浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

普遍化可能性の議論(2) 「おい、山田君、そこの自転車をどけてくれ」

加藤尚武『現代倫理学入門』(20)

今回は、第9章「思いやりだけで道徳の原則ができるか」の続きである。加藤は、ヘア(1919-2002、イギリスの哲学者)の普遍化理論について、次のように述べている。

彼が挙げる例はだいたいこんな話である。私が大学の駐車場に車を入れようとしたら、たった一つの残りのスペースを山田君の自転車が占領している。私のそこに駐車したいという選好の強さは大きい。山田君は、自転車を動かしたくないと思うが、その選好の強さは小さい。だから私は山田君に「君は自転車を動かすべきだ」と言う。私が彼と同じ状況になったとき、つまり私が自転車を駐車場に置いて、山田君が車を入れたがっているときに、私は山田君から「先生。自転車をどけてください」と言われたら、すすんでどけなくてはならない。

このような状況では、山田君が自転車を動かさないでよいが、同じ状況になったとき私も自転車を動かさないという解決も考えられる。その場合には選好の強さの大きい方が充足されないで、自転車を動かさないで済むという強さの小さな方の選好だけが満たされる。二つの場合で満たされる二人の選好の強さが大きいのは、自動車駐車という強さの大きい選好を自転車駐車という小さい選好に優先させる場合である。だから普遍化可能な、最大の選好の強さを実現する指令が正しい道徳的な判断だということになる。

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この例について考えてみよう。山田君の「選好の強さが小さい」とはどういう意味か。山田君は自転車を移動するかしないかのどちらかの選択しかない。選好の強さは「何に対して」小さい、と言っているのか。それは、先生が「自分の車を駐車させたいという選好の強さに対して」小さいと言っているのだろう。それは先生が山田君の立場になってみての(他人の立場に自分を置いてみての)判断であろう。つまり、選好の強さが大きい/小さいは先生の判断(独断)である。だから「君は自転車を動かすべきだ」などと言う。逆の立場になれば、先生は、すすんで自転車をどけるだろうが。

山田君は何と考えるか。「私が最初に自転車を置いたのだ。後から来た先生に、この場所を何故ゆずらなければならないのか。私は違法駐車なんかしてないよ。それに「君は自転車を動かすべきだ」などと何という高飛車な態度をとるのだ。絶対に譲らん! 10万円くれるというなら考えてもいいが…」。さあ、先生どうする? 10万円払って駐車するか、他の場所に駐車するか。これこそ、先生にとっての選好問題ではないか。

山田君にとっては、自転車をその駐車場に置くことの「選好の強さ」(?)が、自動車を置くことよりも、比べものにならないほど大きい事情があるかもしれない。

このように見てくれば、上例の「選好の強さの大きい/小さい」が何かわけのわからないものであって、「相手の立場に自分を置いてみても」、決して「普遍化可能」になるとは思われない。

 

自分の置かれた都合次第で態度を変えないという一貫性、相手の立場を正しく理解しているという他者理解、最大の選好を選ぶ功利性が、ヘアの道徳思想の構成要素である。

「一貫性、他者理解、功利性」を抽象的に理解するならば、一見もっともらしいが、上例のように具体的な問題を考えてみると、「ちょっと、おかしいね」となる。

上例のような駐車場問題の解決には、「選好」だとか、「道徳的な判断」だとかではなく、「限られたスペースの中での駐車ルール」をいかに制定するかの問題として考えるべきだろう。また駐車場が狭小であることが明白であれば、駐車場増設あるいは自動車乗り入れ禁止とかいろいろ対策は考えられる。「倫理/道徳」の出番はあるのか、あるとしたらどの場面か、よく考えてみる必要がある。

いずれにせよ、身勝手に「普遍化」して、判断を下すべきではないだろう。

 

加藤は、次のように述べる。

ヘアは、自動車事故の場面のような例を考えて、「誰だって、自分が困った時のことを考えれば、<困っている人を助けよ>が普遍的な指令であることに納得がいく」と思い込んでいる。つまりヘアは、次の3つの可能性のうち、いつも2番目が生ずるだろうと思い込んでいる。

  1. もしも相手の立場に立つならば、現在の自分と現在の相手との共通の利益を擁護して、選好の強さを最大にする普遍化が成り立つだろう。
  2. もしも相手の立場に立つならば、現在の自分と現在の相手との間のより困った状態・弱い立場の利益を擁護して、選好の強さを最大にする普遍化が成り立つだろう。
  3. もしも相手の立場に立つならば、現在の自分と現在の相手との間のより優位に立つ状態・強い立場の利益を擁護して、選好の強さを最大にする普遍化が成り立つだろう。

 先ほどの例で言えば、先生が駐車できなくて困っているのは、「より困った状態・弱い立場」にあるので、その立場の利益を擁護して、先生に駐車させるべきである、ということなのだろうか。

もし、ヘアが本当にいつも2番目の「もしも相手の立場に立つならば、より困った状態・弱い立場の利益を擁護することになる」と思っているのだとしたら、「相手の立場に立つことができない人には、どう対処したら良いのか」と訊きたい。また、相手の立場に立って考えてみた結果、「より困った状態・弱い立場の利益を擁護する」と言いながらも、その立場が相手と自分とが正反対であったならば、それでも普遍化されたと言うのか、と訊きたい。

加藤は、次に「しごき」や「サド・マゾ」の例をあげているが、これは省略する。

 

相手の立場に立って、お互いの立場を入れ替えた時の選好の強さを最大にすれば、寛容と人間性の尊重という態度決定が生まれるだろうというヘアの人間観は、お人好しすぎる。ヘアは、普遍化可能性という形式を明らかにすれば、道徳的指令文の特徴が出せるという見込みで、普遍化可能性の理論を立てた。彼の理論を検討した結果、形式だけで道徳文の特徴が明らかになるという形式主義の可能性がむしろ否定される結果になった。

普遍化可能性の前提として、「選好の強さ」があるようだ。しかし、先に見たように、この「選好の強さ」なるものが何を意味しているのか、いま一つよくわからない。「選好」という言葉を使っているが、「効用」とどこが違うのか。

 

実はヘアの実例では、私[先生]にとっては自動車を置く利益が自転車を置く利益よりも大きく、同じ選好の順位を山田君も持つと想定している。このような想定が、どのような場合でも可能であるとは限らない。ベンサム功利主義は、他人の快楽の量を知ることができるという前提で組み立てられていた。他人の快楽の量が分かるというのは、かなり無理な想定である。しかも、困難さやリスクが大きくなるほど快楽も大きくなるとき、快楽の量から困難さやリスク(苦痛)の量を引き算すると、実際とは違う計算結果になってしまう。そのような快楽の心理学よりも、選好の強さの順位だけが分れば十分であるというヘアの立場は、ベンサムの陥る難点を避けているように思われるかもしれない。なぜなら、困難さやリスクは選好にすでに織り込み済みと考えられるからだ。しかし自転車を置いた山田君は自動車を持っていないかもしれない。彼は環境を守るために自動車を使ってはいけないという信念を持っているかもしれない。相手がどのような信念や意見を持っているのか分からないという場合の方が、社会生活では多い。自分についての現実と、他人について想像した事態とを対等に扱うべしという前提がないと、ヘアの普遍化論は成り立たない。これは、かなり強い倫理的要求である。

加藤は、「自分についての現実と、他人について想像した事態とを対等に扱うべしという前提がないと、ヘアの普遍化論は成り立たない」と言っているが、まさにその通りだと思う。「これは、かなり強い倫理的要求である」と言うのは、「そんな普遍化論はダメだ」の婉曲表現だろう。

 

ヘアは、2人の人間の2つの状況について最大の選好の強さを尺度とする判断が可能で、3人以上、選好対象が3項以上になった場合も、同様に加算すればよいと考えている。これは間違っている。数学的に計算すると、3人以上、選好対象が3項以上のなった場合には、最大選好が計算不可能になってしまう。

しかし、駐車料としていくら払うつもりがあるか、自転車置き場の使用料としていくら払うつもりがあるかという量であるならば、客観的によく分る。だから、最大の選好の強さを尺度とする功利主義は、心理的快楽計算と同じ困難さを持つが、すべてを金銭の量で表示するなら、功利計算が可能になるとは言えるだろう。

そこで金銭的、もしくは数量的に表現されている個人の選好(例えば人気投票)から、どうすれば全員の総意を引き出すことができるかを考えてみなくてはならない。

 

最後に「駐車料」という(財・サービスの)「価格」を持ってくれば、功利計算が可能になるという。これこそ、「市場経済」のマジックである。ここではじめて「選好」という言葉が意味をもってくるようだ。しかし、私は「市場経済」のマジックについて、まだほとんどふれていない。