浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

不平等論(5) 「誰もが支え合う共生社会」のビジョン

稲葉振一郎立岩真也『所有と国家のゆくえ』(10)

前回、立岩は、次のようなことを言っていた。

  1. 中央指令型の統制経済はうまくいかない。実際にうまくいかなかったし、理論的に正当化もできない。
  2. 協同組合主義は「参加」とか言っているが、なんか「だるい」。ある種の道徳主義が抜けていない。
  3. ある種の組織が自分たちだけで何かいいことをやろうとしても、基本的にうまくいかない。組織の中だけでより平等主義的な分配をしようとしても、外部との関係でうまくいかない。

この第3点目に関して、立岩は次のように言う。

立岩 これは実は国家と国家の間でも言えることである。ある国家が、その中で税の累進性を強くするとか、社会的な分配の度合いを高めようとする。すると何が起こるかというと、同じことが起こる。つまり、儲かってるやつが出ていく。他方、あそこへ行くといいことあるからって、相対的に貧しい人が入ってくる。そうすると、外部環境との関係で分配が維持できない。で、維持できないということが理由にされて、われわれの国家というのは今、われわれの国家だけじゃなくて、さまざまな国家が、私からすればすべきことをしないでいる。それはある種のプロパガンダ[政治的宣伝]というか自己正当化の理屈でしかない場合もある。そうすると国際競争に負けちゃうから、そういう甘いことばかりもやってられないというわけ。

日本で言えば、富裕層ケイマン諸島に資産を移す。東南アジア系が流入する。100円ショップ(多くの商品が中国製)の成長。これらは、一国が一国だけで存立しえない(そういう仕組みになっている)ことを示すものだろう。そして、「国際競争に負けないよう」法人税率を下げ、低賃金を許容する。一方、競争を賛美するため、様々なインセンティブを用意する。

 

立岩 そうしたときに、次になにをやるのか。さっき言った、アソシエーショニズム[協同組合主義]、自分だけ何かいいことをすることの限界と同じ限界が、国際社会における個々の国家においても存在する。ではどういう道を次に行くのか。二つしかないだろう。(P160)

一つは、だから国境をコントロールしつつ、個々の我が国を強くしていくという現状の路線である。ほぼそういうのがドミナント[支配的、優勢]になっている。…分配の単位を国家内に閉じることは規範論的にも正当化できないだけでなく、現実にうまくワークしない。したがって、狙うべき線は、荒唐無稽な話ではありつつ、やはり、基本的にスローガンだけ言えば、国境を越えたかたちでの分配ということになる。もちろんそんなことはできないから、志を持つ人たちがここにやろうとしてきた、その一つがアソシエーショニズムだった。…そこにあるうまくいかない部分を引き取って、じゃあ次に何を考えるのかっていうこと、そこの中に国家、国境をどう位置づけるのかっていうことがあるのだろう。

 第一の道は、「富国強兵」路線である。自国の経済成長をめざし、防衛力を強化する。他国の侵略を防御し、豊かな国をめざす。「貧しい悪平等」よりも、「全体としての底上げにより、活力ある社会を実現する」。恐らく、こういう言い方をすれば、これがドミナント[支配的、優勢]な主張であることが理解されよう。(但し、「富国強兵」とレッテルを貼り、決めつけては議論が成り立たない)。

第二の道は、国境を越えたかたちでの分配である。立岩は、ここで「そんなことはできないから…」と言っているが、そうだろうか。立岩は、「国際連合」の活動をどうみているのだろうか。私は以前、グローバルなコミュニティーの責任ある一員となる(4) 誰も置き去りにしない - 持続可能な開発目標(SDGs)で、国連の「持続可能な開発目標(SDGs)」を紹介した。決して「そんなことはできないから…」とあきらめることはないと思う。いずれ詳細をとりあげたいと考えているのだが、忘れないように、ここでSDGsの17の目標を再掲しておこう。

 目標1: No poverty(貧困をなくす)

 目標2: No hunger(飢餓をなくす)

 目標3: Good health(健康と福祉)

 目標4: Quality education(質の高い教育)

 目標5: Gender equality(ジェンダー平等)

 目標6: Clean water and sanitation(きれいな水と衛生)

 目標7: Clean energy(誰もが使えるクリーンエネルギー)

 目標8: Good jobs and economic growth(人間らしい仕事と経済成長)

 目標9: Innovation infrastructure(産業、技術革新、 社会基盤)

 目標10: Reduce inequality(格差の是正)

 目標11: Sustainable cities and community(持続可能な都市、コミュニティづくり)

 目標12: Responsible consumption(責任ある生産と消費)

 目標13: Protect the planet(気候変動への緊急対応)

 目標14: Life below water(海洋資源保全

 目標15:Life on land( 陸上資源の保全

 目標16: Peace and justice(平和、法の正義、有効な制度)

 目標17: Partnerships for the goals(目標達成に向けたパートナーシップ)

 

持続可能な開発目標:誰も置き去りにしない

 

「誰も置き去りにしない、誰も見捨てない」社会が、望ましい社会であることの合意が(理念だけにせよ)得られたのである。(2015年、193の国々が「持続可能な開発目標」に合意した。)

 

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稲葉 協同組合主義批判というのは実はかっての全盛期のマルクス主義のオハコだった。実はマルクスの将来社会像っていうのも多義的で、協同組合的ヴィジョンもあったが、彼が自分の先駆者たちを批判するときに「ユートピア的だ」って言い方をしたときの一つの理由は、ローカルにコツコツやってても、結局開かれた市場でのふつうの資本家企業との競争には勝てないのだ、ということ。例えばロバート・オーウェンフーリエなんかも、要するにコミュニティ実験をいろいろやるんですが、局所的なコミュニティでは、結局世界全体を変革できないし、全体に広がらないどころか、周りからの圧力に負けて、生き延びられないよという批判をしてきた。だからマルクス市議の場合、全体的、一挙的な革命を提唱した。マルクス主義の強みというのは、そういう二枚舌構造にあった、悪く言うと。つまり「資本主義偉い、資本主義強い、資本主義最高!」って言い続けるわけ、ひたすら。でも、最終的にはダメっていう。資本主義を超えるのは俺たち、俺たち以外の資本主義への対抗者は全部ダメ。資本主義の強さをわかってない、ダメダメ。これがマルクス主義のえんえんと20世紀末くらいまで続いたやり口なわけだ、非常にお下品に言えば。でもマルクス主義がふった証文は結果的に空証文であったわけで、一挙にその信頼は失墜したのだが、マルクス主義の協同組合主義に対する批判が当たってないかというと、必ずしもそうではない。しかしそれはオーソドックスな市場経済の信奉者たちによる批判と、結局は同じ論点を指摘しているに過ぎない。

稲葉のこの後半部分の発言は、学者らしくない。まるで「極右勢力のアジテーション」のように聞こえる。それは誰に向かってか。この対談は、2006年3月に行われたのだが、その時の聴衆であり、また本書の読者に対してであろう。…いまのこの時代に「マルクス主義」を持ち出し、彼らの「協同組合主義」批判を、「二枚舌」だと侮蔑したところで、いったい何になるのだろう。現代の諸問題にどう関係してくるというのだろうか。

 

稲葉 現代の再分配志向のリベラリストとか、ローマーのようないわゆる分析的マルクス主義者たちの場合にも、市場経済の基本的な強さとか合理性は前提になっていて、いわばその市場経済の不完全性を補填したり、より拡張したりするようなかたちで社会主義的な理念を追求する以外にはなさそうだという方向で、いま話はきている。ただ、それは具体的にどういうものになるのかというのは非常に厄介である。

市場経済の基本的な強さとか合理性」がどういうものかよくわからないので、何とも言えない。また「市場経済の不完全性を補てんしたり、(市場経済の基本的な強さとか合理性を?)拡張する」のが、「社会主義的な理念」であるかのような話っぷりであるが、稲葉の「社会主義」理解がどういうものか分からない。さらに「それは具体的にどういうものになるのかというのは非常に厄介である」というが、どう厄介なのか、現実にはさまざまな法整備や諸施策が講じられているわけであるが、それらをどう考えているのだろうか。

 

稲葉 分析的マルクス主義者の非常に特徴的なところは、青写真主義、社会主義の青写真をしっかり描くというところである。…ローマーは彼独自の市場社会主義モデルを数理的にソリッド[堅固]なかたちできちんと作ろうと努力している。…「青写真」とは、どういうことかというと、どうやってそんなものが実現するかは分からないんだけれど、仮に実現したとして、その実現した中に人々がほうりこまれて生活を始めたとして、その制度は持つか持たないかをチェックする。持つならば、そのシステム構想は合理的だと考える、こうした考え方が「実行可能性」(feasibility)という言葉に表れている。要するにシステムのfeasibilityの追究をひたすらやっている。で、そこに何が抜けているかというと、革命論、体制移行についての議論である。いったいそういう仕組みをどうやって実現するのか。議会制民主主義の手続きを踏んだ政権交替を通じて、社会主義政権が政権を取って、何とかみんなを説き伏せながらやるのか、それとも暴力革命なのか、あるいはひょっとして「奇跡」によるものなのか。その辺はカッコにくくった上で、とにかくそういう仕組みがあるときできてしまったならば、その仕組みはさてうまく動くか動かないか、を検討する。…つまり、体制移行論がない、それについての議論がない。だからfeasibilityというのは、普通の意味での「実現可能性」ではない。もし仮に実現したならば、継続して実行可能か、存続可能かというところに議論が集中している。

まず「青写真」とはどういうものか確認しておこう。青写真は「ビジョン」と言っても良く、ビジョンとは、

将来のある時点でどのような発展を遂げていたか、成長していたいかなどの構想や未来像。またそれらを文章などで描いたもの。会社全体の未来像を経営ビジョン、事業の未来像は事業ビジョン、組織は組織ビジョンなどと呼ばれる。また個人の将来像を指してキャリアビジョン、自己成長ビジョンなどということもある。(ナビゲート ビジネス基本用語集)

将来のあるべき姿を描いたもの。将来の見通し。構想。未来図。未来像。(大辞林

 「青写真」がこういう意味だとすると、「青写真とは、どういうことかというと、どうやってそんなものが実現するかは分からないんだけれど、仮に実現したとして…」と言うのは、「青写真」を描くことをバカにした言い方に聞こえる。言うまでもないだろうが、青写真(ビジョン)を描いて、関係者の合意を得て、その実現のための手段を考えるというのが手順である。具体的に、青写真がどういうものか、その一例として、厚労省の「新たな福祉サービスのシステム等のあり方検討プロジェクトチーム・幹事会」(平成27年9月17日)の配布資料1「概要説明資料」の中の図をみてみよう。

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http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12201000-Shakaiengokyokushougaihokenfukushibu-Kikakuka/siryou1_11.pdf

 

これはビジョンであって、これをどう実現するかは書かれていない。ビジョンに合意が得られないなら、実行手段を考えても意味がないから当然である。

稲葉は、「そこに何が抜けているかというと、革命論、体制移行についての議論である。」と言う。青写真には、「実行手段が抜けている」のではない。「実行手段」を書いては、青写真の意味がなくなる。

さらに「革命、体制移行」と言う。多義的な「社会主義」の内容を明らかにせず、「革命、体制移行」が必須であるかのように言う。上図の「新たな時代に対応した福祉の提供ビジョン」は、「地域住民の参画と協働により、誰もが支え合う共生社会の実現」をめざしている。これを社会主義の理念と考える論者もいるだろう。この実現のために、「革命、体制移行」が必要なのだろうか。

もう一つ気になる点がある。「議会制民主主義の手続きを踏んだ政権交替を通じて、社会主義政権が政権を取って、何とかみんなを説き伏せながらやる…」と言う。議会制民主主義の手続きを踏んだ政権交替ならば、「何とかみんなを説き伏せる」必要はない。多数派が政権を握ったのであれば、「少数派の意見を尊重しながら、より良い方向をめざす」というのが、本来のあり方ではなかろうか。

 

稲葉 ボールズとかギンタスらは、基本的には、より人間の顔をした市場経済、人間の顔をした資本主義という形で現代の社会主義を構想している。となると結局、ラディカルズにせよ分析派にせよ、現代マルクス主義者ってのはいったい、ロールズやセンやドゥウォーキンなどのリベラルな平等主義者とどこが違うんだと、これは伝統的なマルクス主義者からは当然批判がありうるだろう。実際どこが違うのかというのは難しい問題になってきている。再分配型の中道左派リベラリストと、分析的マルクス主義者やラディカル・エコノミストたちの政策提言とか制度構想は、結果としては結局同じようなところにいる。何でこういうふうになっているのか。

稲葉のレッテル貼りは置いておくとして、現代マルクス主義者の主張はリベラリストの主張とどこが違うのかわからないくらいになっていると言う。だとすると、先ほどの現代マルクス主義批判は、そのままリベラリストに対する批判にもなる。彼らには、「革命論、体制移行についての議論」が抜けているという。ロールズやセンやドゥウォーキンなどのリベラルな平等主義者の主張には、「革命論、体制移行についての議論」がないからダメだということになる。

 

稲葉 一つ考えられるのは、計画経済がダメだったこと、及びこれと密接に関わる問題として、中央集権的な国家というものは極めて危険な、取り扱い注意な仕組みである、という自覚。それとやっぱり格差、不平等の問題である。…なぜ不平等は放置できないのか。直観的にはあまりにも明らかに思われるし、実際に人間は不平等にいやな気分になる。いやな気分になるのは、それは錯覚だって言われたって、そういうふうに出来ているんだから仕方がないし、じつはそう直観するところに、我々が解明していない、しかしきちんとした合意の根拠がある可能性がむしろ高い。でも、そこを見つけるのにけっこう難渋しているような気はする。

稲葉が本当に「人間は不平等にいやな気分になる。放置できない。それは直観的に明らか。」と思っているのなら、何故その地点[不平等は放置できない]から考えを進めないのだろうか。

以上の稲葉の見解にたいする立岩の見解は次回に。