浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

共同体論(1) 彼氏レンタル/彼女レンタル

平野・亀本・服部『法哲学』(29) 

今回は、第4章 法と正義の基本問題 第5節 共同体と関係性 である。本節では、共同体主義コミュニタリアニズムcommunitarianism)が扱われている。

まず共同体主義とは何かについての概要を3つ並べてみよう。ブリタニカ国際大百科事典とwikipediaと本書(平野)の説明である。

 

コミュニタリアニズム

人間存在の基盤としての共同体の復権を唱える政治思想。共同体主義とも呼ばれる。ジョン・ロールズの『正義論』(1971)が政治哲学の復権に大きな影響を与え,当初その指導的立場にあったのが,ロールズに代表される福祉国家的な自由主義者と,ロバート・ノージックに代表される個人の自由に対する制約を最小化しようとするリバタリアン(→リバタリアニズム)であった。一見したところ対立するこの両陣営は,個人の多元的対立から社会構成の原理を導出しようとする基本的枠組みでは一致する。この個人主義的な人間像,社会像に対して根本的な次元から論争に参加したのがコミュニタリアンである。アラスデア・マッキンタイアマイケル・サンデルマイケル・ウォルツァーらを代表とし,その主張は必ずしも一様ではないが,人間的主体性を,共同体のもつ歴史的,社会的文脈に根づいた存在としてとらえようとする点では共通する。コミュニタリアニズムの登場の背景には,アメリカ社会が極端な個人主義に陥った結果,公共心が衰退し,そのことがさまざまな社会問題を引き起こしているという洞察があった。(ブリタニカ国際大百科事典)

共同体主義

共同体主義とは、20世紀後半のアメリカを中心に発展してきた共同体(コミュニティ)の価値を重んじる政治思想。…共同体主義は、現代の政治思想の見取り図において、ジョン・ロールズらが提唱する自由主義リベラリズム)に対抗する思想の一つであるが、自由主義を根本から否定するものではない。

共同体の価値を重んじるとは言っても、個人を共同体に隷属させ共同体のために個人の自由や権利を犠牲にしても全く構わないというような全体主義国家主義の主張ではなく、具体的な理想政体のレベルでは自由民主主義の枠をはみ出るラディカルなものを奨励することはない。むしろ、共同体主義自由主義に批判的であるのは、より根源的な存在論レベルにおいてであり、政策レベルでは自由民主制に留まりつつも自由主義とは異なる側面(つまり共同体)の重要性を尊重するものを提唱する。 (Wikipedia)

 共同体論

自由と平等は、立憲民主制下の法制度が様々な領域で具体化している基本的な法価値である。それは基本的人権の内容として、法の中立性及び寛容とともに自由主義的な法秩序をもっともよく特徴付けるものともなっている。しかしここに、自由社会の病弊を指摘し、平等な自由への権利を基本原理とする法秩序のあり方そのものに疑問を投げかけ、それを支える自由主義的な正義の理論に対して根本的な批判を展開する考え方がある。共同体論である。共同体論は、自由主義理論の拠って立つ基盤とその前提を鋭く提示しながら、とかく見失われがちな法的・政治的実践の、もう1つの重要な次元に私たちの目を向けさせる。(本書)

共同体主義とは、20世紀後半のアメリカを中心に発展してきた共同体(コミュニティ)の価値を重んじる政治思想」であるというwikipediaの説明が簡潔である。それは、ロールズらの自由主義リベラリズム)に批判的である。またノージックらの自由至上主義リバタリアニズム)にも批判的である。しかし、全体主義国家主義の主張ではない。…私はコミュニティという言葉が気にいっていてよく使うのだが、全体主義国家主義の主張に陥らないよう、家族から地域、国際(全世界、グローバル・コミュニティ)まで、さまざまなレベルの共同体を念頭においている。

 

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http://family-romance.com/service.html (これは「個人主義」からのイメージ画像です)

 

では本書における平野の説明をみていこう。共同体論者は、「自由社会の病弊」を指摘する。

 

自由社会の病弊

個人を尊重し、個人の個人としての自由・平等を重んじる社会は共同体を衰退させ、歴史や伝統に培われた共同体の価値を失わせるだけでなく、人間関係の希薄化を招き、本来は豊かであるはずの個々人のアイデンティティを浅薄なものにしてしまって、共同体の事柄ないし公共的な問題に対する真に主体的な取り組みを難しくするような状況を作り出してきている。

これはいかにも紋切り型の批判に聞こえる。あるいは表面的な批判に聞こえる。…現代の欧米諸国や日本は、「個人の個人としての自由・平等を重んじる社会」なのだろうか。「個人としての自由・平等」って何? 「歴史や伝統に培われた共同体の価値」って何? どこにそんなものがあるのだろうか。戦争(殺戮)の歴史とそれを支えてきた国家の伝統は、守るべき共同体の価値なのか。人間関係の希薄化? では人間関係は「濃密」であれば良いのか。「公共的な問題に対する主体的な取り組み」が民主主義のことを意味するとしたら、共同体論者は、自由社会は民主主義を危うくすると主張するのだろうか。

 

市場においては、自由競争を通じ、力を持った大きな企業が小規模の経営体を次々に併合ないし駆逐して、その勢力を拡大していく。他方、弱者を守り平等化を推進しようとする福祉国家は、そのためにますます官僚機構とその権力を増大させる。個人は、あたかも市場権力によって翻弄され、国家的庇護の下で無力化されるかのようである。私的、公的、いずれの場合においても、強力な権力の前にバラバラの個々人はよるべなく受動的にならざるを得ない。権力の集中が、個々人における対抗力の弱まりと主体性の喪失を招くのである。

これまた一面的な主張のように思える。…大企業が出現したらどうだというのだろうか。その結果、市場権力(大企業?)によって、個人が翻弄される? いったい何を言わんとしているのだろうか。福祉国家は、官僚機構とその権力を増大させる、というが、福祉国家が「大きな官僚機構」(きめ細かなサービスを提供できる組織)を必要とするなら、それは望ましいことなのではないか。「強力な権力の前にバラバラの個々人はよるべなく受動的にならざるを得ない」とは、いかにも情緒的な文章である。「権力の集中が、個々人における対抗力の弱まりと主体性の喪失を招く」も同じ。権力の集中=悪、個々人における対抗力と主体性=善、を前提した議論だろう。

 

また、共有価値の拡散・消失と一元化もそのような病的状況の一つとして挙げられる。市場では、需要と供給による貨幣的価値が基準となり、経済的な効率性ないし富の追求が支配原理となるために、売れるものはポルノであろうと臓器であろうと人の名誉を傷つけるものであろうと次々に出回るのに対し、特定の共同体と結びついた文化や伝統あるいはそれらにもとづく功績など、市場価値になかなか変換できないような共有の価値が次第に廃れていく。共同体における地域的人間関係に支えられた相互扶助的なシステムも簡便な市場サービスにとって替えられ、医師や大工など専門職業人の使命感や気概、誇り、あるいは公民的徳としての信頼や勇気、誠意といったものも維持されなくなる。

こういった文章を読むと、共同体論者は「昔は良かった」と主張しているように聞こえる。果たしてそうだろうか。

 

市場の自由競争は、価値の多元化ではなく、価値の一元化を招きやすい。また他方、平等化を推進する福祉国家も、例えば同化政策に見られるように、差別の解消と引き換えに、特殊な伝統・文化を有する共同体を解体してしまう。国民が等しく一定の福利を享受するシステムが、共同体の支え合いを不要にし、人々を効率的・普遍的な管理システムの下に置くからである。

「市場の自由競争は、価値の多元化ではなく、価値の一元化を招きやすい」で、何をイメージしているのか分からないが、これは考える価値のある指摘のように思える。単純に言えば、自由競争(の理念)は、「おカネ」を最重要の価値とするということである。「市場」は、「おカネ」以外の何かに価値をおいて、それを追求しようとしているだろうか。

ここで述べられている福祉国家観は理解できない。…福祉は平等のみを推進しようするとするものではない。一口に平等といっても、その内容は多様であり、一括りにすることはできない。福祉国家が、いわゆる「同化政策」を推進するとは考えられない。「特殊な伝統・文化を有する共同体」は、全体として、まるごと維持されなければならない存在なのか。例えば、良質な部分を維持し、良質でない部分(例えば、非民主的で、反自由で、不平等な部分)を改めようとすることが、共同体を「解体」することになるのだろうか。福祉システムが、「共同体の支え合い」を不要にするなどということがあり得るだろうか。「共同体の支え合い」こそが、「福祉システム」の最重要な理念ではないか。「管理システム」が「悪」であるかのような記述であるが、「効率的・普遍的な管理システム」がどういうものであるか(あるべきか)を考えたことがあるのだろうか。

以上、共同体論者が「自由社会の病弊」として指摘することは、皮相的で説得力がない(よく分からない)。しかし、後で、もう少しまともな共同体論の主張が紹介されるようなので、そのときにもう一度考えてみよう。

 

共同体の崩壊

さらに、共同体論者によれば、共同体的な関係がなくなり、共同体そのものが崩壊する傾向もある。地域共同体や民族共同体における人間関係が市場システムないし福祉国家システムの下で希薄になるのはもちろん、基本共同体である家族にまでそれは及ぶ。家族の一員であるとしても、個人として尊重され、平等かつ自由に幸福を追求できるとされるがゆえに、まちまちの幸福追求が離婚を招く。思い通りにならない子に対する虐待や、自由な幸福追求の妨げになる老親の遺棄も増えるであろう。公的な福祉に依存できれば、子どもの保育や老親の世話から開放されることにはなるが、それによって次第に家族としての責任感は弱まり、結びつきも薄くなる。家族関係が崩壊すれば、それは、子どもから家庭という「繭」、家庭という「社会化の場」を奪ってしまうことにもなりかねない。私的な生活領域における個人的な自由と公共的なものへの関心の薄れが、差別を助長するとともに、窃盗、麻薬、暴力など、少年にまで及ぶ犯罪と非行の増加にもつながっていく。

「地域共同体」や「民族共同体」や「基本共同体である家族」は、無条件に維持されるべき「共同体」なのか。「市場システム」や「福祉国家システム」は、このような「共同体」の領域を侵してはならないのだろうか。

「市場システムないし福祉国家システム」が、「共同体」を破壊しつうあるから、離婚や虐待や老親の遺棄や、差別や、窃盗、麻薬、暴力が増加しているというのだろうか。

共同体論者とされるマッキンタイアやサンデルやウォルツァーらは、このような単純な議論を展開しているとは思われないのだが…。

 

自由主義正義論批判

このような自由社会の病弊は、共同体論によれば、他でもない平等な自由を保障する自由主義的な法秩序の1つの帰結なのであり、その根本原因は、そうした秩序を支える自由主義的な正義の理論によるところが大きいとして、それが批判される。正と善の区別、「負荷なき自我」の観念、関係性の欠如という3つの点について、批判論の要旨をみておきたい。

以下、①正と善の区別、②「負荷なき自我」の観念、③関係性の欠如、の3点について、共同体論者による「自由主義正義論」の批判が紹介されるが、これは次回にしよう。