浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

普遍化可能性の議論(1) 他人の痛みがわかりますか?

加藤尚武『現代倫理学入門』(19)

今回は、第9章「思いやりだけで道徳の原則ができるか」である。

相手の気持ちになってあげることが道徳の基本だという考え方は、東洋でも西洋でも語られている。…「わが身をつねって人の痛さを知れ」と諺に言うのは、痛さというものが経験しにくいからではなくて、他人の痛みを我々が分ってはいても度外視してしまうからだろう。自分の痛みと他人の痛みとのバランスを取らなくてはならない。

自分に(心の)痛みがないならば、「他人に痛みがある」ことを頭で理解していても(ニュース等で知ってはいても)、度外視してしまう(何もしない)。せいぜいが「かわいそうだね。歳末助け合い募金や24時間テレビで募金をしよう」という程度で終わる。

自分に(心の)痛みがあるならば、「世間の風は冷たい」と痛切に感じる。私と彼らの距離は限りなく大きい。私は無知であり、無能であり、存在価値はない…。

倫理(道徳)はどうあるべきなのか。

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「あなたが他人からして欲しいと思うことを、そのまま他人に行え」とか、「あなたがして欲しくないと思うことを、他人にするな」とかいう言葉がある。…タレスには「正しい生活とは、われわれが他人に対して非難することを、自分自身では行わないことだ」という言葉が伝えられている。

正義の神様は、たいてい秤(はかり)を持っている。秤の左右は対称形をしている。対称形が正義を思い浮かべる、さまざまな文化に共通の形であったらしい。公平、公正、平等とかの概念が、正義の核心にある。…差別をしてはならないという観念は、「ある人に認められる権利の行使は、同じ権利の行使が同様な状況に置かれた人すべてにとって認められるのでなければならない」ということができる。

 

この黄金律に対しては、「意地悪な反論」がある、と加藤はいう。あなたは、この反論にどう応答するか。

  1. 「同様な状況に置かれた同様な人すべてによる同じ行為」というものは、この世には存在しない。…厳密に「同じもの」が存在しない以上は、「同様な状況におかれた同様な人すべてによる同じ行為は同じに評価せよ」という原則は実行できない。この正義の原則を実行したつもりになっている人は、実際には「違う行為を同じに評価する」結果になっているのだから、正義の原則を実行しようとする人はすべて正義の原則に背いている。
  2. 「自分が望むことを、彼(彼女)にする」という原則が「彼(彼女)が望まないことを、彼(彼女)にしない」という原則に優先するのなら、「彼(彼女)の嫌がることをすべきだ」という結論になる。
  3. 「私のある行為が私にとって正しいからといって、同じ行為は同様な状況に置かれた同様な人すべてにとって正しいとは限らない」という右のと逆のテーゼに合致する行為が、悪であるとは言えないばかりか、この逆テーゼに従った行為の方が、ずっと道徳的である場合がある。例えば「私が皆さんの分まで献血しますから、皆さんはどうぞ、ご自分を大事にしてください」という態度が道徳的でないとは言えない。

第1の反論について…これは「為にする議論」(ある別の目的をもって、また自分の利益にしようとする下心があって、事を行うこと。[大辞林])のように聞こえる。厳密に「同じもの」が存在しないことは言うまでもない。「同一」ではなく「類似」のもの(状況)と考えなければならない。どの程度「類似」しているから、原則をどう適用するかが問題となるのであって、「同一ではないから~正義の原則を実行しようとする人はすべて正義の原則に背いている」というのは、「公平、公正、平等」を認めたくない人の屁理屈であろう。

第2の反論について…何故これが黄金律にたいする「反論」になるのか。黄金律は、「自分が望むことを、彼(彼女)にする」という原則が「彼(彼女)が望まないことを、彼(彼女)にしない」という原則に優先するなどは言っていない。「自分が望むことを、彼(彼女)にする」という原則も述べていない。

第3の反論…例示の献血者の態度が「道徳的でないとは言えない」というが、黄金律は例示の献血者の態度が「道徳的でない」と言っているのだろうか。

加藤は以上の3点を黄金律に対する反論と言っているが、とても「反論」とは思えない。

 

普遍化可能性の議論

リチャード・マーヴィン・ヘア(1919-2002、イギリスの哲学者)は、「道徳上の文章の特色は、普遍化可能性を持った指令文である」という主張(普遍化可能性の議論)を提起したという。そしてジョン・マッキー(1917-1981、オーストラリアの哲学者)は、この普遍化可能性を道徳上の文の中での言葉の使用規則という形で具体化しようとしたという。

なお、「普遍化可能性の議論」などと言うと難しく聞こえるが、「ある道徳が、自分勝手なものではなく、皆が納得できるような道徳である可能性についての議論」と理解しておこう。

マッキーは、第1の厳密に同じものが存在しないという論点に対して、同一性の条件を挙げるのではなくて、道徳上の文で使ってはならない差異を決めるという方針をとる。

第1段階 「固有名詞でしか示せない差異を道徳上の指令文で使ってはならない」

「肌の色に基づいて人々を差別するのは、ほとんどすべての場合に、不公正である。性に基づいて差別したり、教育の機会を与えることで差別するのは不公正である。宗教に加入しているかどうかに基づいて、州営住宅の割り当てで差別することは不公正である。ところが、これらの不公正のどれ一つとして、我々の普遍化可能性の第1段階によっては排除されない。」(マッキー)(P137)

黒人や女性や特定宗教の信仰者は、固有名詞ではない。だから第1段階では、「女性だから管理職にはしない」と言っても、不公正にはならない。

「この種の不公正は、人々が何らかの点で自分たち自身と似ているすべての者を格別な仕方で優遇するような、普遍的に指図的な原則を採用する場合に、最も生じやすい。優遇の対象となる類似性は,ここに述べた人種や肌の色や性や宗教のような明白なものである必要はなく、様々な種類の強さや技術であるかもしれない。自分自身が強く、だから首尾よく競争することができることを知っている者には、激しい競争を許容するような道徳規則を承認する傾向があるかもしれない。すぐれた剣の使い手やピストルの名手は、決闘の制度が威厳と名声を自己防衛する良い方法だと考えるかもしれず、これに対して、武器よりも言論の得意な者は、その仕事は法廷に帰せられるべきだと考えるかもしれない。」(マッキー)

マッキーはここで非常に重要なことを述べていると思う。「能力ある者」は、激しい競争を承認する。決闘の制度[現行法システム]が威厳と名声を自己防衛する良い方法だと考える」。そこでは、「公平、公正、平等」の理念は、競争の枠内で是認される

 

しかし、この「固有名詞およびそれと同じような指示機能を持つ言葉は排除しなければならない」という原則は、確かに普遍化のある場面をとらえてはいるが、ほとんどの偏見を見逃してしまう。「黒人に選挙権は与えるな」、「女性の賃金が男性より低いのは当然だ」、「外国人労働者労災保険金を支給する必要はない」というような不当な差別を排除するような普遍化の定式を出してみる必要がある。

第2段階 「他人の立場に自分をおいてみる」

自分が黒人、女性、外国人労働者だったら、そのルールを認めるかどうかというのである。「あなたが主張したがっているある格律が、本当に普遍化可能かどうかを決定するには、他の人間の立場に置かれた自分を想像したうえで、その時にも他の人々のあなたに対する行為を導く指針として、その格律を受け入れることができるかと問いなさい」(マッキー)というのである。

他人の立場に自分をおいてみる」…これは分かりやすい、有効なテストである。別に、道徳の話に限らない。日常生活の心得である。普通の人なら、家庭や学校でいやという程、教えられてきたはずである。そして、ほとんどの普通の人はこれを実践している。…と言いたいところであるが、果たしてどうか。争いに関連した言葉には、「戦争、戦闘、闘争、戦い、抗争、紛争、衝突、揉み合い、いざこざ、争議、論争、口論、喧嘩、悶着、確執、軋轢、摩擦、競争、コンクール、コンペ、コンテスト、競技、対戦、試合」などがある。ほとんど誰もが経験しているだろう。そこで、「他人の立場に自分をおいてみる」を実践できているか。(「競技」等については別の論点があるが省略)

 

もしもあなたが金持ちならば、自分が貧乏人になった場合のことを想像してごらんなさい。累進課税制度を採用して、社会保障制度を充実することがどんなに良いことか納得されるでしょう。

もしもあなたが貧乏人ならば、自分が金持ちになった場合のことを想像してごらんなさい。自分の努力と才能によってお金を稼いだだけなのに、努力すればするほど税金という罰金を徴収されるのです。あなたはただちに累進課税制度を廃止すべきだということが分かるでしょう。

 この累進課税制度の話は面白いが、もちろんこんな単純な話にはならない。税制←財政政策←経済政策←経済制度←[市場と国家]の話であり、倫理(道徳)との関連で、「累進課税制度」を云々してそれで済むような話ではない。…但し、富裕層に対しては、「他人の立場に自分をおいてみる」ということの具体例として良いのかもしれない。

 

第3段階 「我々自身のそれとは根本的に違うとともに敵対的でもあるようなものも含め、すべての現にある欲求、趣味、好き嫌い、理念や価値を何がしか考慮に入れる」

こうなると道徳上の文が、意味のある内容を特定できるかどうかも疑わしくなる。マッキーは、第3段階「明らかに間違い」だという。

マッキーの普遍化の3段階という議論は、公正な判断は普遍化可能な判断だという想定の下に、自分が信じるのとは違う立場への配慮を徹底化していくという構造になっている。マッキーは自分で不十分だと認める第1段階の普遍化だけを道徳的な言語の特徴として受け入れる。…マッキーの狙いが、差別や偏見を取り除くことにあるのは確かだろう。固有名詞を取り除けば、その固有名詞で指示されるような差別を不可能にする場合が存在することは確かだ。しかし、固有名詞を取り除けば公正になるとは言えない。

 ここまで読んで私は思う。普遍化可能性の議論は、結局のところ、民主主義社会における合意形成の問題に帰着するのではなかろうか。