浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

定義 ラクダ(駱駝)とは?

伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(6)

今回は、第2章「科学」だってこわくない の第6節「科学的に実証」はどれだけ信用できるかと、第7節 科学の思考法を日常に生かす をとりあげる。

最初に、「科学的に実証」はどれだけ信用できるか であるが、

科学というのが、少なくとも他の情報源よりは信頼できることは多くの人が認めるであろうし、それを否定するつもりもない。しかし、科学そのもの、ないしはグループとしての科学者が信頼できるからといって、個々の「科学者」が信用できるとは限らない

伊勢田は、科学者集団による実験結果の何重ものチェックを経たものに信憑性があるのであって、そのようなチェックを経ないで、ある個人の科学者が言っていることも同じように信憑性があると考えるのは誤りである、と述べているがその通りだろう。伊勢田は、「分配の過ち」や「結合の過ち」という言葉を使っていろいろ述べているが、本節は上に述べたことに要約されると思うので、次に進もう。

 

第7節(科学の思考法を日常に生かす)は、なかなか面白い。相手の話を聞いたり、自分の意見を述べたりする場合の心構えとして、身につけておきたい。

反証主義的な考え方は、日常的なCT(批判的思考)においてもいろいろな場面で役に立つ。ある議論において証拠とされている前提が本当に成り立っているかどうか考える際には、反例を考えてみることが有効である

どういうものが反例とみなされるか。

その仮説が正しいという条件の下で、絶対に起こりえない(ないし起きる確率が非常に低い)出来事

が反例である。例えば「今日は月曜日である」という仮説が正しいとしたら、デジタル時計の日付も、テレビのニュースも、今朝来た新聞も口をそろえて火曜日と表示するということは(誰かが意図的に騙そうとしているのでもない限り)ほとんどありえない。これは日常の文脈では仮説の反証とみなして良いだろう。

前提から結論を導き出す推論についても、その前提が正しくても結論が間違っているような場合(反例)はないかと考えることが重要である。

 反証主義については、前回の 反証主義 「夫は浮気をしている」という主張は「妄想」である(?)参照。

 

定義について

反証主義的な考え方の一つの応用として、

定義の不明確な言葉や多義的な言葉を避ける、どうしても使う場合にはきちんと定義して使う

という姿勢は、重要なポイントである。これは情報を受けとる側にとっても重要だが、それ以上に情報を発信する側の心得として重要である。

受信する側にとっては、定義をはっきりさせるというのは、相手と双方向に討論している場合には、相手がどういう意味で言葉を使っているか確認する、という作業になるし、既に書かれた文章を読む場合には、きちんと言葉の意味を確認しながら読む、という習慣を身につけることを意味する。

発信する側にとっては、定義をはっきりさせるというのは、曖昧で誤解を招きやすい言葉を避ける、そういう言葉を使わざるをえないときには曖昧さが少なくなるようにできるだけ明確な定義をしてから使う、という態度を意味することになる。

 

小保方晴子の「STAP細胞はあります」発言については、多くの人が「ん?」と思ったかもしれないが、受信者としては、小保方がどういう意味でこの言葉を使ったかの確認が重要ということである。頭からウソをついていると決めつけなければ、その用法が適切かどうかを冷静に議論できる。

話し合いの場が確保されていれば、「それはどういう意味か?」と聞ける。しかし、聞き返すことが不可能な講演・講義・演説や書かれたものを読む場合等では、その意味を想像するしかない。ここで大きな誤解が生じる可能性がある。

「定義」というと堅苦しいが、話し手が「どういう意味で、その言葉を使っているのだろうか」と考えることである。そして「仰っていることは、~ということでしょうか」と確認すれば良い。一方通行で受信するだけならば、「もし、Aという意味であれば、私はCと考える。もし、Bという意味であれば、私はDと考える」という対応になろう。

話をする側は、丁寧に言葉を選び、定義する必要がある。もちろんどのような聞き手・読者を想定しているかにより異なる。何のために話すのかの意図にもよる。

しかし、このようなことを理解せず、「自分が発した言葉を、自分が理解しているように、他者も理解している」と思い込んで話したり書いたりする人が「非常に多い」ように見受けられる。(というよりか、「ほとんど」ではないかとさえ思える。私を含めての話だが…)。

読み書きする能力、聞き話す能力の欠如であろう。(教育とは、こういう能力を養成することではないかと思うのだが、小保方の例をみると、いったい何を教え、何を学んできたのだろうかと思う)。

 

定義をはっきりさせることには、もちろん、反証主義組織だった懐疑主義の吟味のプロセスを可能にするという意味がある。曖昧な言葉があると、どうやって吟味・反証すればよいかそもそもわからなくなる

組織だった懐疑主義」については第6節で説明があったのだが省略したので、ここに引用しておこう。

科学社会学者のロバート・マートンは、科学が全体として「組織だった懐疑主義」という合理的な基準で運営されていると主張した。組織だった懐疑主義とは、理想的には提案された仮説の一つひとつについて、見落としが無いようにいろいろな可能性を吟味していくことである。その作業は一人では無理なので大抵は集団で行われる。

このような組織だった懐疑主義が可能なためには、定義の明確化は当然であろう。

 

しかし、定義にはこれにとどまらない重要な役割がある。意思疎通というものが可能になり、有意義な対話や討論が行われるためには、そもそも言葉の意味についてある程度の共通了解がなくてはならない。「当然この言葉はみんなこういう意味で使っているはずだ」という思い込みは危険である。そうした思い込みによる行き違いを未然に防いだり、解決したりするために定義は重要な役割を果たす。さらには、定義をはっきりさせることには、単に理解するというだけでなく、「意味の混同」(equivocation)と呼ばれるタイプの間違いを見分けて避けるという意味もある。

「クミコおばさんは、僕のおじさんのお嫁さんだから『クミコおばさん』って呼ぶべきだと思うんだけど、ママは『クミコおねえさんって呼べ』って言うんだ。ということはクミコおばさんは、本当はおばさんじゃなくて僕のおねえさん? ということはクミコおねえさんはママの娘? 隠し子!?」

しかし意味の混同はもっと微妙なかたちでも起きるし、とくに話が抽象的になると混同に気づきにくくなる。

 社長、会長、代表取締役執行役員代表社員、株主、機関投資家。会社で一番偉いのは誰? と子供に聞かれたら何と答える? 意味の混同をしていないか。

 

「定義」と一口に言っても、いろいろなタイプがある。一番簡単なのは「直示的定義」というやつで、これはスペースシャトルの写真をさしながら「これがスペースシャトルです」と言ったり、「この人が齋藤さんです」と紹介したりすることをいう(という文もまた「直示的定義」という言葉の直示的定義になっている)。

もっと一般的なのは、ある言葉の意味を分析して得られる定義で、「辞書的定義」などと呼ばれる。例えばラクダが「砂漠に住むコブのある生き物」と定義されるのはこの例である。

哲学的定義」はもっと厳密で、定義が「必要十分条件」になっていることを要請する。これはどういうことかというと、定義される言葉がさすものと、定義に使った表現がさすものが完全に一致することを求める、ということである。ラクダの定義の場合、砂漠にはもしかしたらラクダ以外にもコブのある生き物がいるかもしれないし、砂漠に住まないラクダもいるだろうから、「砂漠に住むコブのある生き物」という辞書的定義は、哲学的定義としてはまだ不十分である(ここでも反証主義的な考え方が使われていることに注意)。

「AはBである」という定義のAとBが過不足なく一致しなければ、哲学的意味での定義ではない

のである。例えば「正三角形」が「3つの辺の長さが等しい三角形」として定義されるのは哲学的定義の条件を満たしている。こういう定義をラクダについて考えるのはかなり大変である。しかし普段何気なく使っている言葉を自分がどういう意味で使っているか理解を深めるためには、辞書的定義で満足するのでなく哲学的定義をしてみようと試み、本当に過不足なく一致しているかどうか反証主義の精神で確かめるのが大事である。

 

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この哲学的定義の説明はよく分らない。「砂漠にはもしかしたらラクダ以外にもコブのある生き物がいるかもしれない」と言うが、「ラクダ以外にも」というところが気になる。「砂漠に住むコブのある生き物」をラクダと定義したのだから、「砂漠にはもしかしたら、コブのある生き物以外にもコブのある生き物がいるかもしれない」ということになるのではないか。また、「砂漠に住まないラクダもいるだろう」というが、「砂漠に住むコブのある生き物」をラクダと定義したのだから、「砂漠に住まない、砂漠に住む生き物もいるだろう」ということになるのではないか。ラクダを「砂漠に住むコブのある生き物」と定義したのであれば、伊勢田のいう「生き物」は論理的に存在しえないもののように思えるが、誤解だろうか。

「正三角形」の例は、もっともらしく聞こえるが、よく考えてみよう。「3つの辺の長さが等しい三角形は、正三角形と定義する」というとき、「3つの辺の長さが等しい三角形は、正三角形である」と言えるだろうか。また「正三角形は、3つの辺の長さが等しい三角形である」と言えるだろうか。これは「正三角形は、定義により3つの辺の長さが等しい」というべきではないか。こういう定義を前提しなければ、「〇〇は、3つの辺の長さが等しい三角形である」といい、〇〇に何を入れても良いように思えるが、誤解だろうか。

もう一度、哲学的定義の説明を参照すると、「定義される言葉がさすものと、定義に使った表現がさすものが完全に一致することを求める」ということであるが、「定義される言葉がさすもの」とは一体何であろうか。「ラクダ」がさすものとは一体何だろうか。「砂漠に住むコブのある生き物」がさすものはイメージできるが、こういうラクダの定義なしに、「定義される言葉がさすもの」とは一体何なのかイメージできない。

伊勢田は、ラクダについて哲学的定義を考えるのはかなり大変であると言っているが、そう言わないで、ラクダの哲学的定義を示してほしいものである。

(以上の哲学的定義に関する私見が誤っているということであれば、コメントで指摘してください。あわせて、ラクダの哲学的定義もお願いします)

もちろん、辞書的定義の「砂漠に住むコブのある生き物」が、これで十分かどうかは別問題である。例えば「背にこぶがある大型の草食動物」(世界大百科事典)という説明の仕方もある。

 

反証可能性とのかかわりで重要なのは「操作的定義」である。操作的定義とは、例えば「性格が外交的」だとか「上流階級」だとかといった、そのままでは捉えどころのない概念を、「この性格テストで何点以上をとる人」とか「所得がいくら以上の人」とかといった、調査して確かめられる内容で定義することである。こうすれば「長男には外交的な性格の人が多い」といった捉えどころのない主張もはっきりテストして確かめられる主張に早変わりする。心理学や社会学などの社会科学をする上では操作的定義はなくてはならないものである。

この操作的定義は重要だ。別に社会科学でなくても、日常の話し合い(議論、対話)で、操作的定義を意識することは、軽薄な「決めつけ」を回避することになるだろう。

 

但し、こうした明確な定義を求めることがいつでもよいわけではない。例えば、いろいろな人の「頭のよさ」について話していたとしよう。「頭がいい」というのは曖昧な言葉で、どういう状態が頭がいいのかというのは人によって意見が違うだろう。そういう場合に操作的定義としてよく持ち出されるのが「知能指数」というやつである。しかし「以後、『頭がいい』という言葉は、知能指数テストで120点以上とる人と定義します」などと誰かが宣言しようものなら、「それは私が考えている『頭の良さ』とは違う」といって異論がごうごうと巻き起こるだろう。「日本一」も同じことで、もし誰かが「日本一」という言葉を「リーグ優勝したことのあるプロ野球団としゃちほこのついたお城がある」と定義しますと宣言しても、名古屋以外の人間はおよそ認めようとはしないだろう。

「異論がごうごうと巻き起こるだろう」というのではなく、「具体的で、活発な議論ができるようになる」というべきではないか。「日本一」の例にしても、「私はこう思う」と言えるようになり、「話が弾む」のではないか。

「明確な定義」すなわち、どういう意味でその言葉が使われているのかが、お互いに了解されていてはじめて、齟齬のないコミュニケーションが可能になると思う。「厳密な定義」である必要はないだろう。

 

一般論として、自分で新しい言葉を導入する場合には可能な限り明確な定義(哲学的)をし、既に使われている言葉を明確化するために定義する場合には、これまでに使われてきた意味を十分くんだうえで、できるだけ明確な定義を探すことになるだろう。そもそもみんなを納得させるような定義がない場合には、もう少し手の込んだやり方として、「薄い記述」と「分厚い記述」を使い分けながら一致点を探す方法もある(第4章で詳説)。

独りよがりの言葉遣いをしていては、誰も聞く耳を持たないだろう。

「薄い記述」と「分厚い記述」、これは面白そうだが、どういうのだろうか。