浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

心とは何か 瓢箪鯰(ひょうたんなまず)

木下清一郎『心の起源』(1)

本書の副題は「生物学からの挑戦」である。怪しげな本ではない。

心とはいったい何なのか。…いったい、心とはどこからやってきたものであろう。植物などを考えてみればわかるように、すべての生物が私たちと同じような意味での心を持っているわけではない。とすれば、私たちが心と名づけているものは、生物が進化してきた長い道のりの、いずれかで段階であらわれてきたに違いない。それならば、いつ心があらわれたのか、いつから心は生物を支配するようになったのかと問うてみると、それがよくわからない。

この疑問を突き詰めていくと、心とは生物世界のなかに新しく開かれた別個の世界であり、生物の世界はまた物質世界のなかに開かれた別個の世界であるという姿が、浮かび上がってくるように思う。つまり、心の世界、生物の世界、物質の世界は、つぎつぎに「入れ子」の関係になっているらしいのである。心の世界にたどり着くまでには、世界の扉をいくつも通り抜けねばならない。そのためにときに世界のあいだの境目がはっきりしなくなるのであろう。

 

ここで「世界」という言葉が、唐突に出てくるが、木下は「世界とは何かを考えるのは、本書の目的の一つでもあるので、しばらくは曖昧なままで読み進めていただきたい」とはじめに断っている。「説明がない」と野暮なことを言わないようにしよう。

なお、ここで「入れ子」とは、「同様の形状の大きさの異なる容器などを順に中に入れたもの。重箱や杯などの入れ子細工。よく知られたものとして箱根細工の入れ子人形(こけし・だるま・七福神)、ロシアのマトリョーシカ人形がある。」(Wikipedia)であるが、「心の世界、生物の世界、物質の世界」が「入れ子」の関係になっているというのはどういう意味だろうか。それは、今後の話なのだが、ちょっと余談を。

入れ子に関しては、こんな話がある。

旅で道連れになった男が、口の中から、酒食の入った盆・箱と若い女とを吐き出す。男が酔って眠ると、女は口の中から愛人である青年を吐き出す。青年はまた口の中から自分の恋人を吐き出す。しばらくして、青年が恋人を呑みこみ、女が青年を呑みこみ、男が女と食器類を呑みこんで、去って行く。『続斉諧記』(ぞくせいかいき)

http://www.weblio.jp/content/%E5%85%A5%E3%82%8C%E5%AD%90%E6%A7%8B%E9%80%A0

 宇宙の膨張と収縮の話か?

 

普通、心、生物、物質とくれば、「物質から生物がうまれ、生物から心がうまれる」と考えるだろう。これを逆転したらどうなるか。「心から生物がうまれ、生物から物質がうまれる」あるいは「心が、生物や物質を生み出す」。観念論者には違和感がないだろう。これは真面目に検討してよいと思うのだが、ここはその場ではない。

「入れ子」の「形状の同じもの」が繰り返しあらわれるという点に注目すると、「心、生物、物質」の形状が同じということになって、素粒子」に還元したら、「心」はどこにあるのか、という話になり、興味深いテーマになる。

「形状の同じもの」があらわれると言えば、「フラクタル」が思い浮かぶ。フラクタルとは、

いま、どのように分解してもその部分が元の全体と同じ形を備えている図形を数学的に考える。このつねに元の形の縮小した形を備えているという性質を自己相似性という。自己相似性を備えた図形は、その微小部分が線分に近似できないから微分が不可能である。フラクタルとはそのような自己相似性を備え、どこでも微分が定義できないような形(集合)をいい、それを扱う数学をフラクタル幾何学という。このことばはフランスのマンデルブロ(1924-)がつくったもので、語源はラテン語のfractasであり、「破片」「分割」を意味する。(栗原裕、日本大百科全書

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http://www.uvs-model.com/pictures/Vortical%20universe%20fractal.jpg

 

これから話のある「心、生物、物質」に即しては、次の図がイメージに合う。

 

ICE FLOWER by ulliroyal

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http://ulliroyal.deviantart.com/art/ICE-FLOWER-67718994

 

これまで生物学はいろいろのことを成し遂げてきた。原始の地球は物質のみからなる世界であったが、そこに生命の世界という新しい世界が誕生した経緯を明らかにしたのは、生物学であった。生物体にさまざまの構造がつくられ、多くの機能が現れてきた経緯をつまびらかにしたのも、生物学の貢献としてよいであろう。大脳をはじめとして神経系の構造や機能を明らかにした神経生理学、本能を含めてさまざまの動物の行動を解き明かした動物行動学の進歩は、最近になって著しいものがあるが、それでも生物体の中に心がいつ生まれてきたかについては、まだ多くを語ってはくれない。

心とは生物に現れる単なる生物学的属性に過ぎないのか、それとも生物世界の中にふたたび別個の新しい世界を開くことができたのか、それを明らかにすることもまた生物学がいつかは手を染めねばならぬ問題であろう。

生物学がそういう問いを発することができるのか、という疑いがある。…この疑いは二重構造になっている。生物学が自然科学である以上、自然科学の方法論の制約を受けねばならないのは言うまでもない。実験によって証明できないものについては、自然科学は言及しないというのが、その制約である。しかし、心は果たしてこの方法論におさまりきるものであろうか。これが第一の疑問である。

さらに、心によって心を知ることができるかという問いがある。これが第二の疑問である。…心によって心を知ろうとすることは…瓢箪で鯰を捕まえるより、もっと難しい

 

第一、現時点で実験不可能な理論物理学は、自然科学ではないのかどうか。第二、自己言及の話はいずれ。

 

瓢鮎図(ひょうねんず)

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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fb/Hy%C3%B4nen_zu_by_Josetsu.jpg

 

先日新聞のコラムに京都の妙心寺に伝わる、足利幕府の第四代将軍足利義持が1400年頃に画家如拙に命じて描かせた国宝の瓢鮎図(ひょうねんず)の話が載っていました。この絵はどうしたら口の小さい瓢箪(ひょうたん)でナマズを捕まえることが出来るかという禅の公案で多くの人々が解明を試みてもいまだ正解がなく、そのため、とらえどころがないという意味の「ひょうたん鯰」という諺の元になったと言われています。(鯰は国字、鮎は漢語ナマズ

私は次のような回答を考えてみました。瓢箪に手を加えず、生きたままの鯰を入れることは物理的に不可能です。それではどうすればよいか。答えは簡単、瓢箪の内外をひっくり返して外側を内、内側を外と考えればよいのです。瓢箪の内側は鯰を我がものにしようとする利己心(我欲)を表します。したがって利己心を捨てて、我が心を外側の天地自然(真理)と一体化することが出来れば(すなわち悟りを開けば)、自ずから自然の一部である鯰を捕まえたことになるわけです。難しいのは鯰を捕まえることではなく我欲を捨てることであり、これが出来る人はめったにありません。この回答が正解であれば600年振りに「ひょうたん鯰」の謎が解けたことになります。

http://ameblo.jp/nihonsinwa/entry-11071894264.html

心を解明することは、この回答のような発想の転換(内と外をひっくり返す)が必要なのかもしれない。

 

「心とは何か」という問いには、すべての思考を吹き飛ばして、思考の根底そのものを覆すような爆薬が仕掛けられている。この問いはあるいは問うてはならない問いとして、その前で立ち止まるべきものなのかもしれない。それにもかかわらず、そういう厄介な問題にいま手を出そうとしている。

「問うてはならない問い」とは、神秘思想の深淵に引きずりこまれること(現世の放棄)を危惧した戒めの言葉であろう。