浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

時空を超えたコミュニケーションとしての音楽

岡田暁生『音楽の聴き方』(20) 

ポリーニショパンエチュード集》をどう聴くか

岡田の話を聞く前に、次の曲を聴いてみよう。

Pollini plays Chopin Etude Op.10 No.5 (黒髪エチュード

Pollini plays Chopin Etude Op.25 No.2

(参考)Op.10 No.5の他のピアニストとの聴き比べ

Chopin Etude Op.10 No.5 "Black Keys" by 9 pianists

 

岡田は、Chopin Etude Op.10 No.5(黒鍵エチュード)について、次のように言う。

ショパンが指定しているのは「タン、タタタ、タタタ、タタタ、ターン」、つまり三割のリズムである。それによって、一瞬閃光が煌くような眩暈の効果が生まれる。ところがポリーニはそれを「タン、タタ、タタ、タタ、タタ、タタ、ターン」と二割のリズムに変えてしまっている。まるで威風堂々の行進曲のようである。

Chopin Etude Op.25 No.2については、

これまた本来、「タララ、ラララ、タララ、ラララ」という三割のリズムの曲である。ここからメランコリックに揺らめくような、いかにも「ショパンらしい」アンニュイが生まれてくる。ところがポリーニはここでも、リズムを二割に作り変える。「タラ、ララ、ララ、タラ、ララ、ララ」と弾くのである。ヴェールがかかったようなたゆたいは消え失せ、代わりにここからは、高性能機械の歯車のような唸りが聴こえてくる。

岡田は、前回「音楽についての解釈は…型についての共同体規範を知ったうえで、個々の作品や演奏の意味を解読しなければならない」と言っていた。このような考え方から、ポリーニに対して低評価になるのだろうか。ポリーニは、「一瞬閃光が煌くような眩暈の効果」や「ヴェールがかかったようなたゆたい」を消し去ってしまうというが、これが共同体規範なのだろうか。

 

楽譜片手にポリーニの「間違い」をあげつらうのも、楽譜も見ずその圧倒的なサウンドに驚嘆するのも、どちらも間違ってはいない。但し、片方は150年以上にわたるショパンの受容史の中で形成されてきた規範でそれを聴き、他方は作品にへばりついたイメージをばっさり切り捨てたサウンドに「カッコよさ」を感じているわけだろうから、このままでは議論がすれ違いで終わってしまう。こうした場合やはり、参照点としての「歴史文脈」が有効だ。…もちろん私は、楽譜が明らかに示している作者の意図、あるいは伝統的なショパン受容史共同体ともいうべきものの規範を、絶対視すべきだと主張しているのではない。ある音楽の「本来の」歴史文脈は、常に墨守しなければいけないわけではない。

本節のタイトルは、「ポリーニショパンエチュード集》をどう聴くか」である。そして岡田は、「作者の意図、あるいは伝統的なショパン受容史共同体ともいうべきものの規範」を参照して、ポリーニを低評価している。しかし、ここが大事なところだが、岡田はこのような規範を「絶対視すべき」だと主張しているわけではない。

分かりやすく言えば。「ショパンがどういう意図でこの曲をつくったか、あるいは、これまで(ショパンが)どういう受けとめられ方をしたか考えてみよ」ということになろうか。…法運用にあたり、立法趣旨や解釈判例を考慮せよというのに似て、妥当な主張のように思われる。但し、この点で合意できても、具体的事案で合意できるかどうかは分からない。

価値判断の分かれる問題に関するこのような議論の仕方には一つの落とし穴があるように思う。それは何かというと、「何を基準に考えるか」ということである。岡田の議論では「作者の意図、あるいは伝統的なショパン受容史共同体ともいうべきものの規範」を基準に考えている。この基準が「もっともらしく」かつ豊富な知識があれば、相手をここにひきつけ説得する可能性が高まるだろう。そして他の基準があり得ることを忘れてしまう。…もし岡田の議論に違和感を覚えたら、提示された基準以外に他の基準はないのかと考えてみる必要がある。そこで例えば、「いま・ここに生きている私たちの感性基準」を対置することもできよう。

 

芸術創造の面白さはおそらく、自覚的な脱構築*1[異議申し立て]を意図しているとは思えず、単に歴史文脈に無知なだけと見える場合ですら、時としてそれが別の文脈に接続し、そして新たな文脈が結果として作り出される点にもあるはずである。もしポリーニショパンを批判する人に対して、あくまで批評空間の土俵から外れずに――つまりサウンドの「凄さ」だとか「感動」だとかを持ち出さずにという意味だが――反論するとしたら、私ならば「どれくらい意識してのことかは不明だが、これはショパン演奏を徹底的に脱国籍化するものだ。従来のナショナリズム的なセンチメントの澱(おり)を一掃したという意味で、この演奏は画期的だ」などと言うだろう。…つまり伝統的な作品受容共同体に代わる、それ以後生まれてきた別の集団規範を歴史の中から探し出してきて、そちらの文脈に引き寄せて聴くのだ。…いずれにせよ私たちは、音楽についての生産的な対話をしようと思う限り、常に何らかの歴史的文化的審級[規範、権威]を参照せざるをえない

脱構築と審級という言葉は難しいので、[ ]内にたぶんこういう意味だろうと思うものを追記しておいた。

岡田は「伝統的な作品受容共同体に代わる、それ以後生まれてきた別の集団規範を歴史の中から探し出してきて、そちらの文脈に引き寄せて聴く」と言うが、「別の集団規範」ではなく、「個人規範」(自己の感性)でも良いのではないか。個人規範とはいえ、同時代人の共通感性であるかもしれない。

「歴史的文化的審級を参照する」というのが、「この曲は、どういうふうに受けとめられてきたのか、メジャーな解釈はどういうものであったのかを調べてみる」というほどの意味であるならば、「生産的な対話」にとっては有益だろうが、何か「権威依存」のにおいがする。

 

未知のものとして音楽を聴くということ

歴史的文化的に音楽を聴く……音楽を聴くとき私たちは常に、何らかの歴史/文化文脈の中で聴いている。逆に言えば、背景について全く知らない音楽は、よく分からないことのほうが多い。例えば多くの人にとってポピュラー音楽が「分かりやすい」のは、その文脈が人々にとって身近なものだからだろうし、逆にクラシック音楽雅楽が「難しい」のは、歴史や文化の背景がかなり遠いところにあるからだろう。 

 ポピュラー音楽のほんの一例として、「和楽器バンド/千本桜」をあげよう。(再生回数:6000万回超)

www.youtube.com

 

また雅楽の一例として、「浦安の舞」をあげよう。(再生回数:2万回強)

www.youtube.com

 

「音楽を聴くとき私たちは常に、何らかの歴史/文化文脈の中で聴いている」、それはそうだろう。私たちは「何らかの歴史/文化文脈の中にいる」のだから当然だ。岡田はここで「分かる」とか「難しい」と言うが、そういう「音楽を読む=解釈する」ことの難しさだけではなく、「心に響く音を感受する」という聴き方についてもふれなければならないだろう。…ポピュラー音楽は「分かりやすい」ものなのだろうか。私はそうは思わない。それは(評論家は別として)理解(読解)しようとする対象ではない。「いいね!」の対象だろう。読解しようとすると、ポピュラー音楽であっても、やはり「難しい」。

 

恐らく私たちにとって多くの音楽は「未知の世界からのメッセージ」であり、それを聴くことは「[大海原に流された]ガラス瓶の中の手紙を開封すること」なのだ。「どこから来たのだろう?/誰が書いたのだろう?」――「歴史的文化的な文脈の中で音楽を聴く」とは、この問いの延長線上にある行為にほかならない。

そういう聴き方もあるのかもしれない。しかし私は、音楽を聴いて「どこから来たのだろう?/誰が書いたのだろう?」という問いを発することはない。私はまず、テレビやラジオやネットから流れてくる音楽を聴くとき(というか聴き流しているのだが)、心に響く(心地よいものだけとは限らない。「おや?」と思わせるものも含む)音かどうかが、まず第一にある。そして「もう一度聴いてみたい」と思う曲に出会ったとき、後の検索のために、誰の曲(作曲家、作詞家、歌手、演奏家)か、いつ頃の曲かを気にすることはある。しかし歴史的文化的な文脈で聴くことはない。

 

実際のところ音楽は、たとえどれだけポータブル化されようとも、それが生まれた歴史/文化の文脈から決して完全に切り離すことはできない。…音楽とは特定の文化の中で時間をかけて形成されてきたもの、そこでしか生まれ得ないものであり、つまり常に「どこかから来た音楽」なのだ。…音楽は必ず文脈の中で鳴り響き、私たちは文脈の中でそれを聴く。歴史/文化とは音楽作品を包み込み、その中で音楽が振動するところの、空気のようなものなのである。

「音楽とは特定の文化の中で時間をかけて形成されてきたもの」と言うが、これはよく分からない。原曲(オリジナル)に対する編曲や解釈の歴史はあるかもしれないが、それらをごちゃまぜにして「時間をかけて形成されてきたもの」というのは果たしてどうか。

 

確かに現代の音楽状況をひどく複雑なものにしている、特殊な事情というものもある。それは今日、ある音楽(音楽作品/演奏/ジャンル等々)が時空横断的に、複数の文化文脈に属しているという事実である。例えば、ポリーニショパン演奏にしても、長い受容史の中で形成されてきた楽譜の背後の意味を重視する人もいれば、意味を切り捨てた機能主義的な演奏に熱狂する人もいるし、前衛音楽かコンピュータ・グラフィックのようにショパンが弾かれるのを聴きたいと思う人もいよう。

それぞれが時代上の異なった地点で涵養された、異なる名作/名演の記憶のアーカイブを持ち、違った作法や制度や技法を信奉する、目に見えない共同体を形成している。

「ある音楽(音楽作品/演奏/ジャンル等々)が時空横断的に、複数の文化文脈に属している」というのは、インターネット時代に、YouTubeのような動画共有サイトの出現により、実感されるところである。

 

今の時代にあって何より大切なのは、自分が一体どの歴史/文化の文脈に接続しながら聴いているのかをはっきり自覚すること、そして絶えずそれとは別の文脈で聴く可能性を意識してみることだと、私は考えている。言い換えるなら、「無自覚なままに自分だけの文脈の中で聴かない」ということになるだろう。自分が快適ならば、面白ければそれでいいという聴き方は、やはりつまらない。こうしたことをしている限り、極めて限定された音楽(=自分とたまたま波長が合った音楽)しか楽しむことは出来ない。時空を超えたコミュニケーションとしての音楽の楽しみがなくなってしまう。

音楽を聴く際に、「自分が一体どの歴史/文化の文脈に接続しながら聴いているのかをはっきり自覚すること」と言うが、こんなことはほとんど不可能だろう。「歴史/文化の文脈」を、どのように把握しようというのだろうか。作曲家と遠く離れた場所・時代にある人が、「歴史/文化の文脈」をどのように知ることができるかと言えば、誰か(批評家?歴史家?)が書いた文章を読むことでしかない。しかし、それは「一つの解釈」だろう。それはそれで構わないのだが、そんな「色眼鏡」をかけて聴くことを拒否する立場もあるのではなかろうか。

では作曲家とは離れていない場所・時代にある人は、「歴史/文化の文脈」を把握できるか。これも同様である。それは誰か(批評家?歴史家?)が書いた文章を読むことでしかない。

聴く者がある特定の「歴史/文化の文脈」のなかに生きている、それは聴く者の「音を感受する心」に影響を与えている、ことは言うまでもない。しかしそれを自覚的に(特に言葉で)把握しなければならないということはない。文脈を把握しないことが「自分が快適ならば、面白ければそれでいいという聴き方」であるかのような書きっぷりであるが、決してそんなことはない。「こうしたことをしている限り、極めて限定された音楽(=自分とたまたま波長が合った音楽)しか楽しむことは出来ない」と言うが、決してそんなことはない。「歴史/文化の文脈」とは関係なく、誰かが「この曲いいよ。聴いてみたら」と言うので、聴いてみたら本当に良かった(心に響く)、ということはよくあることである。その曲が「遠く離れた場所・時代」の曲であったとしたら、それは「時空を超えたコミュニケーション」が成立したということではなかろうか。

 

むしろ音楽を、「最初はそれが分からなくて当然」という前提から聴き始めてみる。それは未知の世界からのメッセージだ。すぐには分からなくて当然ではないか。快適な気分にしてもらうことではなく、「これは何を言いたいんだろう?」と問うことの中に意味を見いだす、そういう聴き方を考えてみる。「音楽を聴く」とは、初めのうち分からなかったものが、徐々に身近になってくるところに妙味があると、考えてみるのだ。こうしてみても初めのうちは退屈かもしれない。音楽など自分と波長の合うものだけをピックアップして、それだけを聴いていればいい――それも一つの考え方だろう。だが「徐々に分かってくる」という楽しみを知れば、自分と波長が合うものだけを聴いていることに、そのうち物足りなくなってくるはずである。これはつまり自分がそれまで知らなかった音楽文化を知り、それに参入するということにほかならない。

岡田がここで言わんとすることは「食わず嫌いになりなさんな」ということだろう。それはいいとして、「意味」を見いださなくても、構わないと思う。意味などというと、言葉への変換を必要とする。言葉への変換を要しないというのであれば、「感受」でいいだろう。

 

「異文化に参入する」とは「文化の作法を知る」ということである。たいして根拠もない煩雑な拘束ばかりあるように感じられて、最初のうちは煩わしくて仕方ないかもしれない。…だが初めは理解できずとも、まずはそれに従ってみることによって、徐々にさまざまな陰影が見えてくることもある。それらの背後には何らかの歴史的経緯や人々の大切な記憶がある。このことへのリスペクトを忘れたくはない。「こういうものを育てた文化=人々とは一体どのようなものなのだろう?」と謙虚に問う聴きかたがあってもいい。歴史と文化の遠近法の中で音楽を聴くとは、未知なる他者を知ろうとする営みである。

「歴史的経緯や人々の大切な記憶へのリスペクト」、確かにそれは大切なことだ。但しそれが「文化の作法」を守ることを強調し、「形式的作法」を守ることに堕してしまったら、現代を生きることにはならないだろう。

 

(参考)日本の伝統音楽

日本の伝統音楽には多様なものがある。http://www.geidankyo.or.jp/12kaden/entertainments/index.html

雅楽(ががく)、義太夫節(ぎだゆうぶし)、清元節(きよもとぶし)、小唄(こうた)、古曲(こきょく)、薩摩琵琶(さつまびわ)、三曲(さんきょく)、地歌(じうた)、尺八の音楽(しゃくはちのおんがく)、新内節(しんないぶし)、筝曲(そうきょく)、俗曲(ぞっきょく)、筑前琵琶(ちくぜんびわ)、常磐津節(ときわずぶし)、長唄(ながうた)、端唄(はうた)

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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9d/Kasuga_Gongen_vol2s4.JPG

 

このうち、雅楽については、次のような説明がある。

雅楽は、わが国に古くから伝わる「神楽(かぐら)」などの音楽と舞、5世紀から9世紀に主として中国大陸や朝鮮半島からもたらされた外来の音楽と舞が日本独自に変化し整理された管絃と舞楽、そして平安時代に外国渡来の楽器を伴奏としてつくられた「催馬楽(さいばら)」「朗詠(ろうえい)」と呼ばれる声楽曲の総称です。長く宮中を中心に伝承されおり、現在も宮内庁式部職楽部によって、宮中の儀式、饗宴、園遊会などの行事において雅楽が演奏されています。

なお、文化庁の一般会計予算は、1043億円(H29年)である。

*1:デリダ脱構築の概念は難しいので、ここでは「批評の用語として脱構築という言葉が用いられる際に、デリダの議論が厳密な意味で踏襲されているケースは稀であり、そのほとんどはある概念や物事の見方に対する異議申し立てや問い直しといった程度の意味で用いられている」(星野太、Artwords)と理解しておこう。