浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

心の世界 入れ子 壺中の天

木下清一郎『心の起源』(26)

今回は、第5章 心の世界を覗きみる 第6節「心は一つの世界をなしている」である。

「生物世界」と「心の世界」が、次のように対比されている。 

  生物世界 心の世界
特異点 核酸の出現 統覚の出現
基本要素 遺伝子 表象
基本原理 自己複製
(自己増殖)
自己回帰
(抽象と抽象作用)
自己展開 自然淘汰
(競争原理)
意志の自由
(自律原理)

4つの条件のすべてが、新しい要因によって満たされていることからすれば、心の世界は生物世界の中に作られた「新しい」世界であると認めてもよいであろう。

 では、心の世界は生物世界を「超えて」いるのか。

一つの世界に加えてもう一つの世界の関わり方にはいくつかの場合があり得るという。(a)独立(無関係)、(b)共生(相互依存)の他に、

(c)新しい世界は旧い世界に依存しているが、その逆は成り立っておらず、しかも新しい世界では今まで無かった原理をつくり出した時、両者は対等ではなくなり、依存の面からみれば従属しているが、新しい原理に着目すれば独自性を持つという関係になる。この最後の場合にのみ、新しい世界は旧い世界を超えたということができよう。しかもそれは「入れ子」の世界のかたちでのみ可能である。

 「入れ子」の世界

二つの世界を「入れ子」のかたちのおくことができれば、…たとえ新しい世界が破綻したとしてもその範囲内のこととして旧い世界に及ぼす影響を最小限にとどめることができる。ここではむしろ、「入れ子」構造はその先に更に「入れ子」をいくらでも用意することさえできるという有利さの方に、目を向けるべきかもしれない。これは「入れ子」の関係にのみ許されたことである。世界が限りなく発展していくには、ある世界をもう一つの世界に対して「入れ子」の関係におくしかないように思える。

入れ子」の世界というからには、内側と外側の世界があって、しかも内側の世界は外側の旧い世界を「超えて」おり、その上に旧い世界より「新しく」もなっている。「入れ子」ということからすれば、以前の世界よりも狭い世界に閉じ込められたようでいて、実はその中ではより広い世界、より次元の高い世界を展開させていることは、遠くは中国の古説話に出てくる「壺中の天」の話にそっくりである。

入れ子」とは、「同様の形状の大きさの異なる容器などを順に中に入れたもの。重箱や杯などの入れ子細工。よく知られたものとして箱根細工の入れ子人形(こけし・だるま・七福神)、ロシアのマトリョーシカ人形がある。」(Wikipedia)である。IT用語としては、「ある構造の中に、別の構造(あるいは同じ構造)を設定すること。たとえば、プログラミング言語表計算ソフトでは、関数の「( )」の中に関数を設定すること」(ASCII.jpデジタル用語辞典)の意味である。木下は、物質世界-生物世界-心の世界が、入れ子のかたちになっていると言う。IT用語の意味に近いだろう。ある構造の中に、類似の構造が生まれる。その構造とは、[特異点-基本要素-基本原理-自己展開]であろうか。イメージとしては面白い。

壺中の天(こちゅうのてん)という言葉が出てきたのでみておこう。

中国後漢の時代のことであるが、費長房なる役人が市場を取り締まる役に就いていた。その市場に薬を商う一人の老翁がいて、店先には大きな壺が置いてあった。ある夕暮れ時、費長房が見るとはなしに見ているとこの老翁、商いが終わると店を閉め、あたりを見廻すとその壺の中にヒョイと入り込んでしまった。何と不思議なこともあるものと翌日その老翁を問い詰めたところ、ついには壺の中に連れて行ってもらうことになった。そこには荘厳を極めた玉殿があり、美酒と佳肴(かこう)が溢れるこの世のものとは思えない別天地であった。この役人は暫し俗世を忘れて、酒を酌み交わし、別世界を遊んだのであった。(『後漢書・方術伝下・費長房伝』より。http://www.tao-c.jp/page/page04.html

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http://holms727.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-5326.html

壺中に別天地があるとしたら、それは現実を「超えて」いるだろう。入れ子(類似の構造)というよりは、壺中天のほうが喩えとしてはふさわしいかもしれない。

木下は、「いったん入れ子として確立した世界は、それ自身の自己展開則に従って発展を遂げるが、…意志の自由則が展開し得る限度は、心の世界の母胎である生物世界の自己展開則(つまり自然淘汰則)によって規定される…」と言うが、これはよくわからない。生物として存在できなければ(命がなくなれば)、心は存在できない、ということあれば、当然のことである。

木下は、さらに「無限の入れ子」に言及しているが、「心の先の世界は…おそらく思考の及ばない超越の世界、あるいは超越者の世界なのであろう…これは残された解決不能問題である」から、科学者としては何も言えないだろう。

 

有機体

これまで生物世界と心の世界とが別次元であることばかりを強調してきたが、これら二つの世界には共通した点のあることも見落とせない。それは両者がともに「有機体」という性質を持っていることである。有機体という言葉はもとはといえば生物体を指していたのだが、今ではもう少し広い意味に使われ、有機体論という名のもとにその性質が論じられるようになっている。そこでの議論では「有機体とは、それを作っている要素の間に『特殊な関係』が結ばれており、その関係によって自らを組織化し、全体の統一を果たしている体系である」といわれる。この言い方からわかるように、有機体とは「関係」そのものであるから、もし有機体を分割すれば関係は破れてしまい、有機体としての本性は失われてしまう。したがって、有機体を要素の集合として理解することはできない。つまり、全体を部分に還元することはできない。

有機体論について

近現代では、ホワイトヘッド(1861-1947)は、有機体の創発性や過程性について考察し、環境とともに生成しつつ秩序を形成する組織体としてとらえた。…ベルタランフィー(1901-72)が説いた有機体論では、流動平衡(内容的に動的平衡とほぼ同じもの)と階層構造の概念が中心的な役割を果たしている。有機体論は、今日の人間科学の基礎理論としても位置づけられている。例えば化学者プリゴジンの自己組織化理論、あるいは神経生理学者マトゥラーナ社会学ルーマンオートポイエーシス・システム理論などで、基礎理論として用いられているのである。(Wikipedia

 

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http://blog.livedoor.jp/stake2id/archives/51955389.html

 オートポイエーシス・システム理論は、今後考えてみたいテーマである。

生命とは何であるかを見とどけようとして、生物体を壊したとすると、生命の働きは止まってしまい、求めていた生命は手の指の間を抜けていく水のように消え失せる。残されたものは生命の要素としての物質のみである。

これは極論だ。一部器官の損傷による実験は生命探求にとって有効だろう。

全く同じことが、心についても言える。心とは何であるか見定めようとして脳を壊したとすると、心の働きは止まってしまい、後に残るものは神経細胞の網目だけになる。…心の本質が神経細胞の間に潜んでいる「関係」に他ならないのは、生命の本質が物質の間に潜んでいる「関係」であることと同じである。これは心もまた生命と同じく「分割不可能なもの」であり、心は無形ではあってもやはり一種の有機体といってよいであろう。

これも極論だ。脳の一部の部位損傷による実験は心の探求にとって有効だろう。心が分割不可能であり、有機体であるといったところで進展はない。どのような有機体であるのか、どのような「関係」にあるのかを説明しなければならない。

しかも有機体にこういう関係を生じさせているものは、有機体という体系自身以外にない。というのは、有機体では要素の間の関係が、常に要素自身に関わるものであり、関係のもたらすものが関係自身に再び帰ってくる(つまり再帰的である)からである。自分自身に関わるとは、自分が自分を縛る関係を生みだすことを意味している。これが有機体で働いている「特殊な関係」ということの内容であった。これもまた生物世界にも心の世界にもあてはまることである。二つの世界は別次元にあっても、またその上に、一方は有形であり他方は無形であっても、両者は互いに引き写しのように重なり合うところがある。

これは抽象的すぎて分からない。

このように見てくると、生物世界と心の世界についてこれまで述べてきたことは、結局、有機体の議論であったといえなくもない。自己言及、自己複製、体系の中の小階層など、みなそうである。それならば、いままで有機体という言葉を使わなかったのはなぜか。ことさらに「世界」、「階層」などぎこちない言葉を使って、生物世界と心の世界とを峻別しようとしたのは何故なのか。それは有機体という言葉があまりにも包括的であるので、二つの世界も区別が曖昧になってしまうことを懼れたためだと言っておこう。私たちは生物世界にも心の世界にも属しているが、やはり心の世界の方に重みをかけて考えたい。

有機体の議論→オートポイエーシスの議論と木下の議論を比較したらどうなるだろうか。