浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

水俣病(7) 公務員の「不作為」という犯罪(2)

*タイトルを、「アート空間と政治空間」から「水俣病」に変更しました。

 

水俣事件の教訓の一つに、「公務員の不作為という犯罪」の問題がある。今回はこれの2回目である。

「犯罪」というのは言い過ぎかと思うが、「許されることではない」を強調したものである。

「なぜ、役人は、やるべきことをやらずに、のうのうと暮らしているのか」…民衆が、こんな感情的な言葉を投げつけても、役人は動じるところがない。なぜなら、彼らは「法」と「法理論」に守られているからである。

役人は、水俣病者の苦しみを、患者の生の声や写真や絵などで見聞きしても、(内心、動かされるところがあっても、公的には)動じるところがない。なぜなら彼らは「全体」(日本国家)を見ているのであり、部分最適化で判断することはない(水俣病者に一方的に肩入れすることはない)。

では、「法」と「法理論」に問題はないのか。公務員の職務権限とは何なのか。

 

国家賠償法第1条第1項は、

 国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。

 

と定めているが、ここで「公権力の行使」には、

何らかの規制権限の行使のみならず、権限の不行使、すなわち「不作為」も包含されることに実務上も、学説上も異論はない。…阿部泰隆教授によると、行政庁の不作為は、次のように類型化される。

第一に、私人からの申請に対して行政庁が相当の期間内に許可・不許可等の応答をしない場合(「受益的行為の不作為」)

第二に、私人の生命・健康が害される恐れがあるのに、行政庁がその規制権限を行使せず被害が生じた場合(「規制権限の不行使」)

(野本敏生「不作為の違法性と国家賠償」より。以下同) 

 

規制権限の行使については、

行政権の過剰な規制を抑止し、被規制者の権利利益を擁護するために、通常、行政側に当該行為をするか否かの裁量が認められている。これを「行政便宜主義」という。これにより、国や公共団体は、規制権限を行使するか否かは行政庁の裁量に委ねられており、その行使が義務づけられているわけではないから、たとえ規制権限を行使しなかったとしてもそれゆえ直ちに違法(=義務違反)であるとはいえないと裁判上抗弁してきたのである。つまり、不作為の違法を主張するためには、行政庁にあらかじめ作為義務が生じていることを立証しなければならないのである。

行政便宜主義は、次の意味に理解しておきたい。

伝統的行政法理論の下では、行政がなすべきは国家公共の秩序維持であり、私人に対してなすべき義務は存在せず、たとえ規制権限を行使できたとしても、その権限を行使すべきか否かは行政庁の自由裁量によることとなる。このような考え方を、行政便宜主義と呼ぶ。(今本啓介「行政の不作為に対する司法的統制」より)

「規制権限を行使するか否かは行政庁の裁量に委ねられており、その行使が義務づけられているわけではない」という考え方は理解できるものである。分かりやすい例がスピード違反である。50km制限のところを、うっかりスピードを出しすぎて、ほんの数分55kmで走ったとする。警察はこれを取り締まり、9000円の反則金を徴収しなければならないのかどうか。このようなケースでは、「たとえ規制権限を行使しなかったとしてもそれゆえ直ちに違法(=義務違反)であるとはいえない」という主張は納得できるものである。では、この主張が水俣病のケースにおいて妥当するものであるのかどうか、これが問題である。

 

もう一つ、前回にも出てきたが、反射的利益論なるものがある。

伝統的行政法理論の下では、行政は専ら公益保護を目的として行われる。そのため、規制行政は規制者と被規制者の二面的関係で捉えられ、第三者である私人の利益はそれ自体が保護されるものではなく、公益の中に解消せざるを得ないこととなる。このような考え方を、反射的利益論と呼ぶ。反射的利益論の下では、第三者である私人は行政庁に対して規制権限の発動を求めることはできず、行政介入請求権のようなものは存しえないこととなる。(今本)

行政便宜主義と反射的利益論、これを一概に否定することは出来ない。感情論で反発しても言いくるめられてしまうだろう。理性的にこれらに反論できるか。

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裁量権収縮の理論なるものがある。

この理論は、行政庁の裁量の余地を認めながらも、ある特定の状況下では裁量の余地がなくなり規制権限の行使が義務づけられるとするものである。どのような状況で行政庁の裁量が収縮するかについては少なからず相違もあるが、多数説としては以下の要件があげられる。すなわち、①被侵害法益の重要性、②予見可能性の存在、③結果回避可能性の存在、④期待可能性の存在である。

「石頭」でない限り、状況に応じて、柔軟な対応をするものである。行政便宜主義も、「ある特定の状況下では、裁量の余地がなくなり、規制権限の行使が義務づけられる」とするのは、妥当な考え方であろう。では、どのような状況で、行政庁の裁量の余地がなくなると考えるべきか。4要件が挙げられる。

 

第1要件:被侵害法益の重要性

一般的に、法律が保護を予定していない単なる反射的利益、すなわち規制権限の発動により第三者が受ける利益(事実上の利益)は、取消訴訟の対象とならない。…判例は、規制権限を認めている当該法律により保護される利益(法益)のみを救済の対象とする

国や県が反射的利益論を主張するならば、水俣病者は救済されない。感情論で反発しても、通らない。

規制権限の不作為をめぐる国家賠償訴訟においても、侵害された利益が当該法律により保護されるか否かをまず第一に考慮しなければならない。(しかし)水質二法の立法目的は条文によれば、公共用水域の水質の保全を図り、公衆衛生の向上に寄与することであり、水域周辺住民の生命、健康を保護することは直接的には明示されていない

最高裁は、どう解釈したか。

最高裁は、水質二法の規制権限の主要な目的の一つが、「当該水域の水質の悪化にかかわりのある周辺住民の生命、健康の保護」であることを認め、付近住民の生命、健康が法律上保護される利益であることを前提として、そのために当該権限が「適時にかつ適切に行使されるべきものである」という。このように、最高裁が付近住民の生命、健康が法律上保護されているか否かを、水質二法の「法令の趣旨、目的」からではなく、「権限の性質等」から導いているように解せられることは注目に値する。というのも伝統的な法治主義の要請により、従来、侵害された利益が単なる事実上の利益ではなく「法律上保護される利益」であると裁判所が認定するためには、それを保護する目的規定が当該法令の文言に明確に存在しなければならなかったからである。

結論が異常であると感じられるとき(「生命への配慮が決定的に欠落している」と感じられるとき)、まずは「法令の趣旨、目的」を考える。当該法令に規定がなければ、上位の法令を考える。というのは知っていたが、権限の性質から導くというのは面白い。それは、恐らく幅広い解釈を可能にし、妥当な結論を導く。

 

第2要件:予見可能性の存在

行政庁が国民の生命・健康・重要な財産などに対する危険性を認知していたか、あるいは知りうる状態にあったことが必要である。

最高裁は、昭和34年11月末の時点で、国が、①水俣病患者の発生と被害状況の深刻かつ重大さを認識し、②水俣病の原因物質及び排出源を高度の蓋然性をもつて認識しうる状況にあったと認定し、行政の予見可能性を肯定する。

 

第3要件:結果回避可能性の存在

行政庁が規制権限を行使しなければ結果発生を防止しえず、規制権限を行使していれば結果発生また被害の拡大を容易に回避しうることが必要である。

最高裁は、周辺住民に被害の発生拡大を防ぐ方法はなく、それができるのは国・公共団体だけであり、昭和34年12月末の時点で、「上記規制権限が行使されていれば、それ以降の水俣病の被害拡大を防ぐことができたこと、ところが、実際には、その行使がされなかったために、被害が拡大する結果となったことも明らかである」と述べ、国の結果回避可能性を肯定する。

 

第4要件:期待可能性の存在

国民が行政庁に対してその規制権限の行使を要請し、期待しうる事情があることがあげられる。この点について本判決には、直接的明示的な記述はない。ただ最高裁調査官解説によれば、「周辺住民には排水を止める有効な手段がない」ことから、「国による権限行使の必要性やそれに対する期待が大きかったこと」があげられている。

 

野本は次のように述べている。

従来の判例は、裁量権収縮の理論を採用していると解されるものもあるが、最近の傾向としては、行政庁の裁量云々をいわず、具体的事情を考慮して、権限行使を行政庁に委ねた法令の趣旨・目的に照らし、その不行使が著しく不合理と認められるときに違法性を認めているようである。これは、「裁量権消極的濫用論」と呼ばれる。規制権限不行使の違法性を全般的に射程にしている裁量権収縮の理論が厳格な構成要件を要求するのに比べ、比較的緩やかな判断基準といえよう。

 

さて、最高裁は、

国又は公共団体の公務員による規制権限の不行使は、その権限を定めた法令の趣旨、目的や、その権限の性質等に照らし、具体的事情の下において、その不行使が許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠くと認められるときは、その不行使により被害を受けた者との関係において、国家賠償法1条1項の適用上違法となるものと解するのが相当である。

以上の諸事情を総合すると、昭和35年1月以降、水質二法に基づく上記規制権限を行使しなかったことは、上記規制権限を定めた水質二法の趣旨、目的や、その権限の性質等に照らし、著しく合理性を欠くものであって、国家賠償法一条一項の適用上違法というべきである。

 と判示したのであるが、「国又は公共団体の公務員による規制権限の不行使は、…国家賠償法1条1項の適用上違法となるものと解する」という部分に注目してみよう。マスコミは、ただ単に「国や県に責任がある」という言い方をよくするが、一体誰のことをいっているのかという疑問が生じる。

最高裁は「公務員の規制権限の不行使は…違法である」と言っている。また国家賠償法第1条第1項は、「国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。」と言っている。では、その公務員が、具体的に特定できるAという者であった場合、どうなるのか。もしその公務員が特定できなかった場合、どうなるのか。「責任」を負うとは、どういうことなのか。

 

(つづく)