浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

共同体論(2) 共同体論者の自由主義(リベラリズム)批判

平野・亀本・服部『法哲学』(30) 

前回に引き続き、共同体主義コミュニタリアニズムcommunitarianism)の話である。平野は、共同体論者による「自由主義的な正義の議論」の批判を紹介しているのだが、その説明にやや分かりにくいところがあるので、以下の解説を先に見ておこう。

 

善に対する正の優越

自由主義者は、「正は善に優先する」と主張するらしいが、説明を聞かないとこれは何を言っているのかわからない。児玉聡は、「善に対する正の優越」(the priority of the right over the good)は、「自由主義の中心的な考え方となっている重要な標語」であるという。(https://plaza.umin.ac.jp/kodama/ethics/wordbook/priority.html

各人はそれぞれが善き生について自分なりの意見を持っている。これを最近はconception of the good (善の構想)、 あるいはconception of the good lifeなどと呼ぶ。つまり各人の人生設計のことである。哲学者として冥想して生きていこうとか、バクチで身を立てようとか、安全な人生を歩むために公務員になろうとか、等々。(児玉)

公務員になりたい人は多いだろうが、哲学者として生きていこうとか、バクチ(投機)で身を立てようなどと思う奇人は滅多にいない。

クオリティ・オブ・ライフ(quality of life、QOL)という概念がある。

一般に、一人ひとりの人生の内容の質や社会的にみた生活の質のことを指し、つまりある人がどれだけ人間らしい生活や自分らしい生活を送り、人生に幸福を見出しているか、ということを尺度としてとらえる概念である。QOLの「幸福」とは、身心の健康、良好な人間関係、やりがいのある仕事、快適な住環境、十分な教育、レクリエーション活動、レジャーなど様々な観点から計られる。(Wikipedia)

人生の内容の質(QOL)とは、具体的には、「身心の健康、良好な人間関係、やりがいのある仕事、快適な住環境、十分な教育、レクリエーション活動、レジャー等々」によって計測される。このようなQOLを考えることによって、「善き生」(自分はこんな生活がしたい)を具体的にイメージすることができる。この内容は、人によって違う。百人百様であろう。他人から、これが「善き生」だなどと押し付けられたくはない。

自由主義社会においては、善の構想の複数性(多元性)を認め、政府は「これぞ最高の善の構想です。これを目指して生きなさい」というような押しつけはしてはならないと考えられている。すなわち、各人は、他人の自由を侵害しないかぎり、自分の善の構想を追求することが許されている。(児玉)

自由主義社会においては、各人は自分の善の構想(自分が善いと思う生活/生き方)を追求することができる。特定の生活/生き方を強制されることがない。

このような状態、すなわち、社会の制度が、唯一の善の構想に従って作られているのではなく、各人が公正な社会の中で、自由に自分の考えに従って人生を決められるという状態を、「善に対する正の優越」と呼ぶ。つまり、社会的正義は、ある一定の善の構想に依存しないということ。(児玉)

自由主義社会は、さまざまな善の構想(各人の多様な幸福の追求)を認める。ある特定の善の構想に依存しない(強制されない)ということが、正(社会的正義)なのである。

自由主義リベラリズム)がこのようなことを主張するものであるなら、「正は善に優先する」などと分かりにくい言い方をしないほうがいい。「自由主義リベラリズム)は、ある特定の生活/生き方を強制しない。各人が良いと思う生活/生き方を追求して良い、と主張する」とでも言っておけばよい。

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さて、この自由主義の主張は受け入れられるか? 

一見もっともらしい。しかし考えて見よ。このもっともらしさは、「善き生を構想することができる者」だけのものではあるまいか。心身の病気で苦しんでいる者、コミュニティから排除された者、コミュニティの中で差別されている者、仕事にやりがいを持てない者、違法労働を強制されている者、今日の食事に困っている者、冷暖房もない粗末なアパートの一室で一人暮らししている者、バカだアホだとののしられている者、レジャーの時間もカネもない者、世間を何も知らない子どもや学生……これらの人に、果たして善き生を構想することができるのか?

教養ある人格者として善き生を構想することができるならば、自由主義者の主張は(一応は)もっともである。(「一応は」というのは、さらに詳細を検討する必要があるだろうという意味である)。しかし、善き生を構想することができない人がいることを認めるならば、「善に対する正の優越」(ある特定の生活/生き方を強制しないこと)と主張し、いかなる生活/生き方を選択しようと「自由」だと主張することが、いかなる結果を将来しているかを見ようとしないものであることを自覚できるはずである。

以上は、児玉の解説を読んでの所感である。

 

次に、白水士郎の解説を見てみよう。(共同体主義リベラリズムの論争、http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/jk/jk18/souron.html

1980年代に政治哲学の場では、リベラリズムと「共同体主義」との間で活発な論争が交わされた。共同体主義の基本的な主張は、リベラリズムの核心にある個人主義個人の「権利」の尊重を出発点におく思想に批判を向け、何らかの共同体の価値の優先を政治哲学において復権させよう、とする点にある。

共同体主義は、リベラリズムの何を批判するのか。それは、個人の「権利」の尊重を出発点におく思想、つまり「個人主義」であるという。では「個人主義」のどこに問題があるというのだろうか。

サンデルはロールズリベラリズムを批判するのであるが、ロールズの 「原初状態」の想定においては、

我々は自らをいかなる共同体からも、その特定の道徳的紐帯からも解き放ち、さらには自らの持つ様々な財産や才能、価値観や個別な目的設定を偶然的なものとして考慮から外し、ただ社会から自由で、独立に選択を行う「能力 (capacity)」としてのみ自己を立てることになる。

 かかる自己は、「負荷なき自己 (the unencumbered self)」と呼ばれる。現実の社会から分離され、抽象された自己である。サンデルは、この抽象性を批判する。

ロールズが偶然的なものとして捨象する上述の個人の財や諸性質、とりわけ特定の共同体への「愛着」こそが実は個々人のアイデンティティを現実的に構成している当のものだったのであり、従って我々は、自らのアイデンティティをそこにおいて認める社会の共同的で実質的な価値観、共有された「善」の観念にこそ我々の規範を基づけねばならない。

議論を組み立てる際の「アルキメデスの支点」としてリベラリズムが依拠する、自由で自立した市民、という近代的な主体の観念に哲学的な批判を加えるというスタンスは、共同体主義の主要な論者に共通する姿勢である。

共同体主義は自己のアイデンティティを構成する契機として、特定の家族、コミュニティ、国家、民族に対して愛着を持ち、その成員として帰属意識を持つ、ということを第一に置くのだが、その際に自己は、何よりもそうした集団の歴史の担い手として規定されることになる。この歴史は、我々が 自らの選択によって選び取ったものではないという意味で、あくまで偶然的なものである。しかし、そもそもリベラリズムが考察の出発点とする自律的な主体としての自己は、その形成においてまさしくこの偶然的なものに負っているのである。

リベラリズムの核心にある個人主義の「個人」とは、「自由で自立した市民」である。共同体主義者は、そのような「自由で自立した市民」は、抽象的な存在であり、実際には「特定の家族、コミュニティ、国家、民族」の成員として歴史的に形成されてきたものであることを強調する。自己のアイデンティティは、そのようなコミュニティを前提とするのであり、「負荷なき自己」はあり得ない、とする。

 

リベラリズムが依拠する「自由で自立した市民」は、抽象的存在であることは間違いないところだろう。しかしその抽象は、自らの所属するコミュニティ(家族、国家、民族等)の利害を超えて、客観的・理性的に問題を検討せんがための抽象であろう。わかりやすく言えば、むやみやたらに「私」を主張しないで、「相手の立場にたって、考えてみる」ということである。家族エゴ、国家エゴ、民族エゴを排して、考えてみようということである。ただ、このように解することは、概念の混乱を招くかもしれない。

 

次回、本書を読みながら、再度考えて見たい。