浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

自然主義的誤謬 ヒュームの法則 直覚主義(直観主義) 情緒主義(情動主義)

加藤尚武『現代倫理学入門』(15)

第7章 <……である>から、<……べきである>を導き出すことはできないか に入ると言いながら、本書を離れて、ウェーバーとシュモラーの「価値判断論争」を見てきた。しかし、あえて、その「まとめ」はしないでおく。

 

加藤は、本章冒頭で、次のように言っている。

「男は男らしくしろ」と言うと、「男である」から、「男らしくあるべきである」を導いたことにならないだろうか。すると倫理学の主張の大部分が「である」から「べきである」を導き出すという誤りを犯しているのかもしれない。G.E.ムーアがこれを「自然主義的誤謬」と呼んで以来、「<……である>から<……べきである>を導いてはならない」は、現代倫理学の基本的なドグマ[教義、堅固な信条]となっている。

 

自然主義的誤謬」というのは、難しい言葉である。加藤は「自然主義」の説明をしていない。辞書によれば、倫理学用語としての自然主義とは、

倫理学で,善や規範を超越的な原理からではなく,感覚的経験から導出する説。また,内的あるいは外的自然に即した生活を旨とする主義。(大辞林

「善(規範)」を、「神」などという不可知なものから導くのではなく、「感覚的経験」から、すなわち日常の個人的・社会的営為から導こうというのは素直な考え方のようにもみえる(上記の「また」以降の定義は無視)。ところがヒュームはこの考え方を批判する。児玉の説明を参照しよう。

ヒュームの法則…「~は自然である」「~は不自然である」といった主張によって、「だから~をすべきである、すべきでない」 と続けて主張(あるいは含意)されることがしばしばあるが、ヒュームによればこれは間違った推論である。何かが自然であるとか不自然であるということのみからは決して「~すべきだ、すべきでない」という結論を導き出せない。(https://plaza.umin.ac.jp/kodama/ethics/wordbook/humes_law.html

自然主義的誤謬(ムーア)…「快さ」や「望まれるもの」など、自然において存在するものによって「善さ」を定義しようとする試みは、すべて失敗するから誤りである、とする説。 彼自身は、「善さ」は定義できない、と主張し、ただただ直観的に理解できるだけだ、と論じた。…メアリ・ウォーノックは、自然主義的誤謬は「自然的なものによって道徳的なものを説明しようとするあやまり」という側面が強調されがちであるが、むしろ重要なのは、「『善さ』という定義不可能なものを定義しようとする誤り」という側面である、と述べている。(https://plaza.umin.ac.jp/kodama/ethics/wordbook/naturalistic.html

自然主義的誤謬」というときの自然とは、ヒュームが「何かが自然であるとか不自然であるということのみからは決して「~すべきだ、すべきでない」という結論を導き出せない」というときの自然である。これは、前々回と前回にみてきた価値判断論争における「事実」や「存在」とほぼ同義だろう。従って、「事実(……である)から、当為(……べきである)を導くこと」を、「自然主義的誤謬」と簡便に言ったものであろう。(加藤は、本章冒頭でそう言っている)

 

加藤は、ムーア(George Edward Moore、1873-1958、イギリスの哲学者)について次のように書いている。

ムーアの基本的な主張は、ややあっけないほどに「善は定義できない」という言い方で表現されている。…ムーアは、善という観念が「黄色い」と同じような単純観念で、要素に還元することができないと考えていた。そして定義することと要素への還元とを同一視していたために「善という単純観念は、要素への還元が不可能だ」ということが、完全な真理だと判断していた。実際、「要素に還元できない観念(単純観念)は、要素に還元するという形での定義ができない」というのは真理ではあろう。

先ほどの児玉の説明とあわせて考えてみよう。ムーアが言いたかったことは、「事実から当為は導けない」ということよりも、「善は定義できない」ということのようだ。では、それは何を意味するか。

私たちは、「善い、正しい、美しい」ので「…すべきである」と言う。「それは善いことだ。そうすべきだ。」…ところが、ムーアは「善は定義できない」という。素朴な反論がある。「善いか悪いか分らないなら、何をしてよいか分らないではないか。溺れている人を助けるのは<善>ではないのか。定義できないから、溺れている人を助けないというのかね。」

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それならば「何が善か」ということの裏付けとして、我々は何を頼りにしたらいいのだろう。

当然、こういう疑問が生じる。

ムーアの自然主義批判からは、直覚主義と情緒主義という考え方が出てきた。

直覚主義とは、推論や観察によってではなく、直接的な直覚でしか「何が善か」は分らないという立場である。直覚的に人間の義務が明らかになると言う事例を直覚主義者は重視している。つまり、直覚主義は、心理的主観主義でしか裏付けられない理想主義を表現している。

わけの分からない説明である。直覚? 義務? 心理的主観主義? 理想主義? 

辞書のお世話になろう。

直観…日本に初めて西洋の思想が紹介される際,intuition(英語,フランス語)の訳語には初め〈直覚〉が当てられていたが(例えば,西周《心理学》,1875‐79),それがしだいに〈直観〉にとって代わられ,今日に至っている。intuitionは,〈凝視する〉とか,ときには〈瞑想する〉といった意味を有するラテン語intueriに由来し,一般に直接的知識を意味するが,ドイツ語のAnschauungも,事物への接近・接触などを表す接頭辞anと,意志的な見る行為を意味するschauenとからなり,やはり同様の知のあり方を意味する。(世界大百科事典

直観…一般に,推理・推論や伝聞によらない直接的な知識の意。〈直覚〉とも。感覚にもとづく知,幾何学の公理のごときア・プリオリな命題,空間や時間の表象(カント)が直観と呼ばれることが多いが,語義・合意の広狭は,立場に応じて一定しない。(百科事典マイペディア)

「直接的な」とはどういう意味か。…直覚主義=直観主義とは、どういう意味か。

直観主義倫理学で,善悪の道徳的判断は、理性ではなく情緒的・知的直観によって可能となるとする説。功利主義とともにイギリス倫理学説の底流をなす。(大辞林

情緒的直観や知的直観と言われても、「それは何?」となる。「直観=推理・推論や伝聞によらない直接的な知識」って何? となる。そんな直接的な知識でもって、どうして善悪の道徳的判断ができるのか? という疑問は解消されない。

さきほど、「直接的な直覚でしか何が善かは分らない」とあったが、これは言い換えれば、「直接的な直覚で、何が善かは分る」ということである。さらに直覚を言い換えて、「推理・推論や伝聞によらない直接的な知識で、何が善かは分る」となる。ならば、赤ん坊は、そのような知識を保有していて、何が善か分るのだろうか。小学生なら分るのだろうか。「いじめを見て見ぬふりをする」のは、「直接的な知識で、善かどうかが分る」のだろうか。「人を殺すこと」、「殺人兵器を作ること(新兵器の研究開発をすること)」は、「直接的な知識で、善かどうかが分る」のだろうか。遺伝子操作することは、「直接的な知識で、善かどうかが分る」のだろうか。…ちょっと考えてみればわかるように、直観主義=直覚主義は、まったくナンセンスな主張であるように思われる。

情緒主義というのは、消極的に言うと「価値を表現する言表は、世界についての真または偽の情報を含意しない」という立場であり、積極的に言うと「価値を表現する言表は、話者の情緒、態度を表現する」という立場である。直覚主義と違って、情緒主義は「話者の私的な欲望、願望」に向かって開かれている。

倫理学の入門者に、「世界についての真または偽の情報を含意しない」などという持って回った説明はないと思うのだが、「価値に関する言明は、事実に関する言明とは異なる」と解しておこう。また「情緒主義は、話者の私的な欲望、願望に向かって開かれている」とは、「ある人がある価値判断をした場合、それはその人の欲望(願望)から、そのような価値判断をしたのである」と理解しておこう。だとすると(この解釈が間違っているというのであれば、入門者向けにもっと分りやすい説明をしてほしいと思う)、その価値判断が、美的なものの価値判断であれば分らないでもないが、社会的な物事に関する価値判断ならば、これまたまったくナンセンスな主張であるように思われる(理由はあれこれ言わなくてもわかると思う)。

 

ムーア自身は、美しいものを眺め、親しい人々と交際するという知的で小市民的な善さを、本当に良いものとして認めていたが、彼の哲学的議論は「善は定義できない」から、客観的な倫理学は「定義できない」という一言に尽きるという洒落たサロン趣味の話題に倫理学を閉じ込めるという文化的な役割を果たすことになった。

ムーアが本当に「知的で小市民的な善さを、本当に良いものとして認めていた」のであれば、「善は定義できない」などという馬鹿げたことを主張しないと思うが、どうなんだろうか。

 

加藤は、次にロス(William David Ross、1877-1971)の「直覚主義の立場を生かした義務についての考察」について述べているが、「直覚」については前述の通りなので、これは省略する。

 

こうなると、論理的な意味での「自然主義的誤謬批判」は、価値的に見て中立の立場を表現しているのではなくて、「価値判断は存在に拘束されてはならない」という二次的価値意識の間接的な表現なのであり、本当は「価値の根拠は自由な決断や、個人と個人の約束以外にはない」という二次的価値意識を正当化するために、敵方の主張をまるで論理的な間違いであるかのようにして、「自然主義的な誤謬」というレッテルを作り出すものとなる。生き方としての自然主義を抹殺するための装置が「自然主義的な誤謬」論の正体だということになる。

これまた分らない。論理的な意味での自然主義的誤謬批判? 論理的でない意味での自然主義的誤謬批判とはどういうものだろうか。二次的価値意識? 一時的な価値意識とは何か。「価値の根拠は自由な決断や、個人と個人の約束以外にはない」というのが「情緒主義」の主張なのだろうか。自由な「決断」とか、「個人と個人の約束」という話は出てこなかったように思うが…。生き方としての自然主義? 初耳だ。

私は、自然主義的誤謬とは、「事実から、当為を導くこと」であると理解したのだが、それがどうしてレッテル貼りとか、「生き方としての自然主義を抹殺するための装置」となるのか、理解できない。