浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

水俣病(6) 公務員の「不作為」という犯罪

水俣事件の教訓の一つに、「公務員の不作為という犯罪」の問題がある。今回はこれを取り上げよう。

「犯罪」というのは言い過ぎかと思うが、「許されることではない」を強調したものと受け止めて欲しい。

 

不作為とは何かというと、

自ら進んで積極的な行為をしないこと。法によって期待された行為をしないこと。 ↔ 作為(大辞林

路上に倒れている病人を見捨てたまま通り過ぎるとか,立ち退きを要求されても住み慣れた住居から立ち退かないというように,現在の事実・事象に対して積極的に働きかける行動をとらず,それらの事実・事象を放置することを不作為という。外界に対して積極的に働きかける行動・挙動をいう〈作為〉とは対語をなす。

幼児が車ではねられたとき近くにいて注意しなかった通行人は,法律上の責任を問われることがあるか。これは,他人が権利侵害を受けたとき,みずからは消極的にふるまったにすぎない者も,権利侵害に積極的に関与した場合と同様,被害者に対し損害賠償義務を負わせられる場合があるか,という問題であるが,不作為が不法行為となるためには,権利侵害を回避するための特別の作為義務が存在しなければならない。(世界大百科事典

簡単に言えば、「やるべきことをやらない」ということである。

 

2004年(平成16年)10月、最高裁は、国や県が、「やるべきことをやらなかった」ので、水俣病の被害が拡大したのだ、と判断した。水俣病(1)普通に魚を食べて、手足が麻痺し、脳が蝕まれ、ついには狂って死んでいく でのwikipediaからの引用を再掲しよう。

2004年10月15日、最高裁は関西訴訟に対する判決で、水俣病の被害拡大について、排水規制など十分な防止策を怠ったとして、国および熊本県の責任を認めた。…国や熊本県は1959年の終わりまでには水俣病の原因物質およびその発生源について認識できたとし、1960年以降の患者の発生について、国および熊本県不作為違法責任があることを認定している。…この判決の後、それまで補償を求めてこなかった住民からも被害の訴えや救済を求める声が急増した。

「国」とか「県」とか無人称化しないで、行政を担う国家公務員や地方公務員の責任が問われたのだと考えよう。水俣事件に関しては、当時の環境・厚生・産業政策業務を担当する(もちろん担当者だけでなく責任者を含む)国家公務員や地方公務員の責任が問われたのである。具体的に名指しできる公務員の責任が問われたのだと考えなければならない。(後で、この話を「一般化」してみたい)

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http://www.minamata-f.com/minamata-gifu_flyer.pdf

 

この最高裁判決[水俣病関西訴訟上告審判決]にふれる前に、次の法律の第1条を記しておこう。

国家賠償法

  1. 国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。
  2. 前項の場合において、公務員に故意又は重大な過失があつたときは、国又は公共団体は、その公務員に対して求償権を有する。

水質保全法(公共用水域の水質の保全に関する法律):

この法律は、公共用水域の水質の保全を図り、あわせて水質の汚濁に関する紛争の解決に資するため、これに必要な基本的事項を定め、もつて産業の相互協和と公衆衛生の向上に寄与することを目的とする。

工場排水規制法(工場排水等の規制に関する法律):

この法律は、製造業等における事業活動に伴つて発生する汚水等の処理を適切にすることにより、公共用水域の水質の保全を図ることを目的とする。(2016/6/28 訂正)

水質保全法と工場排水規制法を、水質二法という。

(水質二法は、規制水域や規制対象業種を個別に指定する制度であるため実効性が不十分であることが指摘され、1970年(昭和45年)の公害国会において水質汚濁防止法が制定され、廃止された。…2016/6/28 追記)

 

水俣病関西訴訟上告審判決に関する以下の引用は、野本敏生「不作為の違法性と国家賠償」からである。

ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/on/file/165/20140522113328/OS10038000012.pdf

 

第二審の大阪高裁判決:

控訴審(平成13年4月27日大阪高判)は、昭和34年末当時、「水俣病の原因物質の排出源は、被告チッソ水俣工場以外にあり得ないこと及び原因物質が有機水銀であることが高度の蓋然性をもって判明していたこと、有機水銀の定量分析は不可能であったとしても、被告チッソ水俣工場の排水に微量の水銀が含まれていることの定量分析は、被告国、県にとって可能であり、また、被告チッソが整備したツト水浄化設備が水銀の除去を目的としたものではなかったことを容易に知りえた」こと、さらに「水俣病という前代未間の重大な公衆衛生上の被害が発生しておりその被害拡大防止のためにはもはや一刻の猶予も許されない状況にあつたこと、かかる緊急事態下において、当該規制権限の行使が被害の発生及び拡大防止に有効であって、かつ、他にとるべき手段がないとすれば、個々の住民の生命、健康の保護は単に……反射的利益であるに止まるものではない」ことなどを理由に、それぞれ、水質二法、県漁業調整規則に基づいて上記施設からの排水を規制する権限を行使すべきであり、これを怠ったことは国家賠償法上違法となるとして、チッソに加え国及び県の責任を認め、原告らの請求を一部認容した。

なぜ国や県に責任があるのかの理由付けをよく読んでおきたい。

「反射的利益」という言葉が出てくるが、これは、

公権に対する概念で,公権の場合は権利として自己のために直接一定の利益を法律上主張することが認められるのに対し,反射的利益とは,とりわけ公益目的実現のため,制定法が他者に対して規制している結果,つまり,その規制の反射として,利益を受けるのにとどまることをいう。したがって,それは,法律上の保護を受けるものではなく,反射的利益の侵害があっても法律上の救済手段はない。具体的には,利益を侵害する行為が公権力の行使に当たる場合,その排除を求めても,それが反射的利益であるときには原告適格あるいは不服申立適格が否定される。(世界大百科事典

個々の住民の生命、健康の保護は、反射的利益であるに止まるものではないというのである。

 

では最高裁はどう判決したか。判決要旨は、以下の通りである。

(1)「国又は公共団体の公務員による規制権限の不行使は、その権限を定めた法令の趣旨、目的や、その権限の性質等に照らし具体的事情の下においてその不行使が許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠くと認められるときは、その不行使により被害を受けた者との関係において、国家賠償法1条1項の適用上違法となるものと解するのが相当である」。

(2)「昭和34年11月末の時点で、

①昭和31年5月1日の水俣病の公式発見から起算しても既に約2年半が経過しており、その間、水俣湾又はその周辺海域の魚介類を摂取する住民の生命、健康等に対する深刻かつ重大な被害が生じ得る状況が継続していたのであって、上告人国は、現に多数の水俣病患者が発生し、死亡者も相当数に上っていることを認識していたこと、

②上告人国においては、水俣病の原因物質がある種の有機水銀化合物であり、その排出源がチッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造施設であることを高度の蓋然性をもつて認識し得る状況にあつたこと、

③上告人国にとつて、チッソ水俣工場の排水に微量の水銀が含まれていることについての定量分析をすることは可能であつたこと 

といつた事情を認めることができる」。

(3)「そうすると、同年11月末の時点において、

水俣湾及びその周辺海域を指定水域に指定すること、

当該指定水域に排出される工場排水から水銀又はその化合物が検出されないという水質基準を定めること、

アセトアルデヒド製造施設を特定施設に定めること

という上記規制権限を行使するために必要な水質二法所定の手続を直ちに執ることが可能であり、また、そうすべき状況にあったものといわなければならない。そして、この手続に要する期間を考慮に入れても、同年12月末には、主務大臣として定められるべき通商産業大臣において、上記規制権限を行使して、チッソに対し水俣工場のアセトアルデヒド製造施設からの工場排水についての処理方法の改善、当該施設の使用の一時停止その他必要な措置を執ることを命ずることが可能であり、しかも、水俣病による健康被害の深刻さにかんがみると、直ちにこの権限を行使すべき状況にあったと認めるのが相当である。また、この時点で上記規制権限が行使されていれば、それ以降の水俣病の被害拡大を防ぐことができたこと、ところが、実際には、その行使がされなかつたために、被害が拡大する結果となったことも明らかである」。

(4)「以上の諸事情を総合すると、昭和35年1月以降、水質二法に基づく上記規制権限を行使しなかったことは、上記規制権限を定めた水質二法の趣旨、目的や、その権限の性質等に照らし、著しく合理性を欠くものであって、国家賠償法1条1項の適用上違法というべきである」。

 

高裁や最高裁は上記のように判決したが、第一審の大阪地裁は、「的確な行政対応であったとも言えないが、違法とまでは言えない」として、国および県の責任を否定していたのである。この主張を理解しておかないと、高裁や最高裁の判決の理解が上滑りのものとなるだろう。

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第一審の大阪地裁:

「水質保全法は、河川や海などのいわゆる公共用水域を汚濁源の悪影響から守り、水質の保全を行うこと、汚濁被害を受ける漁業や農業と加害側産業との間の協和を保つこと及び公衆衛生の向上を目的としている。工場排水規制法は、水質保全法を受けて、製造業等の事業活動に伴って発生する汚水の処理を基準に定められたものとするため制定されたものである。したがって、水質二法上の権限は、『産業の相互協和』という公益的判断のもとに行使することが予定されている。また、『公衆衛生の向上』については、主として上水道の確保、その他環境衛生上の考慮を示したもので、公共用水域の水そのものに直接起因する公衆衛生上の問題を念頭に置いており、同水域の魚介類に起因する食中毒の防止というようなことまで具体的に対象にしているとは解されない。」

地裁はつぎに規制権限行使に関する裁量の範囲の広さを強調する。「経済企画庁長官が水質基準の公示をするに当たっては、合理的裁量に基づいて、指定水域の指定、水質基準の設定の要否、内容について判断するが、その内容が高度に専門的技術的事項にわたるため、右権限の行使に関する裁量の範囲は広いと言わなければならない。」

そして地裁は、「結局、排水の規制という見地から考えた場合、当時の水銀検出・定量技術では、水俣病の発生を防止するための規制は不可能だった」という結論に至る。

すなわち、「水質基準を設定するためには、

第1に、特定の公共用水域の水質汚濁の原因となっている物質(汚濁原因物質)が特定されていること、

第2に、当該汚濁原因物質が特定の工場から排出されていることが科学的に証明されていること。

第3に、当該汚濁原因物質の分析定量方法が確立されていること、

第4に、当該汚濁原因物質について水域指定の要件となった事実を除去し又は防止するのに必要な限度を超えない許容量を科学的に決定し得ることが不可欠の前提となる」が、

昭和34年の時点では、基準設定に必要な原因物質の特定ができておらず、汚濁原因物質の特定等に時間を要したため、早急に指定水域の指定や水質基準の設定に至らなかった」との事実認定をする。(采女博文、「水俣病関西訴訟最高裁判決について」より)

水質二法の「公衆衛生の向上」は、「環境衛生上の考慮を示したもので、公共用水域の水そのものに直接起因する公衆衛生上の問題を念頭に置いており、水域の魚介類に起因する食中毒の防止というようなことまで具体的に対象にしているとは解されない。」というのである。だから、水質二法を根拠に「規制権限の不行使」の責任があるとまでは言えないというのである。ここで問題になっているのは、「法令の趣旨、目的や、その権限の性質」である。

私のような素人目には、「公務」を担当する公務員が「やるべきことをやらなかった」のに、責任を取らされるのを回避するために、都合のよいように法解釈しているように映る。あるいは「法令の趣旨、目的や、その権限の性質」を理解せずに業務を担当しているように見える。そこには、「生命への配慮が決定的に欠落している」ように見える。上掲写真をもう一度見て欲しい。

次に、水質基準を設定するために必要な4条件をあげて、当時(昭和34年の時点)は、「基準設定に必要な原因物質の特定ができておらず、汚濁原因物質の特定等に時間を要したため、早急に指定水域の指定や水質基準の設定に至らなかった」と事実認定している点であるが、最高裁や高裁は、「水俣病の原因物質がある種の有機水銀化合物であり、その排出源がチッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造施設であることを高度の蓋然性をもつて認識し得る状況にあつた」と事実認定している。この「高度の蓋然性」というところが最も重要な点であると思う。科学者が、「100%確実な根拠をもって汚濁原因物質を特定することはできない」、「100%確実な根拠をもって汚濁原因物質が特定の工場から排出されているということは証明できない」、「100%確実な汚濁原因物質の分析定量方法はない」、「100%確実な許容量を決定できない」と主張することは正しいだろう。だからといって、100%確実な科学的主張が水質基準を設定するための「不可欠の前提」となるというのはおかしい。「高度の蓋然性」で十分であろう。

これも先ほどと同じように、「不作為」を弁明するための理屈であるように思う。ここでもまた「生命への配慮が決定的に欠落している」ように見える。

これは「事実認定」の問題である。一般的に、いかなる事柄をどのように事実認定すべきか。

 

次に「規制権限行使に関する裁量」について、ふれたいが、長くなったので次回にまわそう。