浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

不平等論(12) 「私はこの社会に居場所はない」と呟く人を生み出すような社会は望ましい社会なのか?

稲葉振一郎立岩真也『所有と国家のゆくえ』(16)

前回、立岩は、(1)権利は人々の承認を待って初めて実効力を持つ。(2)しかしそれだけではなく、人の権利は、人が認めたり承認したり、好きだったり嫌いだったりすることと独立して存在するべきである。と述べていた。

この2点目に関連して稲葉はいろいろ話しているが、従来のように、引用してコメントするというスタイルをやめて簡単にふれておこう。…稲葉は、相変わらず立岩の議論を発展させる形で対話しようとせず、ノージックロールズを引き合いに出して、「立岩理論」との違いを解説してみせる。さらには、経済学の「重複世代」モデルを持ち出して「次世代」との関係の話をする。それが「立岩理論」の「ツボ」を押さえることになると言う。…しかし私には、この話を聞いて得るものは何もなかった。

 

立岩 他人が自分のことをどう思っていようと、私がどうでもあっていいような私としてそこにいてよい、ということを人が欲しているとすれば、そこから、どんな状態の私でもいていいという社会は、一人一人の能力ないし属性みたいなものと別個に生存が可能である社会であることを必然的に含意するから、そこでは社会的分配が肯定される

「どんな状態の私でもいていいという社会」、これは「どんな人間でも、(この社会に)存在して良いという社会」と言い換えることができるだろう。具体的に言えば、植物人間も、身体障害者も、知的障害者も、テロリストも、独裁者も、カネの亡者も、ナショナリストも、リバタリアンも、コミュニストも、無知蒙昧な人も、粗暴な人も、朝鮮人も、ユダヤ人も、派遣労働者も、ニートも、介護老人も、悪徳医師も、死刑囚も、好戦的な人も、……どんな人間でも、この社会に存在して良い、という考えは、「能力や属性など」とは関係なく、「人間」である限り、存在して良い、という考えだろう。「存在して良い」とは、コミュニティのなかでの存在を認め、コミュニティから排除しないということである。このように見てくれば、「どんな人間でも、(この社会に)存在して良い」という考え(言い方)は、大雑把すぎる。したがって、「そこでは社会的分配が肯定される」も、もう少し詳細を述べなければならないだろう。

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https://medium.com/@KnowledgeisPower/america-we-can-not-uphold-the-system-that-divides-us-1085eb0114a4

 

立岩 ただ、ぼくは無責任な人間なので、次世代の話っていうのはあまり考えたことがなくて、俺が生きている間はなんとか世界がもってくれたらいいや、と本当は思ってるんですね(笑)。

稲葉が、経済学の「重複世代」モデルを持ち出して「次世代」との関係の話をし、それが「立岩理論」の「ツボ」だと解説したのに対して、立岩はこのように応答している。「アハハ、そんなこと考えたこともないや」と軽くあしらっている。

 

以下は、対談後の「補記」である。

立岩 この他者への関係は、私と別にその人がいるというところにある関係だから、むろんその人と私の間にさまざまの差異とともに共通性はあるのだが、それはそれとして、基本的に属性の共有や差異に負荷はかかっていない。その点でこれは、ただの私を生きさせよという要求と共通している。またそれが要求としてある限り、私も、他者も、私の力能と別のところに存在する。存在したらよいということなのだから、私に対する負荷はない。

「負荷がかかっていない」とは、「私と他者」における属性の共有や差異は「重要ではない」あるいは「関係ない」、という意味だろう。また「力能」は、ひっくり返して「能力」と理解する。つまりこの文章は、先ほどの話に出てきた「どんな人間でも、(この社会に)存在して良い」と同じ意味と思われる。

「私に対する負荷はない」というのは、「存在するためには、何かをしなければならない。頑張らなければならない。」ということはない、という意味だろう。

 

立岩 その上で、他者を肯定することと、私が肯定されることとは別のことではある。ただ、私がどのようであっても生きられることを欲することは、他者がどのようであってもその他者を認めることに――いざというときのために互助組織に入っておいた方が得だといった保険の発想を介さずとも――つながるはずである。…

では他者を他者として認めることは、私にどのようにかかわるか。確かに私が他者のことを想っているのではあるが、そのこと自体においては私の存在自体は積極的に意識されていない。ただ、そのときすでに、私は私を肯定しているのだと言える。即ちそこでは、私に服さない私、私にとって不如意であるかもしれない私が肯定されている。

 

障害者あるいは老化していく人たちを念頭に置けば、立岩の言わんとすることはもっともなことである。私が生きたいと欲するならば、他者も同じように生きたいと欲するだろう。そのような他者を認めることは、あたりまえのことである。

ただし、「他者を認める」のは、「私が生きることを欲する」ためだけではないことに留意する必要があろう。状況によっては、「私は死ぬことを欲する」、それでも私は「他者を認める」。

 

いまを生きる

ちょっと関係ないかもしれないが、アメリカ映画、『いまを生きる』(原題: Dead Poets Society、1989年)をとりあげよう。

ある日の授業では、キーティング(英語教師)は突然机の上に立ち、「私はこの机の上に立ち、思い出す。常に物事は別の視点で見なければならないことを! ほら、ここからは世界がまったく違って見える」と話す。生徒も机の上に立たせ、降りようとした際には、「待て、レミングのように降りるんじゃない! そこから周りをきちんと見渡してみろ」と諭す。(wikipedia)

iPad AirのCMがある。

www.youtube.com

ただ魅力的だから、詩を読み書くわけではない。詩を読みそして書くのは、私たちが人類の一員だからである。人類は、情熱に溢れているのだ。医療、司法、ビジネス、工学……生きるために欠くことのできない尊い仕事である。詩や美しさ、ロマンス、愛……私たちの生が求めているものだ。ウィットマンは言った。

「私よ! 人生よ! 繰り返し、思い悩む疑問。どこまでも続く、信仰なき者たちの行列。愚かな者たちで溢れかえる街。これらに一体何の意味があるのだ? 私よ、人生よ。答え:きみがここにいること。命があるということ。そして己があるということ。力強く続く物語に、君も一編の詩を寄せることができる。」

君はどんな詩を?(Mintiano訳)

ウィットマンとは、詩人ウォルト・ホイットマン(Walter “Walt” Whitman、1819-1892)である。

この映画の(低評価の)コメントに次のようなものがあった。

死せる詩人の会[Dead Poets Society]。鬱積した時代の青年たち。今見るとちょっとと思う位、ピュアな倫理観だ。反して、強権すぎる親や教育者たち。映画にはそんな時代背景がある。製作当時、この作品を見た人たちが、今再見したら懐かしいというより、きっと変わった自分と時代に気づくだろう。ニューイングランド・バーモント、夢と理想を語る映画。しかしながら、ロビンが教育者として何者だったのか。彼の夢、その実体は、やはり傲慢な自由主義にも思える。これこそ若さ、純粋さだというにはめんどうしい[恥ずかしい]。(投稿者:いまそのとき、http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=2046#2

私は、この映画を見ていないので、何とも言えないのだが、理想主義か傲慢な自由主義かで迷うかもしれない。傲慢な自由主義は、「私はこの社会に居場所はない」と呟く人を生み出すであろう。