浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「異常」を愛する人たち

ラマチャンドラン,ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』(22)

予断を持たず、素直に次の文章を読んでみよう。

科学の日々の進歩は、壮大な建造物にレンガを一つ付け加えることによっている――科学史家の故トマス・クーンが「標準科学」と呼んだ、どちらかと言えば単調な活動である。広く受け入れられている信念を数多く組み入れるこの知識体系は、「パラダイム」と呼ばれる。毎年新しい所見が出て、すでにある標準モデルに吸収される。大半の科学者はレンガ職人であり、建築家ではない。大建造物にもう一つ石を付け加えることで満足しているのだ

ラマチャンドランは「科学」について述べているのだが、これは自然科学に限った話ではない。社会科学や人文科学にもあてはまるだろう。しかも、私はこれは「科学」に限らず、およそ人間のほとんどすべての営為に拡張できる話ではないかとさえ思う。

大半の科学者が、建築家ではなく、レンガ職人であるというのはおもしろい。偉そうにしているが、「私は、レンガ一つ積む以上のことをした」と自信をもって言える人がどれくらいいるだろうか。レンガを積んだのならまだしも、瓦礫を積んだかもしれないのである。

しかしときどき新しい所見があわないことがある。既に存在する構造と矛盾する「異常」である。こういうとき科学者は次の3つのうちの1つをする。

1つ目は、異常を無視して隠すこと。心理学でいう「否認」の一種で、優れた研究者の中でさえ驚くほどよく見られる。

2つ目はパラダイムに小さな修正を加えて異常を自分たちの世界観に合わせようとすることで、これもまた標準科学のうちである。あるいは間に合わせの補助的な仮説をつくりだす。こうした仮説は、一本の木から枝が出るように、たくさん出てくる。そしてすぐに太く多数になり、木そのものをぐらつかせる脅威になる。

3つ目は建造物を取り壊して、元のものとほとんど似ていない、まったく新しいものをつくりだすことだ。これがクーンの言う「パラダイム・シフト」であり、科学革命である。

第1の態度は、異常を無視すること、見て見ぬふりをすることである。問題として取り上げることをしない。私の主観では、70~80%の人がこの態度をとる。(例えば、格差問題を考えよ)

第2の態度は、やや良心的である。異常なる事実をきちんと受け止めようとしている。補助的な仮説をたて、既存の枠組みのなかにおさめようとする。私の主観では、30~20%の人がこの態度をとる。(例えば、社会保障を充実しようとする)

第3の態度は、既存の枠組みを見直し、新しい枠組みを作り出すことである。私の主観では、1%未満の人がこの態度をとる。(例えば……)

但し、このように述べたからといって、第3>第2>第1の順で望ましいと言っているわけではない。「異常」の解釈次第である。「異常」の質が問題であろう。どのように「異常」を捉えるべきなのか。

科学の歴史には、最初は些細なこととして、ひどい場合は怪しげなものとして無視されていた異常が、のちに根本的な重要性をもつと判明したケースがたくさんある。これは圧倒的多数の科学者が保守的な気質を持ち、大建造物を危うくする新事実が出現すると、まず無視あるいは否定をしようとするからだ。もっともこれは。見かけほど愚かなことではない。異常は誤報だったと判明する場合がほとんどなので無視するのは悪い戦略ではない。もしエイリアンに誘拐されたとかスプーンを曲げたとかいう報告をいちいち受け入れて、枠組みの中にねじこもうとしていたら、科学は今日のように見事な成果を上げ、内的な一貫性のある信念体系に発展することはなかっただろう。懐疑的な姿勢は、科学という事業全体にとって、新聞の一面トップを飾る大変革と同じくらい重要な一部なのだ。

異常が本当に異常なのかよくわからない場合も多い。事実誤認なのか、理論の不備なのか、そこに価値判断や解釈がからんできたらどうなるのか。私の見たエイリアン[異世界人]は「異常」なのか。私がエイリアンなのか。

しかしすべての異常を無視すべきではない。異常のなかにはパラダイム・シフトを推進する潜在力をもつものがあるからだ。私たちの叡智は、どの異常が些細なことで、どの異常が金の鉱脈かを見分ける能力にある。あいにくなことに些事と黄金を識別する簡単な公式はないが、大雑把に言うと、もし矛盾する奇妙な所見が長い間そのままになっていて、何度も誠実に試みたが実験的に確かめられないという場合は、恐らく些細なものだ。一方、問題の所見が数度の反証の試みに耐え、現在の概念構成で説明できないという理由だけで奇異とみなされている場合は、恐らくそれは本物の異常である。

異常を「パラダイム・シフトを推進する潜在力」と捉える見方は、1%の人々にとって勇気を与えるものとなろう。但し、狂人扱いされることを覚悟しなければならない。私たちに叡智はあるのか。どうしたらそのような叡智を獲得できるのだろうか。

私たちはいまヴェゲナーが正しかったことを知っている。彼の説が退けられていたのは、単に人びとが想像できるかぎりで大陸全体を動かすメカニズムがなかったからだった。私たちみんなにとって自明のことがあるとすれば、それは大地が安定していることだ。しかしプレートテクトニクス――どろどろした熱いマントルの上を動く固いプレートに関する研究――が知られるようになると、ヴェゲナーの説は信頼できるものとなり、万人の承認を勝ち取った。

この話の教訓は、ある考えを、それを説明するメカニズムを思いつかないという理由だけで奇異な考えとして退けてはいけないということだ。そしてこの理屈は大陸にも遺伝にも、イボにも想像妊娠にも当てはまる。何といってもダーウィンの進化論が提唱され、広く受け入れられたのは、遺伝のメカニズムがはっきりと理解されるずっと前のことだった。

「大地」は安定している。地に足をつけるという言い方もある。それはそれで良いのだが、「安定した大地」なるものが、「かつてのパラダイム」であったことは、もはや誰でも知っていることかもしれない。火山活動や地震という「異常」を深く追究してきた自然科学が、その自明さを突き崩してきたと言えるだろう。

私たちは、「安定した大地」の代わりに、「プレート、マントル、マグマ、ブルーム、外核内核」といった面白い概念を手にしている。それを他に転用してみるというのは、面白い試みになるような気がする。

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http://www.zkai.co.jp/el/saponavi_n/o41e710000002ubb.html

 

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