浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

遺伝子 プログラム 天からの手紙

木下清一郎『心の起源』(3)

今回は、第1章 第2節「心が生まれてくるまでの道のり」の後半、「個体の誕生」、「心の誕生」、「利己的遺伝子」を取り上げよう。

 

個体の誕生

生命が誕生して長い時間が経つと、多くの細胞が集まった個体が現れてくる。多細胞の個体の中では。それを構成している細胞の形態や機能に少しずつ差異がみられ、それぞれの細胞が集まって組織や器官をつくり上げている。これが細胞の分化である。細胞に分化がおこるのは、それぞれの細胞が持っている遺伝子の働きが、細胞ごとに少しずつ違うためであるが、個体の生存に必要な多くの機能を、細胞の分化によってそれぞれの器官系に配分したことによって、結局、個体としての生存の可能性を高めたことになっている。

なぜ個体がつくられたかと言えば、細胞として生きるよりも個体として生きる方が、生存により適している場合があったからであろう。それはまた結局のところ、個々の細胞が生き延びるのにより適した条件を整えるためということになる。この鎖をもう一つ遡って、細胞の生きていること自体が遺伝子の複製を第一の目的としているとするなら、始めと終わりの鎖の環をつなげれば、個体もまた遺伝子の自己複製のための装置であるという見方が成り立ちうる。

 疑問点を書いておこう。…「細胞として生きるよりも個体として生きる方が、生存により適している場合があった。個々の細胞が生き延びるのにより適した条件を整えるため、個体がつくられた」という説明は、私にはどこかひっかかるものがある。それは、「意思」(意識)があるかどうか分からない細胞に、なぜ「生き延びること」が目的であると言えるのか、ということである。単なる物質の集合・離散にすぎないのに、「自己意識」を前提して、議論を展開しているのではないかという疑念である。単なる物質の集合・離散ならば、「生き延びる」などとは表現しないだろう。細胞を遺伝子に置き換えてもおなじことである。「意思」(意識)があるかどうか分からない遺伝子に、なぜ「自己複製」が目的であると言えるのか。…木下は、「遺伝子の複製を第一の目的としているとするなら…」と書いている。これは「仮説」であって、証明された「事実」ではない。

 

なお、一つ付け加えておくと、細胞としてはじめてあらわれた生命は、個体の誕生によって個体としての生命という新しい生命を持つことになった。ここで「細胞としての生命」のほかに「個体としての生命」が現れていることに注意して欲しい(厳密に言えば、単細胞生物も一つの個体であるので、「個体としての生命」では言葉が足りず、「多細胞生物の個体としての生命」と言わねばならないが、あまりに煩わしいので、ここでは「個体」を「多細胞個体」の意味にとってもらうことにした)。同じく生命という言葉を使ってはいるが、その内容にはいささかの違いがある。生命の次元が高まったといってもよい。このように生命に階層があるということは、一つの世界のなかにいくつかの階層がつくられてくる例証として、やがて後での議論でも取り上げられる。

普通「生命」というと、「個体としての生命」を考えるだろうが、木下は「細胞」を生命と考えており、「細胞としての生命」という。そして「生命の階層」があるという。この考え方は興味深い。

 

心の誕生

細胞が分化するようになって、個体の中に現れた器官系の一つに神経系がある。神経系の役割は、外界の情報を受容し、伝達し、処理するところにあり、後にくわしく論ずることになるのだが、心が生まれてくるのは神経系の働きとその発達に基盤を置いている。ところが、個体そのものが遺伝子複製の装置であるなら、その中にある神経系の働きも遺伝子に隷属しており、その支配下にあることになる。それなら、これから問題にしようとしている心の働きも、やはり遺伝子に支配される可能性があり得る。このあたりが心の問題の議論の分かれ目となるところであろう。

神経系を基盤として「心」が生まれてくる、この詳細説明が後であるということなので期待しよう。

しかし、「ところが」以降の記述は疑問である。「個体そのものが遺伝子複製の装置であるなら」というのは、すぐ後に出てくるドーキンスの主張を踏まえてのものだろうが、こういう表現には違和感を覚える。

 

話を延々と引っ張ってきたので、ここまでの考えの筋道をまとめてみるとこうなる。生命は遺伝子の複製を目的として生まれた。細胞であれ個体であれ、すべての生物の活動を通じて、遺伝子の自己複製ということがらが他のすべてに優先しているとするなら、細胞や個体の生存はもちろんのこと、個体の発生の仕方や、その行動の有り様も含まれ、さらには社会の作られ方から、精神活動の在り方まで含まれるかもしれない。これは生物学の最初の主張からすれば、ごく自然に導かれてくる帰結であろう。

「生命は遺伝子の複製を目的として生まれた」…なぜこんなことが言えるのか。意味不明である。

「遺伝子の自己複製ということがらが他のすべてに優先しているとするなら」…これは「仮定」(前提)である。これが事実(真実)であると主張する根拠(証拠)は何なのか。

 

利己的遺伝子

遺伝子としての個性を保存するという一点に、生命活動のすべては集中しているというのがドーキンスの「利己的遺伝子」という考え方である(『生物=生存機械論)。もし生物に目的があるとすれば、それは遺伝子自身の目的、つまり遺伝子という個性的分子の自己複製にほかならず、そのための方策はすべて遺伝子の情報として組み込まれていなくてはならない。こういう性質を持った遺伝子を中核として生物系は発展していくことになる。ここで一つ注意を促しておかねばならない。この仮説は純粋に生物学上のもので、その当否は生物学上の事実によって今後検証されていくはずであって、利己的という言葉が醸し出す、ややもすると否定的な意味合いは、ここには含まれていないということである。

本書(木下清一郎『心の起源』)が書かれたのは、2002年である。ドーキンスの『利己的遺伝子』(The Selfish Gene)が書かれたのは1976年である。木下は、「この仮説の…当否は生物学上の事実によって今後検証されていくはず」と書いているが、生物学者の誰かがこの仮説を検証したのだろうか。

 

ここで、ドーキンスの「利己的遺伝子」について、少し考えてみたいのだが、その前に、前回引用したNHK高校講座「生物基礎」より、ポイントを再掲しておく。

・DNA は、デオキシリボ核酸という物質である。

・遺伝子は、DNA の一部であり、生物の設計図になる情報である。

・ゲノムは、遺伝子と、遺伝子ではない部分を全部含めた遺伝情報の全体である。

この説明によると、遺伝子は、DNA の一部すなわち物質であり、かつ「生物の設計図になる情報」である。物質が「情報」であるとは、「背を伸ばす」や「二重まぶた」などということを決めている部分(タンパク質を決めている部分)すなわち生物の設計図になる情報が、DNAという物質の一部に存在する、ということである。

 

遺伝子がこういうものだとして、ドーキンスの「利己的遺伝子」という考え方を、wikipediaにより理解しておこう。

利己的遺伝子とは、英国の生物学者ドーキンス(1941-)が、ダーウィンの進化論における自然選択を、個体ではなく遺伝子の視点から捉えなおすことを強調するために用いた比喩的表現である。

ここでは「利己的」とは「自己の成功率(生存と繁殖率)を他者よりも高めること」と定義される。「利他的」とは「自己の成功率を損なってでも他者の成功率を高めること」と定義される。これらの用語は日常語の「利己」のように行為者の意図やもくろみを表す言葉ではなく、行動自体をその結果のみに基づいて分類するための用語である。行為者がどのような意図を持っていようとも、行為の結果が自己の成功率を高めるのであれば、それは「姿を変えた利己主義」と考えることができる。(Wikipedia)

 この「利己的」の定義もよく分からない。「自己」とか、「他者」とは、何をさして言っているのだろうか。「利己的遺伝子」というからには、「遺伝子」のことだろうが、その遺伝子の「自己」、「他者」をどのように区別して言っているのだろうか。また高校生物では遺伝子は「物質」であり「情報」であると言っているが、この「利己的」の定義を、「物質」や「情報」とどう関連づけて理解すればよいのか。「物質」の生存と繁殖率とは何か。「情報」の生存と繁殖率とは何か。

「行為者がどのような意図を持っていようとも、行為の結果が自己の成功率を高めるのであれば、それは「姿を変えた利己主義」と考えることができる」…結果的に自己の成功率が高まることが、なぜ「利己主義」なのか。牽強付会の言葉遣いに聞こえる。

遺伝子の目的は、自分のコピーを遺伝子プール内に増やすことであり、遺伝子は他の個体を助けることによって、その個体の中にある自分のコピーを助けることが出来る。これは、個体のレベルで見れば利他的行動だろうが、実質的には遺伝子による利己的行動である。(Wikipedia)

「遺伝子の目的」…なぜこのような言葉遣いをするのだろうか。DNAは「意思」を持っているとでも言うのだろうか。比喩だというなら、比喩でない直接的な表現ではどう言うのか。仮に比喩表現で「目的」があるとしても、それがどうして「自分のコピーを遺伝子プール内に増やすこと」だと言えるのか。

生物個体が実際に遺伝子の利益になるように利他的行動をとるのは、前述のような対数による計算を行っているのではなく、遺伝子によって、あたかも対数による計算の結果に従っているかのようにふるまうようにプログラムされているからである。生物が行動の基準とする正味の利益の方法は例えば次のようなものである。…(略)…生物は、遺伝子の利益が最大になるように、この合計結果が最大になるように行動するものと考えられる。(Wikipedia)

要約すれば、「生物個体が、利他的行動をとるのは、遺伝子の利益が最大になるように行動するからである。それは遺伝子によってプログラムされている。」となろうか。遺伝子によってプログラムされている? 意思をもたない物質である遺伝子がプログラムした? 実は遺伝子は意思を持たず、その背後に「神」がいて、「神」がプログラムした? 

 

利己的遺伝子とは比喩表現であり、次のようなものではない。

  • 利己的遺伝子論は、遺伝決定論や還元主義ではない。
  • 利己的遺伝子論は、遺伝子が意思を持って振る舞うと言う意味ではない。
  • 利己的遺伝子論は、生物個体の振る舞いが常に利己的だという意味ではない
  • 利己的遺伝子論は、遺伝子だけが価値ある物で、生物個体は無価値だと言う意味ではない。

あたかも遺伝子自体が意志をもって利己的に振る舞うかのごとくイメージされることがあるが、誤読である。ドーキンスも誤読されることを予測して本書の中で「利己的な遺伝子」という表現は説明を簡単にするための比喩、あるいは群淘汰の対比に過ぎないと繰り返し強調している。(Wikipedia)

誤読されることを予測したのなら、こういう言い回しを避けるべきだろう。見てきたように、このwikipediaの説明でも、「遺伝子が意思を持っている」かのように書かれている。

霊長類学者フランス・ドゥ・ヴァールは利己的という語の用い方について、ある単語に全く異なる意味を与えて用いる際には決して誤解が起きないような単語を選ぶべきであった、と述べた。(Wikipedia)

ヴァールの言う通りだろう。

 

私の印象では、気象現象(台風、雪、霧…)を擬人法で説明しているようなものである。

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これらの形態形成に、「目的」を読み込む科学者はいるだろうか。