。しかし生存権・決定権の範囲から誰かを除外する決定は、生存権・決定権を持つ者が決定するだろう。これは避けられない。ところがこの同じやり方で生存権の範囲をいくらでも恣意的に縮小することができる。現在の世代は未来の世代の生命の犠牲の上に生きることができる。

本章(第6章「判断能力の判断は誰がするか」)の最初のほうで、加藤は次のように書いている。

近代社会が成立した時、フーコーによると、人びとが真っ先に手がけたことは、理性人と狂人を区別することであった。狂人が病人とみなされて隔離される。伝統を離脱した現代社会では、現在の世代が、現在の世代の中から決定権を持つ正式のメンバーを決定するという構造になっている。そこには、決定権をもつ者を決定するという循環構造がある。正式メンバーと正式のメンバーでない人との違いは、正式メンバーが決定するという構造になる。…その社会の中の決定権をもつグループが、決定権の範囲を決定する。AとBの違いはAが決める。この決定は、実質的には、AとBの両方から支持されていないと、正当化できない。

自由人と奴隷の違いは自由人が決定するということに奴隷は同意しない。正常者と異常者の違いは正常者が決定するということに異常者は同意しない。黒人に選挙権があるかどうかを白人が決定することに黒人が同意しないのと、同じ構造である。…黒人に選挙権を与えるかどうかを白人だけの選挙で決定する時、手続上の正義は内容上の正義にならない。現在の日本で、公職選挙法を審議し決定する権限を持っているのは、公職選挙法で選ばれた国会議員である。

循環構造を図示すると次のようになろう。(決定者が被決定者になり、被決定者が決定者になる)。

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加藤が、第2の問題点としてあげている循環とは、この意味の循環である。これは、なかなかに問題含みである。…理性人と狂人を誰が区別するのか。言うまでもなく、理性人である。精神病者は狂人であるか? 精神薄弱者(知的障害者)は狂人であるか? 殺人者は狂人であるか? 殺人教唆者は狂人であるか? 殺人指示者は狂人であるか? 殺人を指示する独裁者は狂人であるか? 殺人を指示する大統領は狂人であるか? 殺人を指示する大統領を選ぶ市民は狂人であるか? もし狂人でないとすると、彼は何者なのか?

いや、話を拡散しないでおこう。被決定権者(胎児や障害者/自律的に行為することが出来ない者/未成年者/将来世代)の「生存権」をどう考えるかが問題であった。これは「民主主義」の問題でもあるが、倫理的には「決定者が、被決定者を人として認めず、自由に処分してよいかどうか」が問題になるだろう。

こう見てくると、「人間」の定義が問題である。もちろん現実には、実定法として、概ね妥当な解決が図られているのではないかと思う。但し、安楽死遺伝子治療(操作)等に関しては、十分な議論がなされているのかどうか、私は確認していない。

いずれにせよ、極論や単純な議論は避けたほうがよいだろう。(私は、ブロガーには単純な議論というか説得力のない決めつけをして、愚昧さを曝け出している人が多いのではないかと感じている。…自戒。)