浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

近視眼のマチス ニンフと笛を持つパン

宇佐美圭司『20世紀美術』(1)*1

宇佐美は、マチス(Henri Matisse、1869-1954)の次の晩年の作品を、最高傑作の一つと評価している。

ニンフと笛を持つパン 1940-43 *2

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これとよく似た作品に、次のものがある。

The charming fauna sleeping nymph 1935

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宇佐美は、次のように言う。

マチスのドゥローイングには、描き直して、木炭やコンテの汚れのトーンの上に最後の強い線が書きおろされているものが多い。白い紙の最初の線による形は、何といっても視覚的だ。しかし、それを手で消した瞬間から画面は、むしろ触覚的というか、空間をさわるような感じに変わっていき、あの豊かなヴォリュームを表現した作品に到る(「ニンフと笛を持つパン」)。マチスの最高傑作の一つと思われるこのドゥローイングでも、線はあくまで物の形にそってはいくが、そこで先端部分が強調されるのではなく、ぼかされるのが若い頃からの手法であった。先端部分を決めることで形はやすやすと、たとえば手、たとえば足というように視覚的な記号に変化してしまう。手がある、足があり太ももがある、と言わないために、そこにある状態が何度も消された。<…がある>というのはリアリズムである。しかし、だからといって彼はそれを抽象的な空間そのものに変えはしなかった、モンドリアンカンディンスキーのように。彼は消すプロセスを最後まで温存させ、視覚としては未分化な名付けがたいものの状態を保ちながら、何か身体的なひろがりや温もりを私たちに伝える。

モンドリアンと比較すれば、そこは明らかなのだが、現実の存在を溶解させ、存在を成立させる空間の方へ突き進めば、個々の存在は表現の中に痕跡を残しえなくなってしまおう。「眼光紙背に徹す」という眼差しを、このデッサンは開示するのではなく、逆によく視るということでは解決不能な曖昧性のなかに眼を封じ込め、視覚的な絵画言語になりえないもののありかを暗示するマチスの近視眼がそれを生理的に助けたのだと私は思う。

マチスがこのように意識していたかどうか分からないが、この宇佐美の見方はおもしろい。個々の存在を細密に描くのではなく、存在を消去してしまうのでもない。感情をもろに表現するのでもない。「身体的触覚的表現」により、「曖昧性のなかに眼を封じ込め」ようとする。存在を明晰にしようというのではなく、「曖昧」なままに捉える。「曖昧」と言うと、悪い意味にとられそうなので、「ぼんやりと」と言ったほうが良いかもしれない。微視的でもなく、巨視的でもなく、対象そのものを「ぼんやりと」捉える

 

George Percy Jacomb-Hood (1857-1929)に、次の作品がある。

Pan and the Nymph 1896 (Pan, nymph and dancing fauns?)

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タイトルに出てくる「ニンフ」とは、(妊婦ではないですよ)

ニンフ(nymph)…ギリシア神話で,山・川・泉・樹木やある特定の場所の精。古代ギリシア語ではニュンフェnymphē(普通名詞としては〈花嫁〉〈新婦〉の意)といい,ニンフはその英語形。歌と踊りを好む若く美しい女性で,ホメロス叙事詩ではゼウスの娘とされるが,神と異なって不死ではなく,そのかわりに非常な長命の存在と考えられた。彼女たちは,狩猟の女神アルテミスとともに山野をかけめぐり,酒神ディオニュソスに付き従って踊り狂う女たちの仲間に加わり,牧神パンや山野の精サテュロスたちと戯れる。(世界大百科事典

タイトルの「笛を持つパン」とは、(パンを知らない人には意味不明ですね)

パン(Pan)…ギリシア神話の牧人と家畜の神。その名は〈養う者〉の意。ローマ神話のファウヌスにあたる。もともとアルカディア地方の神で,同地方に多いヤギの脚と角を持つ姿に想像された。彼は山野に美少年やニンフを追いかける好色な神とされ,彼の発明した楽器で常時携えて吹き鳴らすシュリンクスSyrinx(パンパイプとも呼ばれる葦笛)も,かつては彼の追跡を逃れようとして葦に変容した同名のニンフであったという。彼はまた牧人や家畜に得体のしれない突然の恐怖(英語パニックの語源)を送ることでも知られるが,その原因は彼の昼寝を妨げて怒らせることにあると考えられた。(世界大百科事典

この神は歌舞音曲に秀で、陽気で、享楽的、そして機知に富む天性をも持ち合わせていた。パンは山猫の皮を着て山のニンフを集め、笛を吹き、輪舞することが好きであったアポロンにはかなわなかったが、彼の演奏は素晴らしく、その笛の音は快く、春のどんな小鳥の声よりも美しく聞こえたと言われる。また、パンは好色でニンフを追い回した。多くの場合、アポロンと同じように成功をおさめたが、それでもうまくことが進まなかった話もいくつかあったようである。ニンフのエコを慕ったが、エコはパンの異様な外形を怖れ、彼の望みから逃れた。そのため、パンの怒りにより、羊飼いよってエコは声だけにされ、それも他人の言葉を繰り返すことしかできない山彦になってしまった。

http://www.fuanclinic.com/p_plaza/vol_24a.htm

ニンフは「妖精」、パンは「牧神」と覚えておけば良いだろう。

牧神と妖精が戯れる夢幻世界を、George Percy Jacomb-Hoodのようには描かず、冒頭の2枚目のドローイングのように描く(1935)。これでも未だ「存在」が現れすぎている。そこで、1枚目の絵(1940-43)のように、存在を「ぼんやりと」捉える。ここでは顔がなくなっている。

 

誰がいつ描いたのかを知らず、タイトルもみないで、ただこの絵をみたとき、どう感じるか?

上述のような知識を仕入れてみたとき、どう感じるか?

この感じ方に差異があるとすれば……

 

***

 

宇佐美は、本章の最後に、こう述べている。

都会の高度に情報化された空間、あるいはそれに対峙してある疲労した文明の廃墟のような空間だけが、ペシミスティックな表現と共に、人間の未来を予見した時代は終わるかもしれない。いや終わらさねばならないのではないか。私たちの現実はすでに、人間がペシミスティックになれる閾値を超えてしまっているように思う。形の表現力やエネルギーが消滅していくのではなく、沸き起こるような表現の場が私たちには必要なのだろうと思う。

宇佐美が本書を書いたのは1994年である。この20年間も「情報化」は進展した。そして文明の廃墟も拡大した。

「人間がペシミスティックになれる閾値を超えている」とは、どういう意味か。

「人間がペシミスティックになることが許容されるレベルを超えている」と解して良いか。

 

エネルギーが消滅していくのではなく、沸き起こるような表現」とは、いかなるものか?

*1:今回は、「第1章 マチスを回顧する」の一部分だけを取り上げます。

*2:この作品は、一般的には、主要作品ではないようだ。