浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

不平等論(10) 土地所有権について

稲葉振一郎立岩真也『所有と国家のゆくえ』(14)

前回、稲葉は、

稲葉 「所有はたった一人で始めることができるのか、たった一人で、ほかの誰のことも気にせずに、「これは俺のものだ」というふうに人は言うことができるのか」という問いを立てて、それに「イエス」と答えるのがノージックの所有論だ。

という話をしていた。今回はその続きである。

稲葉 ロックはホッブスとの対比で言えば、「但し書き」をつけながらも、その「但し書き」の条件が成り立つ限りは、「人はたった一人で何かを所有できる」ということを肯定した。それに対してホッブスは、そういう考え方を認めなかったっていうか、むしろ「ロック的但し書き」が成り立たないような状況の方を基準としてものを考えていた。そうすると、人が何かを所有するためには、その人を取り巻く社会全体がある枠組み、つまり所有権制度を先行的にかちっと認めて、「お前これを持っててもいいよ」とみんなが認めなければいけない、承認しなければいけない、っていうふうに話が進む。つまりロックの所有論は、他人が誰もいないところで何かを拾う、というような事態が基準的事態として想定されているわけだが、ホッブスの場合には、たくさんの人が混みあったところにいて、混みあったところでなんとか土地やその他資源を分け合う、というところから所有論を出発させる。で、どっちがリアリティを持つかと言うと、状況次第、環境次第というところがあって、どっちが優位とは言えない、それでもどっちがその時々において重要かということくらいは考えないといけない。ただ、ロック的な所有論はたかだか「但し書き」付きだけしか成り立たないから、ローカルでナンセンスな議論で、だからノージックもダメというふうには言いたくない

稲葉はここでロックとホッブスを対比させているが、「ロック的但し書き」が成り立たない状況においては、みんがきちんとルールを決めなければならないというのは当然である。そこからどう話を展開するか。

 

稲葉 所有のみならず権利一般の話にロック、ノージックの議論をどれくらい拡張できるか、は開かれた問い*1である。開かれた問いなんだが、ノージックの気持ちとしては、所有を、権利ということのすべてとか、原型ではないにせよ、ある種の典型性を持ったものある種の基準人間の権利というものの基準として考えていたと思う。その所有権に関して、人は周囲の誰にもとやかく言われることなく、他人の承認を得ることなく、これは俺のものだと何かについて言えるというふうに、仮にしてみようというかたちで、彼は『アナーキー・国家・ユートピア』を書いた。…で、所有のみならず、権利一般に関して、周囲の同じ世界に共存している他人が認めようが認めまいが、人はある権利を持っているというふうに言えるかどうかというときに、常にとは言わないまでも、結構多くの場合において、それなりに一般性を持ったかたちでその問いに肯定的に答えられるとノージックは考えていたと思う。

「他人が認めようが認めまいが、人はある権利を持っている」というとき、その権利とは「実定法に基づく権利」ではなく、「慣習法/自然法に基づく権利」であろう。ノージックが「所有」のみならず「権利一般」について、「他人が認めようが認めまいが、人はある権利を持っている」と考えていたと言うが、なぜ「権利一般」にまで拡張できるのかを述べていないので、「ああ、そうですか」というしかない。

 

稲葉 例えば彼[ノージック]は、はその人の権利、人があるもの(こと)について権利を持っているかどうかということは、要するに歴史的な背景によって定まるのであって、そのときの社会の状態によって定まるのではないという言い方をする。つまり歴史原理を採る。それに対して、ノージックは自分の仮想論敵たちのスタンスを「状態原理」と呼んでいる。そこには功利主義はもちろん、ロールズなんかも入れられてしまう。ほぼありとあらゆる再分配理論、分配的正義の理論はこの「状態原理」を採っているけど、自分は採らない、という。前回はこの「歴史(プロセス)の原理」対「状態(スタティック、ステイト)の原理」というかたちで、ノージック対それ以外と言う議論をしてみたが、今日は「局所」対「全域」すなわち、局所と社会的に共存している他者たちの承認という対立として、ノージックノージックが考えるところの論敵たちという分け方をしてみたらどうなるだろうかを考えてみる。

「歴史的な背景」とは何だろうか。…歴史原理と状態原理については、稲葉は次のように図示していた。(市場万能論(2) 手続きが適正であるなら、どんな悲惨な結果になろうと受け入れるべきなのか? 参照)

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状態原理…「状態」即ちそこにおける人々の幸福や社会的分配の構造を評価の対象とする。

歴史原理…「過程・手続」の適正さのみを評価の対象とし、人々の社会の「状態」の良し悪しを評価の対象とすることを避けようとする。但し、歴史原理が「状態」に無関心かというとそうとも限らない。ノージック新古典派経済学の場合、「過程・手続」が適正なら、人々は自分が自分や社会の「状態」を改善しているはず、と期待しているのである。

稲葉はそこで「どんな結果が与えられても、その手続きが適正である限りは受け入れると言えというのがノージックの議論の仕方である」と説明していた。この議論が、所有のみならず権利一般に拡張されるわけである。

なお、「過程・手続」の適正さを追及することは当然である(結果が良ければ、手続はどうでもよいということにはならない)。それをなぜ「歴史原理」と呼ぶのか、意味不明である(「歴史」という言葉を、どういう意味で使っているのか)。なぜ「状態原理」と対立させなければならないのか、意味不明である。

 

稲葉 そうするとノージックの議論では、逆説的にも実はその局所において人はたった一人で他人の承認とは関わりなしにある権利を持っていると言える、あるいは言えないというのが成り立つ。どういうことかと言うと、権利に関する普遍妥当する規範が成り立つと前提しなかったらこの議論はうまくいかない。それに対して彼が仮想論敵にしていたのは、要するに人がこれこれの権利を持っていると言いうるためには、共存している他者たちがだいたいみんな「そうだね」と承認してくれることを前提にしている議論である。あるいはその権利が実効性あるものとして成り立つためには、その権利をみんなが尊重するという義務を反射的に社会の他の人全員がきちんと負ってくれるという条件のもとでないと、彼/彼女のたった一人の個人の権利っていうものが成り立ち得ないというタイプの議論で、こっちの方が実はローカルであると。そのローカリティってどういうことかと言うと、現に生きているすべての人たちの合意であっても、それはすべての人間を包括していない、それはつまりたかだか現に生きているすべての人間でしかなくて、これまで生きてきてもう死んじゃった人は感情に入ってないし、これから生まれてくるであろう人たちはやはり勘定に入らない。これは一種の根源的な規約主義であるが、根源的な規約主義というのは普遍妥当する規範というものを必要としない。強い意味での根源的規約主義はむしろこういう普遍妥当する超越的な規範というものを認めないタイプの議論になる。で、ノージックのタイプの議論はつまり一見したところ局所的なミクロ的なまったく個人の単位で権利だの義務だのと言っているような議論に見えつつも、それが成り立つためにはものすごい普遍性を実は要求しているんじゃないかという気がする。…それに対して、ノージックが仮想論敵としていて状態原理と呼んでいた人は、一見普遍主義に見えながら実は普遍主義的ではないのではないか。

稲葉のこの話はよく考えてみなければならない。話の流れが、「所有」から「権利一般」にいっているのだが(「所有のみならず、権利一般に関して、周囲の同じ世界に共存している他人が認めようが認めまいが、人はある権利を持っている」という)、「権利一般」では考えづらいので、「土地所有権」について考えることにしよう。

ノージック(稲葉)の言うように、「権利に関する普遍妥当する規範」(自然権)があるならば、それは他人の承認とは関係ない。「土地所有権」というのは、そういうものらしい。しかし(たぶんに誤解かもしれないが)話が逆転しているように思われる。すなわち彼の議論は、「土地所有」の(歴史的)現実のあり方に焦点をあわせて、そこから思考をめぐらすのではなく、

①「普遍的な自然権」なるものがある。

②「所有権」はそういう自然権の一つである(「汝盗むなかれ」は、「所有」を前提とする)。

③「土地所有権」は、「所有権」の代表的なものである。

という議論のしかたであるように思われる。このように、土地所有権成立の「歴史的現実」を見ないで「超越的な規範」を前提する議論を「歴史原理」と呼ぶのは、きわめて不適切であるように思われる。

私は「土地所有権」なるものは、「力」を背景として作られたルールに依拠する「権利」だろうと考えているのだが、それは、「たった一人で、ほかの誰のことも気にせずに、「これは俺のものだ」というふうに人は言うことができない」ということである。稲葉のノージック解釈が正しいとすれば、ノージックはとんでもないことを言っている。(ノージック/稲葉が正しければ、私は東京の周りに縄を張って「東京の土地はオレのものだ」と主張する)。

稲葉は「ノージックが仮想論敵としていて状態原理と呼んでいた人は、一見普遍主義に見えながら実は普遍主義的ではないのではないか」と言うが、「状態原理とは、「状態」即ちそこにおける人々の幸福や社会的分配の構造を評価の対象とする」(稲葉)ものであった。では「人々の幸福」とは何なのか。百人百様でありながら、「これは、こうしたほうがいいね」と合意できるからルールが作られるのであり、それを「普遍的な」価値に基づく合意と言っても良いのではないか(別に言わなくてもよいが)。…私がここで言いたかったのは、「規約主義」とか、「超越的な規範」とか、「普遍主義」とか、そんな言葉を並べられても、何の説得力もないということである。…稲葉は、何が問題であり、それをどうすべきと考えているのか、よく分からない。ノージック解釈ではなく、稲葉の意見はどうなのか。

 

稲葉 さらに言うと実は、ノージックロールズを仮想論敵にしていたのだが、恐らくロールズも主観的にはプロセス重視において人後に落ちない。ロールズも実はプロセス重視の思考であり、なおかつ彼の言うところのオリジナルポジション(原初状態)の思考実験というのは、ものすごい極端な普遍主義的思考である。少なくとも『正義論』の段階では、かって生きていて今はいないすべての人、これから生まれてくるかもしれないすべての人、そうした人々が採りうる立場までをも考慮に入れたうえでのオリジナルポジションを想定していたわけだから、少なくともロールズも目指していたことは超越的でめちゃくちゃ普遍的な議論であり、合意の上によったものとは言い難い。あるいは合意を超越する普遍妥当なものというのに議論の照準を合わせていたと。実はそういう意味では立岩さんも少なくとも超越的なんじゃないかな、と予想しているんですけれども、いかがですか?

「どうあるべきか」(ルールづくり)の議論は、いま生きている人だけではなく、「これから生まれてくるかもしれない人」をも考慮に入れることは当然である。それを「普遍的」と呼びたければ呼んでもよいだろう。しかし、未だ生まれてこない人が議論に参加できないからと言って、「合意の上によったものとは言い難い」とか「合意を超越する」とか言うのはあたらない。そんなことを言ったら、「現在」の人たちが議論して、「合意」を目指すということができなくなる。

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さて、「土地を所有するということ」がどういうことであるのかは、私の関心事項の一つであり、このブログで考えていきたいと思っているのだが、一つの視点をメモしておこう。

地球上に住む私たちは、土地をどのように使うのか」が、まず考えなければならないことである。

平成28年版土地白書の「土地利用の動向」によれば(日本の話に限る)、

平成26年における我が国の国土面積は約3780万haであり、このうち森林が約2506万haと最も多く、それに次ぐ農地は前年より減少して452万haとなっており、これらで全国土面積の約8割を占めている。このほか、住宅地、工業用地等の宅地は約193万ha、道路は約138万ha、水面・河川・水路が約134万ha、原野等が約35万haとなっている。

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「工業用地」とは、工業統計表にいう「事業所敷地面積」である。「その他の宅地」とは、住宅地・工業用地いずれにも該当しない宅地で、事務所・店舗等である。「その他」には、ゴルフ場,鉄軌道用地,在日米軍用地,自衛隊用地,空港,学校用地,公園等がある。

「土地の所有」とは、このように利用される土地の所有の話である。このような土地の利用の態様を少しでも考慮すれば、さまざまなルールが必要とされることは容易に想像がつくだろう。このような具体的な土地利用の態様を何ら考慮せず、稲葉のような議論(土地の所有→所有→権利一般)をすることは、全くナンセンスであるか、イデオロギー的な主張であるように思われる。

*1:開かれた問い…考える力を問われる問い。一つの正解があるとは限らない問い。答えが定まっていない問い。