浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

市場(3) 外部経済、外部不経済を考える

平野・亀本・服部『法哲学』(25) 

前回、市場の失敗として、①独占・寡占、②外部性(外部経済、外部不経済)、③情報の非対称性、④公共財についてふれたが、今回はこのうち②の外部性について、もう少し詳しく見ておこう。

 

まず、外部経済・外部不経済とは、

お金を払ってモノを買い、モノを売ってお金を得る、というように、経済活動は市場での売買を通じて行われている。だが市場の中で行われる経済活動であっても、市場の外側で、お金を払うことなく、他人にマイナスを与えたり、お金をもらうことなく、プラスを与えたりすることがある。前者を外部不経済といい、後者を外部経済という。現代における外部不経済の代表的な例は、公害などの環境問題で、工場廃水が川や海の水を汚すことなど。一方、都市が発展し駅ができると、その付近の地価は上がり、土地所有者が利益を得ることなどが、外部経済の一例である。つまり、都市は外部経済の利益を求めて拡大し、拡大に伴う外部不経済により都市問題が生じる。市場内だけを取り上げ、経済の合理性を考える従来の経済学は、外部性問題の登場によって修正を余儀なくされ、外部不経済を出す経済活動は、その分を自ら負担することが求められるようになった。(依田高典 京都大学大学院経済学研究科教授 / 2007年) (知恵蔵2015)

 

ガソリンスタンド跡地

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http://www.techno-nets.co.jp/fudousangyoumu/img/%E6%B2%B9%E6%B1%9A%E6%9F%93.jpg

 

公害の例がよく挙げられる。Wikipediaは、次のように説明している。

ある漁業者がいて漁場のそばに工場が建設された場合を例に挙げる。漁業者は工場の廃液により1000万円の被害を受け、工場が廃液を浄化する設備は500万円とする。経済全体としては、設備を設置したほうが利益が上がるが、漁業者と工場所有者が別人である場合、そうした配慮は働かない。また、設備を設置しない場合、工場は低コストで商品を生産し低価格で供給できる。経済全体としては工場の供給量は廃液汚染という不経済性を考慮しない過剰供給と言うことになる。これは経済全体の効率性が損なわれた状況である。そこで、政府が工場から廃液税を500万円取り、浄化設備を設置したとしよう。このときに工場は高コストとなり価格を引き上げざるを得ない。こうして工場の供給量は廃液汚染を考慮した最適な状態となる。これが内部化である。(Wikipedia)

 

食品コンビナートの総合排水処理場での浄化

www.youtube.com

 

ここで次のような主張(A)を考えてみよう。

外部不経済は「市場の失敗」とされるわけだが、<それは「自由放任」では「公害」のような「望ましくない事態」が発生する、政府による規制が必要である> ということを意味する。

まず考えなければならないのは、「望ましくない事態」の意味である。主張Aは、「公害」をとらえて「望ましくない」と言っている。しかし、経済学はそんなことは言ってない。「設備を設置しない場合、工場は低コストで商品を生産し低価格で供給できる。経済全体としては工場の供給量は廃液汚染という不経済性を考慮しない過剰供給と言うことになる。これは経済全体の効率性が損なわれた状況である。」と言っている。過剰供給のため、適正な価格が形成されず、効率性が損なわれるから、望ましくない*1、と言っている。これが市場の失敗の意味である。(外部経済の場合も、過少な供給となるので、適正な価格が形成されず、効率性が損なわれるから、望ましくない)

逆に言うと、適正な価格が形成され、市場が効率的であれば望ましい、という判断がある。私は、この判断には(勉強不足で)態度保留している。(例えば、賃金は労働市場の需要・供給で決まるのだろうが、賃金決定の理論と現実に齟齬はないのだろうか?)

主張Aは、政府による規制が必要であると言う。規制とは、恐らく「公害防止設備」の設置を義務付ける法の制定になるだろう。この規制の必要性が合意できれば、規制値をどのように設定するかの議論になる(例えば、Tier4規制)。ところが、経済学の言う外部不経済内部化(外部費用の内部化)は、このような規制を意味しない。この内部化は、租税の形で徴収する(生産者のコスト増)のが代表的なものだろう。

Wikipediaのあげる廃液浄化設備の場合、「政府が、工場から廃液税を500万円取り、浄化設備を設置したとしよう」と言っている。税金を徴収するのはいいとして、政府が浄化設備を設置するというのだろうか。「内部化」はこんなことを主張しているのだろうか。それとも、税金を徴収すれば、価格は適正になるので、浄化設備を設置しなくてもよいと主張しているのだろうか。私はまだよく理解していないのだが、「経済学」は後者を主張しているように思う。そうではないと言うなら、いかなる論理で、政府は浄化設備を設置しなければならないのだろうか。

Wikipediaの説明でもう一つ気になる点がある。「漁業者は工場の廃液により1000万円の被害を受け」と言うが、このような金額算定は可能なのか大いに疑問である。また漁業者に限定して良いかも疑問である。どうしても金額算定しようと思えば、数多くの前提を置かねばならないだろう。一方、設備代金500万円の見積もりは比較的容易である。いま漁業者等の被害が200万円だと算定されたとしよう。そうすると「経済全体としては、設備を設置しないほうが200万の損失で済むので、設備を設置しない方が良い」となるのだろうか。もし、そうなら、漁業者等の被害をいかに算定するかが大きな問題になるだろう。つまり、現実には「過剰供給」か否かの判定は困難であり、「経済学者」の理論は机上の空論ではなかろうか。(私は素人なので、誤りがあれば指摘してください)

外部不経済の内部化に関しては、「排出権取引」と「環境税」の話題があるが、これは次回にまわそう。

*1:市場原理においては、生産に要する限界費用と、それを消費者が購入する際に支払う価格が一致したときに、資源の効率的配分が実現する(パレート最適)。この理論が成り立つのは当該生産活動にかかる全ての便益および費用が市場を経由していることが前提となるが、現実にはそうなっていない場合があり、それが公害などの環境問題を悪化させる原因になっている場合がある。(Wikipedia)