浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

事実認識と価値評価(1) 「格差が拡大している。是正策を打つべきである」と主張してはいけないのか?

加藤尚武『現代倫理学入門』(12)

今回から、第7章 <……である>から、<……べきである>を導き出すことはできないか に入る。

加藤は、「<……である>から<……べきである>を導いてはならない」は、現代倫理学の基本的なドグマ[教義、堅固な信条]となっている、と言っている。

 

A:所得格差・資産格差が拡大している。格差是正策を打つべきである。

B:彼女は八頭身で知性もある。ミス・キャンパスにすべきである。

現代倫理学の基本的なドグマからすれば、A,Bのように主張することは誤りなのか?

 

まず、基本用語の確認から。事実判断と価値判断について、

価値判断とは、ある事柄について,主観の評価による是認あるいは否認を言明する判断。「この鳥は青い」は事実判断だが,「この鳥は美しい」は価値判断。(大辞林

上の例では、「美しい」が価値判断とされている。しかし、他にも「善い・悪い」、「正しい・間違い」も、価値判断とされる。「善い、正しい、美しい」から、「…すべきである」(当為)とされる。

 

本章を読む前に、たまたま目にした、米沢和彦の論文:マックス・ウェーバーにおける「科学」と「政治」――わが国における「価値自由」論の展開―― (2006) が、本章と関連ありそうなので、先に見ていくことにしよう。www.pu-kumamoto.ac.jp/~tosho/file/pdf/kad/12-34/KJ00004442229.pdf

 

30歳のマックス・ウェーバー (1864-1920)

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC#/media/File:Max_Weber_1894.jpg

 

この論文は「価値判断論争」について述べている。価値判断論争とは、

価値判断は客観的に正当化されうるか。事実判断または事実認識は価値判断から中立でありうるか。価値判断をめぐるこれら二つの根本問題は、社会科学的認識の客観性ならびに社会科学的認識と政策策定との関連の問題にとってきわめて重要であり、これまで幾多の議論をよんできた。なかでも、1904年から1913年にかけて、ドイツの社会政策学会を舞台にG・シュモラーとM・ウェーバーとの間でなされた論争は著名であり、一般に「価値判断論争」といわれるとき、それは通常この論争のことをさしている。(日本大百科全書

社会科学的認識とは、<……である>で表現される。政策策定は、<……べきである>で表現される。この関連をいかに考えるか。

二つの根本問題:①価値判断は客観的に正当化されうるか? ②事実判断または事実認識は価値判断から中立でありうるか? が、明確に問題として意識され、その答えが、共通認識として共有されているだろうか。(冒頭の、A,Bのように主張することは誤りであるか? という問いの答えが、共通認識として共有されているだろうか、という意味である)。もし共有されていないとしたら、100年前の論争ではあるが、価値判断論争について知っておくべきであると思う。

 

社会政策学会とは、どういう学会であったか。

社会政策学会は、1873年10月に正式に発足したが、それは普仏戦争後のドイツ資本主義の発達に伴って発生した社会問題・労働問題の解決を緊急の課題として創設されたものであった。そしてその特色はこれらの問題を社会改良の見地に立ち、社会政策を通して解決しようという点にあった。

シュモラーにおける最大の問題は「所得と財産の増大する不平等」をどう解決するか、すなわち「分配」の不平等の是正の問題であった。したがって、シュモラーの社会政策の論理は「分配関係の倫理化」、換言すれば「分配的正義」によって基礎づけられていた。

増大する不平等に対して、学者の良心から、社会政策(不平等の是正策)を提言することに、何か問題はあるのか。ところが、ウェーバーはシュモラーに反論するのである。いったいどういう論理で?

21世紀の今日にあっても「格差拡大」が、大きな問題になっていることは周知のとおりである。シュモラーがこの格差是正にむけてどのような政策提言を行ったかはさておき(後日ふれるかもしれない)、ここではウェーバーの考えをみていこう。

経験科学は誰に対しても、何をなすべきかを教えることが出来ない。ただ、何をなしうるか、場合によってはその人が何を欲しているか、を教えることが出来るに過ぎない」(ヴェーバー

しかし、ここで示された基本的な考えは、「ひどい誤解」すなわち「経験科学は人間の主観的評価を対象として取り扱うことが出来ない」、という誤解にさらされることとなった。それゆえ、認識」と「評価」の自覚的な区別というヴェーバーの「価値判断」論、すなわち「ヴェルトフライハルト」論の展開は、いわばこの「誤解」との闘いでもあったのである。

ウェーバーが述べたという「経験科学は誰に対しても、何をなすべきかを教えることが出来ない。ただ、何をなしうるか、場合によってはその人が何を欲しているか、を教えることが出来るに過ぎない」だけを切り取ってくれば、人びとが「誤解」するのも止むを得ないと思われる。「経験科学は、事実判断だけをすべきで、価値判断をすべきではない」と受け止められる。

 

ヴェルトフライハルト(Wertfreiheit) とは

ヴェーバーのように「客観性」が主観的前提のもとに成り立つと考える場合には、「ヴェルトフライハルト」とは、価値理念や価値判断をできるだけ鮮明にさせることによって、それを自覚的に自己統制することを意味する。したがって、この場合「ヴェルトフライハルト」とは、価値を「離れ」たり「没する」ことではなく、価値を持ちながらそれに「囚われない」、そして「囚われない」という意味において「自由」な態度を指すことになる。…このように「価値自由」とは、主体性の論理である。換言すれば、事実認識と価値判断を峻別しうるということは、主体性の強さの表現にほかならない。かくて、「価値自由」論は、主体性の論理として認識論の次元での「没価値性」(没評価性)の誤解から解き放たれたのである。(安藤((安藤英治『マックス・ウェーバー研究』(1965)))に依拠)

ヴェルトフライハルト(Wertfreiheit)は、「価値自由」と訳す。自由とは、価値を持ちながら、それに囚われない、という意味である。事実認識と価値判断を峻別するということは、価値判断を放棄することではない。

(A:所得格差・資産格差が拡大している。)「格差是正策を打つべきである。」、(B:彼女は八頭身で知性もある。)「ミス・キャンパスにすべきである。」という価値判断を放棄することではない。

 

さらに中村((中村貞二『増補マックス・ヴェーバー研究』(1999)、『ヴェーバーとその現代』(1987)))は、この「価値自由」論に、「価値への自由」という新しい息吹きを吹き込んだという。

「ヴェルトフライハルト」とは、社会科学の認識における価値判断の「排除」なり「断念」なり「放棄」を意味するものではない。「客観性」は主観的前提の上にたってはじめて成り立つものであり、恣な[ほしいままな、恣意的な]価値判断を抑制できる「自由な精神」こそが「ヴェルトフライハルト」にほかならない。こうして恣な「価値判断からの自由」というネガティブな側面と、認識の「前提」としての価値理念と価値観点を「主体的に選び取る自由」というポジティブな側面とが「価値自由」という一個の言葉で表現されている、という。

消極的には、「恣意的な価値判断」から自由であること。

例Aの「格差是正策を打つべきである」は「価値判断」なのか。「…べきである」(当為)を、「価値判断」といって良いのか。「格差がある」(事実)、「格差は善くない」(価値判断)、「格差是正策を打つべきである」(当為)であろう。実際には、「格差は善くない」というところで判断が分かれるだろう。格差の度合や、どのような内容(質)の格差であるのかによって、「善い」「悪い」「やや善い」「やや悪い」「どちらとも言えない」というような差異が生ずる。どれか一つを一方的に押し付けられるべきではない。

積極的には、「価値理念(観点)」を主体的に選び取る自由があること。「格差は善くない」というのは一つの観点である。「格差」という言葉は、すでに「善くない」というイメージを含んだ言葉である。「格差」ではなく、「差異」という言葉を使ってみよう。「差異」があることは悪いことなのか。世の中に「同じ」人間は一人としていない。「個人」であるかぎり、「差異」は自然であり、必然である。その「差異」に応じた「対応」が必要なのである。云々。

 

ヴェーバーの『価値自由』論は、価値判断の『主体性』の見方を根底に、『社会通念』への無自覚なもたれかかりを峻拒して、この癒着した学問と政治を、ふたつながら解放することを企てるものであった。学問と政治とは、互いに実らせあいつつ自立化することが期待された。学問と政治の真実化である。すなわち、学問をば御用科学から批判科学へ、政治をば無主体・無責任の政治から主体的責任に裏打ちされた政治へと転換させること、これが『価値自由』の思想にもとづく「解放」の事業の意図したところであった。」(中村)

中村の説明が正しいとすれば、ウェーバーの価値自由論は、至極まっとうなことを主張しているようにみえる。しかし、誰も「御用科学」とか「無主体・無責任の政治」とは思っていないだろう。こう言ったからといって、シュモラーが「御用科学」であるとか「無主体・無責任の政治」に加担しているとかの論拠になるわけではない。

 

ヴェーバーによれば、この「経験的事実の確定」と「実践的に評価する態度」との厳密な区別、すなわち「価値自由」の方法態度にもとづいてのみ、人間の「主観的」評価、あるいは実践的=政治的問題を、学問の名において討論し、「理想や価値判断を学問的に批判する」ことがはじめて可能となる、という。そして彼はこの種の討論を「価値討議」、もしくは「評価討議」と呼んだのである。まさに「社会政策学会」や「社会学会」におけるヴェーバーの主張は、「学問」と「政治」とのかかわり方、すなわち「価値討議」の視角からの「価値自由」の原理的な考え方の表明であったのである。

ウェーバーは、学問の名において、「価値」を討論することを否定していない。「経験的事実」との混同を戒めているのである。

 

ヴェーバーはまず「理解的説明」は科学にとってきわめて重要である、と主張する。それは

第1に、人間行為の実際の究極的動機を知るためにする行為の経験的な因果考察という目的にとって。

第2に、(実際にまたは外見上)評価を異にする人と討議する場合、実際に相対立する評価的立場を確定するために。

そして、この第2の場合こそ「価値討議」が「本来意味する」ものである、という。すなわち「議論の当事者同士が単に外見上ではなく実際に依拠しているところの価値をつかむことそしてこの後この価値に対して何らかの態度を取れるように仕向けること」、これが「価値討議」の本来の意味である。従って、経験的議論における「価値自由」の立場からすれば、「評価に関する討議は不毛」であるとか、「無意味」であるなどということは絶対にない。むしろ「そういう評価をめぐる討議の意味の認識」こそ、このような議論の前提である、というのである。

「外見上ではなく実際に依拠しているところの価値をつかむこと」…私は、これはなかなか難しいことであると思う。だからこそ専門家(学者)が存在する。「価値評価」を放棄した「事実認識」のみの社会科学はありえない。ある問題に関して議論しようというのであれば、専門家(学者)の「価値討議」は有益だろう。

「格差拡大は善くない」、という「価値評価」をめぐって、詳細を討議することは無意味ではないどころか絶対に必要である。ただ「格差拡大」の一部の現象を拾い上げ、場当たり的な「格差是正策」を打ち出したところで、責任ある政治とはいえない。

 

かくてヴェーバーは、「討議に参加している人びと自身の『実践的評価』に関する討議の意味を次のようにまとめ上げる。

  1. そこから食い違う意見が生まれてくる究極の、内的に「首尾一貫した」諸価値公理を取り出すこと。
  2. ある究極の価値公理が、そしてそれのみがある実態の実践的評価の基礎にあるとすれば、この価値公理から出てくるはずの、評価的態度にとっての「諸帰結」を演繹すること。
  3. ある問題に対する実践的な評価的態度を実際に貫いた際、出てくるはずの事実上の諸成果を確定すること。第1に、どうしても必要な特定の手段に結び付くことから出てくる諸結果。第2に、もともと欲したものではない副次効果が避けられないことから出てくる諸結果。

この3つである。ヴェーバーによれば、実際の「価値討議」の中で討論の参加者は、ある具体的な「評価」(例えば政策の「目的」)に対応して、一方には「究極の価値公理」(例えば世界観的基本立場)を取り出し、他方には「事実上の諸結果」(例えば「手段」と「副次効果」)とを確定することが出来る。そしてこのような方法論上のメカニズムを自覚し、おのれ自身の評価に囚われることのない個人にしてはじめて、他者の評価に無主体的に同調することもなく、まさに「価値自由」な討論を行うことが出来る、というのである。それゆえ、このような形での「価値討議」は「無意味であるどころか」、その「意味はすばらしく大きな」ものとなる。なぜなら、実践的評価の討議が正しい場所で正しい意味で行われるならば、「その効用は、討議の結果生じうる直接の『産物』に尽きるものではなく」、むしろ、このように正しくなされる「価値討議」は、「経験的な研究を刺激して、極めてながく続く有益な作用」を及ぼし、「研究の問題を設定するよう働く」ようになるからである。

ここで「価値公理」という言葉が出てきた。一般に「公理」は、「他の命題を導きだすための前提として導入される最も基本的な仮定」(wikipedia)とされるが、現時点で私は「価値公理」なるものが具体的にどういうものであるか知らない。しかし、上に述べられているように、「価値判断(評価)」の根拠を遡及して、それ以上遡れないところ(AだからAだ)まで追究するのも、良いとは思う。でもそれはかなり疲れる作業のような気がするし、果たして現実的であるか。やはり、専門家(学者)の出番かな。

 

「価値自由」とは、社会科学の認識から価値判断を排除することではない。認識の対象から「排除」しようとすれば、社会科学の対象は消えてしまう。認識の主体から「排除」しようとすれば、その主体は幻の中立者となってしまう。「無定見ということと科学上の『客観性』との間には、何の内的親近性もない」こと、「中間派は、髪の毛一筋ほども科学的真理に近づいてはいない」ことは、ヴェーバーが繰り返し主張した点である。より具体的に言えば、シュモラー的な「中道」の立場が科学的真理を決して意味しないこと、これである。

つまり、「価値自由」とは認識の主体から価値判断を排除することではなく、政治的、宗教的等々の価値判断の恣な働きを抑えることである。すなわち、事実認識・事実判断を価値判断から厳しく区別すること、換言すれば「認識」と「評価」を区別して堅持することにほかならない。

さらにヴェーバーに即して言えば、冷静な認識主体と強固な思想=行為主体は一体でなければならない。そうでないときほど、事実判断と価値判断の混同が起こりがちであり、「科学」と「政治」とは野合して「御用科学」と「学者政治」が生まれることになる。ヴェーバーの「知的誠実」と彼の市民的政治感覚は、そうした混同を断固として「排除」したのである。…ヴェーバーの「価値自由」論は、彼の学問体系の基本をなす一本の大きな導きの糸に他ならなかった。

社会科学は、人間社会の問題を扱う。

A:所得格差・資産格差が拡大している。格差是正策を打つべきである。

B:彼女は八頭身で知性もある。ミス・キャンパスにすべきである。

この二つの言明を誤ったものして、社会科学から放逐すべきではないだろう。