浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

自己と公共性(2) 生の様式のディスプレイ

齋藤純一『公共性』(19)

アーレントフーコーに依拠した次の文章は、素人にはなかなか難しい。しかし、的外れや誤解を恐れず、コメントしてみよう。(連想したことを書いてみたということである)

 

公共性は、生命の保障や共通世界の正義には還元されない。そのもう一つの次元は、それぞれの生の共約不可能な位相に対応する。この次元での公共性は、人びとが互いに自らのものとしえない〈世界〉の提示――言葉や行為における現れ――を見聞きし、享受する空間を意味する。政治は、この次元ではもはや、共約可能な価値〈誰もが平等に保障されるべき公共的価値、正当な規範〉の定義をめぐるものではない。

私たちは、「公共性」というと「政治」を連想する。公共的な事柄について、専制的に決めるとか、話し合って決めるとかを問題にする。政策がおかしいとか言う。しかし、齋藤がここでいう公共性は少し違う。何かを決定しようというのではない。私は何かを表現する。あなたも何かを表現する。この場で、私とあなたが、何かを言い、何かを行為する。このとき、この場は「公共空間」である。

 

政治は、異なった価値や生の様式のディスプレイに関わる。それは「倫理としての政治」というべき要素をも含むだろう。フーコーが「道徳規範」と対比する意味での「倫理」――それは「存在の技法」とも呼ばれる――である。

「存在の技法は熟慮と意志にもとづく実践であると解されなければならず、人びとはその実践によって、自らの行為の規則を定めるだけでなく、自ら自身を変容し、個別の存在として自らを変えようと努力し、自らの生を、ある種の美的価値を担う、またある種の様式規準に応じる一つの試みと化そうと努力する。」(フーコー

美的価値とは、一般化可能な尺度では測ることのできない価値である。

フーコーの「存在の技法」がどういうものなのかは、これだけの説明ではよくわからない。

「政治は、異なった価値や生の様式のディスプレイに関わる」という言い方はおもしろい。しかし、それは「価値観の異なる人たちの間で、物事が決められる」という何の変哲もない言い方以上のことを言っているのだろうか。

自らの主義・主張が「美的価値」であり、「一般化可能な尺度では測ることのできない価値である」と自画自賛したところで、それは全く説得力を持たない「偏見」「妄想」「幻想」であるかもしれないではないか。ただ単に、上述の「公共空間」に居合わせたところで、何も変わらないのではないか。

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アーレントはこの次元の公共性=「現われの空間」を美的=政治的判断が妥当する空間として描いたが、それは共約不可能なものを共約可能なものに回収せずに判断するためであった。アーレントは、その「倫理」をソクラテスに仮託して次のように表現したことがある。「他者に現れたいとあなたが願うように在れ」。これは次のようにも言い換えられる。「他者に現れたいとあなたが願うようにあなた自身に現れよ」。同じように「自己への配慮」を重視したアーレントフーコーの興味深い親和性に立ち入る余裕はもはやないが、彼女/彼らが、共約不可能な生の位相が提示されるための空間として、公共性のある次元を描いたことは確かである。

「共約不可能な生の位相」を提示したところで、何かが変わるのだろうか。その提示が何も意味がないというのではない。そういう「公共空間」は、せいぜい「公立美術館」にとどまるだろう。

 

齋藤は、本書の最後を次のような文章で締めくくっている。

私たちの生の位相が複数であるように、公共性も複数の次元を持つ。私たちが一つの生/生命の位相のみを生きるわけではないように、公共性もどれか一つの次元のみが重要なわけではない。私たちはニーズとは何かについて解釈し、共通の世界について互いの意見を交わし、規範の正当性について論じ、決して自らのものとしえない世界の一端が他者によって示されるのを待つ。私たちの〈間〉に形成される公共性はそうしたいくつかの次元にわたっている。

私たちは多様なコミュニティに属している。私たちの言論が、背景に「公立美術館」を持つとしても、社会が変わるためには、普通の意味での「政治空間」が必要であろう。