浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「思いやりの原理」で、話し合うこと

伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(3)

「今度の休日にどこへ出かけようか」の楽しい話や、「新商品Aの販促にどういう手を打つか」のビジネス上の問題、さらには「難民をどう支援するか」のシリアスな問題など、話し合い(議論)を必要とする無数の問題(課題)がある。そういう話し合いを、どのようにうまく進めていくか。…伊勢田は、非常に大切なことを述べていると思う。

 

クリティカルシンキング(CT、批判的思考)の出発点は、議論を特定することである。議論を特定するとは、「相手の主張について、どういう前提から、どういう結論が導き出されているかをはっきりさせること」であった。

曖昧に見える主張や議論も、一定の規則にしたがって、きちんと再構成してみれば、わりに筋の通った議論になっていることが多い。…議論の特定をするうえで、暗黙の部分まで含めた再構成という手法は不可欠である。

知識・経験の異なる者の主張(意見)を他者が十分に理解することはなかなか難しい。どうしても曖昧さがつきまとう。それゆえ、行間を読む、言外の意をくむ、文脈をたどることが必要となる。

相手の議論を組み立てなおすときの心構えとして、「思いやりの原理」(principle of charity)がよく挙げられる。日常会話はもとより、かなり厳密に議論しているつもりのときでも、我々の使う言葉には常に意味の曖昧さや多義性が伴う。…また言っているつもりのことを言い忘れたり、ちょっとした言い間違いをしたりということも日常茶飯事である。従って、聞く側がちょっと意地悪に解釈すれば、相手の言っていることをおよそ筋の通らない不合理な議論として再構成するぐらいは簡単にできる。…しかし、お互いに相手の議論を不合理に再構成しあっていては、およそ有意義なコミュニケーションはできない。そういう論争はお互い疲れるだけで何も得られないことになり、時間の無駄である。…論争は、お互いの言っていることを理解する協力的な作業だと思うこと、これもCTをする上で重要な心構えである。

相手の議論を好意的に解釈するというのは、「疑う」ことと矛盾しない。疑うこと自体が目的ではなく、主張を吟味することが目的なのだということを念頭に置くなら、疑うことと協力的態度は決して矛盾しない。そうした協力的作業において役立つのが思いやりの原理である。これは、相手の議論を組み立てなおす場合には、できるだけ筋の通ったかたちに組み立てなおすべきだ、という原理である。もうちょっと具体的には、相手は基本的な思い違いをしているとか基本的な推論規則を誤用しているという解釈と、そうした思い違いや誤用がないという解釈の両方が可能な場合には、なるべく誤解をしていないという解釈をするべきだ、ということになる。

思いやりの原理」…うーん。いいですね。これは、しっかりと覚えておこう。

私は、これまで「相手の立場に立って考える」ということを心がけてきたが、これと同じだろうか。違うだろうか。ちょっと考えてみたい。

ビジネスで、開発部門と営業部門が商品戦略をめぐって議論している状況を想定してみよう。「相手の立場に立つ」とは、「販売にかかわらない開発部門が、売る立場に立って、当該商品をみる」、「開発にかかわらない営業部門が、設計・製造する立場に立って、当該商品をみる」ということである。そうすることによって、「良い商品」ができる。

…これでうまくいくだろうか。うまくいく場合もあるし、うまくいかない場合もある。なぜか? 開発と営業では専門分野が違う。他分野のことを理解するのは非常に難しい。経験の量が圧倒的に違う。基本的な事柄は理解できようが、ちょっと専門的・応用的な事柄になるとわからない。ニュアンスが理解できない。議論が平行線のままで収束しないことも多い。そこで権限者の裁決に委ねることになる。この話は、「理性」だけでは解決できない、不満が残ることも多々あるということを示している。

そこで「思いやりの原理」の登場である。私はこれを次のように理解する。すなわち、「よく分からないが、あなたの主張は正しいかもしれない。それはこういうことですね。」と、相手の主張を好意的に解釈する理性で納得するのではなく、感性で共感する。…「ベクトルをあわせる」という言葉がある。ベクトルをあわせるためには、「思いやりの原理」が必要だろう。何のために話し合うのか(議論するのか)。論破することが目的ではない。対立ではなく、協調である。(但し、協調は、「なあなあ」で妥協することではない)

 

CTの世界では、相手の議論を意図的に意地悪に解釈してやっつけるのは「わら人形論法」と呼ばれ、きびしく戒められる行為である。「わら人形」というと日本語ではえらくおどろおどろしいイメージだが、これは英語のstraw manの直訳で、英語では誰も主張していないことに勝手に反論するのを「straw manをでっちあげる」と表現するのである。

「相手の議論を意図的に意地悪に解釈する」のは良くないことであるのは、誰でも分かる。

ここでは、「わら人形論法」を、イメージ的に解釈してみよう。

次の図で、A氏は、緑○の部分を主張し、「赤い」という。

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ところが、B氏はこれを、白○の部分と解釈し、「黒い」と主張する。

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知識・経験が異なる。そして言葉の多義性。したがって、白〇の解釈は、必ずしも「悪意」を前提としない。しかしここに「悪意」を認めれば、「わら人形論法」となる。悪意が無く、白〇を主張しているのであれば、それは「誤解」である。それは通常、話し合いを続ければわかるだろう。

この図形はなかなか面白い。Aの緑〇の主張は、緑〇の外部の知識・経験を背景に持つ(上部の黄と下部の黒の存在とともに中間の赤がある)。ところが、Bの知識・背景はこれとは異なる。同じものを見ているようでいて、実は同じものをみていない。これは一般的に言えることではないかと思う。

白〇を「わら人形」と決めつけずに(決めつけて批判するのではなく)、「誤解」だと善意に解釈して、つまり「思いやりの原理」でもって、話し合いを続けるという姿勢が肝要であろう。

 

但し、思いやりといっても行き過ぎは問題で、あくまで相手の発言とつじつまがあう範囲内での選択である。「名古屋は日本一の街だ」と主張しているのに、それでは筋が通らないからといって、「これは本当は『東京は日本一の街だ』という意味なのだろう」などと「思いやり」を発揮したら…それは思いやりの原理を超えた単なる恣意的解釈である。

但し、思いやりといっても行き過ぎは問題で、あくまで相手の発言とつじつまがあう範囲内での選択である。「名古屋は日本一の街だ」と主張しているのに、それでは筋が通らないからといって、「これは本当は『東京は日本一の街だ』という意味なのだろう」などと「思いやり」を発揮したら…それは思いやりの原理を超えた単なる恣意的解釈である。

 

 具体的には、相手の議論を組み立てなおしてみて、以下のような特徴が出てきたら要注意である。

  1. 相手は誰でも思いつくようなことを見落としている。
  2. 相手の言っていることが前と後であからさまに矛盾している。

こういう場合には、自分の組み立てなおし方に問題があるのではないか、相手の議論には別の解釈の仕方があるのではないかと一度疑ってみることをおすすめする。

 「自分の方に問題がある」とはなかなか思いづらいものであるが、「相手に理があるかもしれない」と一歩引いて冷静になることが良好な結果を生む、あるいは事態を悪化させない方途であるように思う。

 

なお、思いやりの原理は、相手と基本的な問題設定やものの見方が根本的に異なる場合には、むしろコミュニケーションの障害となりうる。

伊勢田はさらりと述べているが、私はこの点がコミュニケーションの最大の問題点なのでは、と思っている。…<相手と「基本的な問題設定」や「ものの見方」が異なる場合>には、いろいろあるだろうが、例えば、AとBで、大きな力の差があった場合、話し合い(議論)は可能だろうか。強者が「思いやりの原理」でもって話し合えばまだしも、弱者が「思いやりの原理」でもって話し合えば、ほとんど強者の論理が支配してしまうように思われる。また、Aが右を向き、Bが左を向いている場合、つまりゴールが異なる場合、コミュニケーションは非常に困難になる。それでも同じテーブルにつくことが出来れば、ゴールに関する話し合いは可能であると期待したい。しかし、AとBが(武力闘争をも辞さない程度に)敵対している場合には、同じテーブルにつくことさえできないだろう。話し合い(議論)、対話、交渉拒否の状況である。そこには「思いやり」も何もない。ただ排除し、抹殺するだけである。ここでの問題は、「どうしたら同じテーブルにつくことができるだろうか」である。

 

「思いやりの原理」に沿ってなるべく相手の意図をくんで発言を解釈しようとしても、例えば相手の議論に結論らしい結論がなかったり、結論と論理的に何の関係もなさそうな証拠が挙げられたりしている場合にはどうしたらいいのだろうか。そもそも議論になっていない、といって却下してしまってよいのだろうか。

人は理路整然と思考し、話している(書いている)わけではない。結論がない(明確でない)と思ったり、その証拠は関係ないと思ったりしても、それは受け手の判断である。また、意図的にそういう話し方(書き方)をすることもある。そういう事情を考慮せず、決めつけることは軽率だろう。そういう場合には、「思いやりの原理」で、話し手の意図をくみ取り、「あなたの仰ることは、こういうことですね」と確認をとりながら、話をすすめることが必要である。(相手が本当に分かっていなかったとしても、そういうふうに言われれば、「はい、そうなんです」と受け入れることができる)

 

日常の会話でも、あるいはもっと厳密な議論の場でも、省略のしかたには一定のルールがある。さもなければ聞き手は省略された発言をうまく解釈することはできないだろう。そうしてルールを踏まえて発言の含みを読み取ることで、相手の議論をより「思いやり」をもって解釈することが可能になる場合がある。

伊勢田は、次のような会話を例に説明している。

A「すいませんBさん、ドライバー持ってますか」…①

B「ドライバーならCさんが持っているよ」…②

A「……Cさん、申し訳ありません、ドライバーお持ちでしょうか」

C「ドライバーは持っているには持っているが、家に置いてきた」…③

A「え、そうですか、どうも……Bさん、Cさんはドライバー持ってきてませんよ」

B「何、もしかしてドライバー貸してほしいの?」

A「最初からそう言ってるでしょう」

B「言ってないよ。ところで、ほら、これ」…④

A「あれ、Bさんドライバー持ってなかったんじゃないですか」

B「ドライバー持ってないなんて、一言もいってないよ」…⑤

このような会話は日常会話では、まずあり得ない。子どもでもこんな非常識な会話はしない。

しかし、書き言葉の議論や論戦ではあり得る。大人でもこういう会話をする。そこには悪意が感じられる。人間性が感じられないといっても良い。

①の発言には、「ドライバーを貸してほしい」という意味が暗黙のうちに含まれている。「ドライバーを貸してほしいんですが、Bさん、ドライバー持ってますか」などとは言わない。あえて、「ドライバーを貸してほしい」と言わなくても(省略しても)意味が通じる。意味が通じないとしたら、社会的経験が欠如している幼児である。したがって、Bがドライバーを持っていて②の発言をしたとしたら、そこには悪意が感じられる。

Bの④の発言、「言ってないよ」は、表面的には正しい。しかし、普通の社会的経験があり(義務教育を受けていて)、「ドライバーを貸してほしい」という含みがあることが当然理解されていてしかるべきだとすれば、④の「言ってないよ」という発言は正しくない。⑤についても同様である。表面的には正しい。しかし、②の発言は、「私は持っていないが、Cさんなら持っているよ」と受け取るのが、普通である。だから⑤の「一言もいってないよ」というのは正しくない。

 

上の会話例はわかりやすい。誰でも、Bの発言はおかしい、と思うだろう。しかし、実際の話し合い(議論)では、こんな単純なものはまずない。…話し手(書き手)にとって、あまりに当然の事柄は省略される(省略しないと冗長になる。もちろん、聞き手(読み手)のレベルを想定して省略の程度が決められるわけだが。)しかし、聞き手(読み手)にとっては、必ずしも当然の事柄ではないことがしばしばある。そこでお互いに「思いやりの原理」をもって話し合うことが必要となる。

 

私は、「思いやりの原理」とは、上図における緑〇の主張を、全体の中から切り取られた主張であると理解すること、そしてゴールに向けて貢献するように解釈することである、と考えたい。