塚越健司『ハクティビズムとは何か』(1)
Amazonの内容紹介より
サイバーテロリスト? それとも正義の味方?
アノニマス活動により政府や企業にさまざまな被害が出たり、ウィキリークスによって各国の機密情報などが次々に暴露され、外交にも影響を及ぼしていることは知られている。
これらの動きにはどのような潮流や歴史的背景があるのだろうか?
気鋭の論者が「ハクティビズム」というキーワードを軸として、ネット社会を論じる。
第1章 コンピュータとハッカーの登場
第2章 ハッカーと権力の衝突
第3章 創造性とウィキリークス
第4章 仮面の集団アノニマス
第5章 ハクティビズムはどこに向かうのか
本書を読むきっかけは、吉成真由美『知の逆転』の中に、トム・レイトンに対するインタビューで、「アノニマス」の話が出てきたからである。政府にサイバー攻撃を仕掛ける彼らの狙いは何なのか?(数学と経営 もしもし、スティーブ・ジョブズですが… 参照)
一般的なハッカーのイメージは、
ハッカーとは、コンピュータ技術に精通した人。転じて、コンピュータ技術を悪用して他人のコンピュータに侵入・破壊を行う者を指すことが多いが、この用法は誤用が定着したものなので使用すべきでないとする人も多い。本来、「ハッカー」という用語には悪い意味はなく、むしろ高い技術を持った人々に対する尊称として使用されていたことから、古参の技術者などの間には、技術を悪用する人々は「クラッカー」(破壊者)と呼んで「ハッカー」とは区別すべきであるとする主張も根強くある。(IT用語辞典 e-Words)
とあるように、「犯罪者」のイメージが強い。
最初から余談だが、言葉の意味が変わる例として、「君子豹変」を紹介しよう。
〈君子は豹変す〉とは、徳の高い立派な人物は、過ちに気づけば即座にそれを改め正しい道に戻るものだということ。また、状況によって態度や考えを急に変えるものだというたとえ。…「君子」とは、学識・人格ともに優れた立派な人のこと。豹の毛が季節によって抜け変わり、斑紋がはっきりと目立つことから転じて、態度ががらりと変わることを「豹変する」という。『易経・革卦』にある「君子豹変す、小人は面を革む(あらたむ)(君子が過ちを改めることは、豹の模様のようにはっきりしている。しかし小人はただ外面を改めるだけである)」に基づく。
次の解説は、なかなか面白い。
君子豹変(君子は豹変す)とは、立派なリーダーは正義と知ればそれまでの態度をがらりと改め、日々善に変化していくものだという、中国の『易経』による格言。しかし現代では、ささいなことで突然怒り出して手がつけられない上司や、前言を撤回してしゃあしゃとしている政治家などを評する、マイナス評価の言葉として用いられている。それはどうやら「豹変」の意味が誤解されているからのようで、これはそれまでおとなしかった豹(ヒョウ)が突然子どもの頭にかぶりつくという意味ではなく、豹の毛が生え替わって身体の模様が美しく変化するという意味。また「君子(身分が高く人格の優れた人)」と呼ばれる人のはなはだしい質の低下も、「君子豹変」の意味の劣化に影響しているものと思われる。
なお、『易経』では「君子豹変」に「小人革面(小人は面を革む)」と続き、態度をがらがら変える君子に対して、その部下は「またかよ」と内心舌打ちしつつも表向きは喜んで君子に付き従う態度をとるという、組織のリアルな描写がなされている。(CAS)
上例のような上司や政治家の顔が浮かんだ人もいるだろう。現代の用法は原義に反していると目くじらを立てる必要はないが、そもそも上司や政治家を「君子」(学識・人格ともに優れた立派な人)とみなしているところが、誤りと言うべきなのかもしれない。…「君子豹変」を覚えたら、ついでに「小人革面(小人(しょうじん)は面(おもて/めん)を革む(あらたむ))」も覚えておこう。
塚越は、ハッカーを次のように説明する。
ハーカーの起源は、1950年代後半、アメリカのMIT(マサチューセッツ工科大学)のテック鉄道模型クラブにある。テック鉄道模型クラブでは、模型の下に置かれた列車を動かすための動力と信号回路の複雑性に魅了された若者が、回路の改善のために日々その持てる力を注ぎこみ、仲間同士で隠語を作りあって楽しんでいた。その中から「単に建設的な目標を達成するだけではなく、それにかかわること自体がスリリングな喜びであるような作品や計画は「ハック」と呼ばれた」。そのハックを実行するのがハッカーである。
ハックには二側面がある。一つは建設的かつ合理的なシステムの改善であり、もう一つは誰も思いつかないような改善という名の創造的行為である。こうしたハックは、しばしば人々から賞賛される行為であった。(P27)
「ハッカーは創造的な実践のために、つまらない問題を何度も解くようなことはせず、ハッカー同士情報を共有し、なるべく効率的に仕事を遂行する。」(エリック・レイモンド)(P28)
コンピュータの無限の可能性を引き出そうとする情熱、未知なるものへの憧れ。ただひたすら、コンピュータの可能性を追求するためだけに莫大な労力を惜しみなく注ぎ込む彼らのあり方こそが、ハッカーなのだ。
ハックとは、どういう行為なのかを理解する必要がある。塚越は、第一に「建設的かつ合理的なシステムの改善」を挙げているが、これは別にどうということもなかろう。第二の「誰も思いつかないような改善という名の創造的行為」が「コンピュータの無限の可能性」という時代状況のなかで結びつき、このような行為が「賞賛される行為」であるということに、ハックの特徴があるのだろう。1950年代後半、コンピュータ黎明期の話である。ここには犯罪のにおいは微塵もない。
塚越は、スティーブン・レビー(アメリカのジャーナリスト、1951-)の「ハッカー倫理」を紹介している。
レビーはハッカーたちへのインタビュー調査から、TX-0*1を中心にした彼らの思考、倫理、そして夢といった特徴をひっくるめ、「ハッカー倫理」と称して6つにまとめて定義する。
① コンピュータへのアクセス、加えて何であれ、世界の機能の仕方について教えてくれるものへのアクセスは、無制限かつ全面的でなければならない。実地体験の要求を決して拒んではならない。
ハッカーたちは、物を分解、観察し、より新しいものを作り出そうとする試みを無条件に良いものと考える。例えば交通システム、信号の位置や標識など、事故や渋滞の軽減に向けた改善の余地があると思えば、彼らはそのシステムを何があっても改善したいと考える。逆にそうした試みを妨げるようなものに対しては、徹底的に抗おうとする。そのためハッカーは、しばしば法的に許されないシステムへの侵入を図ることもある。無論そうした行為は犯罪目的ではなく、あくまで知的探求心ゆえのことである。
このハッカー倫理は、なかなか興味深い。「世界の機能の仕方について教えてくれるもの」とは何か。(塚越の解説がないので想像で言うのだが)私はこれには哲学的な意味はなく、例えば交通システムで言えば、「政府・大学・研究機関等の公共機関が保有する交通に関連するすべての情報」をいうものだと考える。そういった情報に自由にアクセスできてこそ、創造的なシステムが構築できる。…「法的に許されないシステムへの侵入」には異論があるだろう。情報への自由なアクセスが法的に制限されていた場合にどういう手段をとるかという問題であって、それは「ハッカー倫理」を構成するものではない。
② 情報はすべて自由に利用できなければならない。
あるものを改善しようとすれば、当然必要な知識や、プログラムの詳細を知らなければならない。そのためには、プログラムのソースコードの公開と内容の検討、そしてよりよいプログラム作成のためのルールづくりが必要だ。するとすべては必然的に、情報のオープン化を推し進めることになる。
どうしたら「創造的な行為(知識)」が可能か。言うまでもなく、創造的な知識は、先人の知識をベースにしている。それらの「先人の知識」が、独占・秘匿されていては、「よりよいプログラム」は生まれない。ハッカーにとっては、「情報のオープン化」は必然であろう。…「情報・知識の共有」に関しては、別記事で検討したい。
③ 権威を信用するな――反中央集権を進めよう。
自由な情報交換と知識の共有のためには、オープンなシステムが必要とされる。ここで注目すべきは、ハッカーが官僚主義を徹底的に批判している点にある。常に新しくアップデートを繰り返し、その合理的システムの性能向上を目指す彼らは、規則に縛られた官僚主義は、システムを駄目にすると考える。官僚が絶対服従する規則は政治システムによって恣意的に構築されたものであり、ハッカーからすれば非合理的で美しくない。非合理性にまみれた官僚主義を、ハッカーは許さない。
自由な精神を信奉するハッカーは、当然に権威を信用しない。官僚が彼らの自由を制限しようとすれば、彼らは反抗する。それはわかるが、「(官僚が絶対服従する)規則は政治システムによって恣意的に構築されたものであり」とか「非合理性にまみれた官僚主義」というのは、偏った決めつけである。(当時のハッカーが本当にそのように考えていたかどうか知らないが)
④ ハッカーは、成績・年齢・人種・地位のような、まやかしの基準ではなく、そのハッキングによって判断されなければならない。
「成績・年齢・人種・地位」のような基準が、創造的行為(知識)の意味でのハックにとって何の意味も持たないことは言うまでもないだろう。言い換えれば、「成績・年齢・人種・地位」を振りかざしての発言は、何の意味も持たないということである。その発言内容のみが評価されるべきものである。
⑤ 芸術や美をコンピュータで作り出すことは可能である。
これがハッカー倫理であるというのはおかしいが、当時の関心事だったのだろう。コンピュータの「可能性」の象徴だったのかもしれない。今でいえば、さしずめAI(人工知能)だろう。
http://fortune.com/ai-artificial-intelligence-deep-machine-learning/
⑥ コンピュータは人生をよいほうに変えうる。
当時は、こういう言わば「信念」があったのだろう。いまではコンピュータはツールに過ぎないと考える人が大部分であろうが、それでもAIやインターネットの可能性(社会変革の可能性)を信じる者がいる。
この倫理的精神性には、ハッカーと犯罪の問題を考慮せず、合法的かつ評価に値するものだけをレビーが抽出しただけではないか、という疑問もある。とはいえ、当時において、これらの精神性がハッカーに共通してみられたことは誤りではないだろう。
ハッカーと犯罪の問題については、後で出てくる。
ここではハッカー精神(倫理)が、今からみても決して古びてはいないということを確認しておこう。
ハッカーが悪い意味に転化してしまった以上、いまさら原義がどうのこうのと言う必要はないが、レビーがまとめたハッカー精神を現代的に解釈してみるのも悪くはなかろう。