浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

価値相対主義(2) 人間としての矜持を持つ

平野・亀本・服部『法哲学』(18) 

いま読んでいる箇所は、第3章 法的正義の求めるもの 第2節 価値相対主義 である。

本節では、イギリスの哲学者ムーア(1873-1958)の「自然主義的誤謬」や「直覚主義」や「情動主義」などのメタ倫理学について、簡潔に解説されている。しかし、あまりに簡潔すぎて、よくわからない。そこで、各項目について、より詳しい解説を参照して、コメントしようかとも思ったが、煩雑になりすぎるし、メタ倫理学のテーマについては、別記事(現在は、加藤尚武「現代倫理学入門」)に委ねることとし、本節の最後のほうだけ引用する。

 

(20世紀前半の)ドイツの政治はしばしば革命の可能性が現実的なものと感じられるなかで、リベラル派は左右から挟撃され、国家主義か、共産主義か、中道か、といった選択と決断から無縁ではいられない状況に、学者やインテリを追い込んだ。

ウェーバーやケルゼンなど、ドイツの代表的価値相対主義者の心の奥底にあったのは、次のような信念であろう。私は、学問の名において、みずからの主義主張を正当化することは良くないと思うし、自分はそのようなことは決してしない。しかし、私は自分の主義主張が正しいと信じているし、その価値に奉じる決断をしたのだ。私の価値観に反対する国民もいるだろう。私は、その者たちを学問の名においてではなく、討論によって正々堂々と説得することに努める。結果的に、私の価値観に反する法律が出来て、私を拘束するかもしれない。しかし、その法律が民主的手続きを経て制定された以上は、法的に有効であるし、遵法義務もある。私の使命は、その法律の反対者が増え、改正されるように説得に努めることであり、自然法に帰依することではない

ウェーバーやケルゼンらが、「学問の名においてではなく」というとき、それは「学者としてではなく、社会に生きる一人の人間として」ということだろう。…それはそれでいいのだが、私には、彼が「学問の名において」発言しようが、しまいが、関係ない。どれだけ説得力あるかだけが問題である。(「教育」は別問題である)

「現代における状況」をどう捉えるか。「選択と決断から無縁ではいられない状況」であると捉えるかどうかは、その人にどれだけ「教養力(知性)」があるかに依存するだろう。それは「誰か偉い人が、何を言ったかを知っている」ことから生まれるものではない。

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このような価値相対主義は、確固たる決断を基礎にする一方で、他者の思想に対する寛容と思想の自由主義とに結びついている。ケルゼンの場合はとくに、「悪法も法なり」という法実証主義とも結びつく。しかし、自然法に依拠して実定法を批判するような軟弱な姿勢では世の中は変えられない、という確信がケルゼンにはあった。ケルゼンの価値相対主義は、革命の時代に生きる意志強固な個人を前提とする相対主義であって、平和な時代に価値観が違うからこれ以上議論しても仕方がないといってすますような意志薄弱な人間にとって、容易に耐えられるようなものではない。相対主義に立つにもかかわらず、ではなく、それに立つからこそ、決断と寛容が重要になるのである。

自然法に依拠して実定法を批判するのは「軟弱な姿勢」であるという言い方はおもしろい。慣習法、自然法、神などを持ち出して実定法を批判したところで、「世の中は変えられない」。それはケルゼンの生きた時代だけでなく、現代でも同様であろう。

相対主義は、思想の自由を標榜し、他者の思想に寛容ではあるが、他者の思想を放置することではなく、自らの思想と対決する、すなわち価値前提を明示しながら議論する(合意をめざす)ものでなければならないだろう。

 

価値相対主義は、価値が主観化した時代に、道徳的に潔癖な人間がとりがちな1つの道徳的立場であることを見逃してはならない。客観的価値への信仰が失われた時代にあっては、道徳的潔癖さは、絶対的価値への信仰としての価値絶対主義よりも、価値相対主義と結びつきやすい。

価値絶対主義者=絶対的価値への信奉者は、もはやほとんど存在しないだろうが、彼らが厄介なのは、議論=対話=話し合いを拒否することである。一見話し合うふりをしていても、自らの主張をくりかえすだけで、相手の主張をまともに聞こうとしない。「論理」ではなく、「信仰」が優先するので、その「洗脳」を解除することは非常に難しい。議論ではなく、他の方法が必要である……。

 

しかし、私はそれでもなお「絶対的価値」ではなく、「普遍的価値」なるものの可能性を捨ててはいない。「バラバラな価値」の乱立ではなく、良識ある者の大部分が認めるであろう「公理」としての「普遍的価値」があっても良いのではなかろうか。