浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

記憶

木下清一郎『心の起源』(11)

生得的記憶と獲得的記憶

生得的(先天的)情報には遺伝子が関与しているものとし、獲得的(後天的)情報には遺伝子は関与しないものとすると、前者は天賦の情報であり、後者は経験による情報である。一つは神経回路の内部に発し、行動の実現を目指して外部に向かうが(内発的・遠心的)、もう一つは環境から入って神経回路の内部に記録としてとどまる(外来的・求心的)という違いがある。これらを共に「記憶」の語で括るのには些か無理があるが、次の節で詳しく検討するように互いに関連しているし、本能などの情報は未来へ向けた天賦の記憶と見做せるという意味で、「生得的記憶」といういささか矛盾した呼び名を付けた。

生得的(先天的)情報

遺伝子が関与する

内発的・遠心的:神経回路の内部→行動(環境)

獲得的(後天的)情報

遺伝子は関与しない

外来的・求心的:環境→神経回路の内部

 

生得的であれ経験的であれ、介在神経系に情報が記録されていれば、新しい情報が入ってきたときに、新旧の情報に干渉が起こり得るし、それがまた新しい記憶として刻印されていく。これまで外界の情報がただ流れ去り、消えゆくにまかされていたのに比べれば、情報が内部にとどまって干渉を起こすというのは、まさしく画期的な変化と言わねばならない。いまは仮に「干渉」としか呼べないが、それはやがて情報の「照合」の祖型となっていくはずのものである。

記憶」という言葉を聞いたら、次のイメージ図を思い浮べ、とりあえず「介在神経系(ニューロン)に記録された情報」と理解しておこう。

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http://s-crawfish.kj.yamagata-u.ac.jp/communication%20II/comII04.pdf

 

しかし、神経生理学的には未だ分かっていないことが多すぎる。介在神経の網目のなかに、本能のような情報が生得的にプログラムされるというのは、どういうことであるのか。また環境から後天的に得られる情報が記録として残るということは、いったいどういうことであるのか。本当はこういうところがもっとも肝要で、しかももっとも知りたい部分であるのに未解決であるのは残念なことである。

それでも若干の事実は知られるようになってきた。例えば、ある神経細胞が興奮したことは、その細胞自身の興奮性に影響を残し得るし、興奮が細胞間で伝達されたことは、そのシナプス神経細胞同士の接合部)部分の伝達に影響を残し得るのであるが、このように神経回路に一時的に残される効果が、比較的短期間の記録に対応するのであろうと言われている。また、神経の永続的な循環回路を構築したり、そこに興奮を循環させてある種の共鳴状態においたり、ときにはその神経回路を削除してそれまでそこに残っていた響きを失わせたりといったような、神経回路に後々まで残る効果は、やや長期間にわたる記録と対応するのであろうといわれている。このほかにも様々な可能性が論議されているが、完全な解決までの道はまだ遠いと言わねばならない。ここではこれらの謎を一時棚上げにしたまま考察を先へ進めることにしよう。

どんな学問分野でもそうだが、一般に「教科書」なるものが面白くないのは、ここで赤字にしたような「問い」が立てられていないからだと思う。そして、分からないことは何もふれないか、あいまいなままにしてごまかしてしまう。(多数意見を)「教えてやるから、覚えなさい」という記述スタイルでは、テスト合格のためだけの勉強になる。それは「比較的短期間の記録」にとどまり、「永続的な循環回路を構築」することがない。

本書は2002年の発行であり、その後の研究の進展がどうなっているか、木下の問い(赤字の部分)は解決されているのか、興味あるところであるが、まだそこまでいけない。

 

情報の刻印の進化

介在神経系が発達を遂げたのち、神経回路内に情報が刻印されるようになると、それはまず生得的な情報のプログラムというかたちであらわれる。これが本能である。続いて後天的な情報もこれに重なって関与してくるようになり、それらは刷り込み、条件反射などとしてあらわれてくる。こういう一連の情報処理の発展によって、動物の行動には新しい局面が開かれる。

本能行動、刷り込み、条件反射という三種類の行動を比べてみると、共通したところを残しつつも、次第に変化していることがわかる。即ち、最終的に実現されるはずの行動があらかじめ生得的にプログラムされている点では、いずれの場合も共通しているが、そのプログラムを実現に導く原因となる誘発因子の方は、はじめには生得的・内在的であったものが、次第に獲得的・外来的なものへ変わっている

 

生得的な情報のプログラムというのは、DNAという化学物質で構成された指令書のようなものだろうが、実際にいつ発令されるかは「誘発因子」による。木下は「イトヨ」の例をあげている。

 

本能行動

 トゲウオの一種であるイトヨの成熟した雄が自分の縄張りの中にいるとき、体の下側が赤い(これが成熟したしるし)別の雄個体が入ってくると、これに必ず攻撃を仕掛ける。…動物はあらかじめ生得的にプログラムされた一定の行動パターンを持っており(右の例では攻撃行動)、この行動を誘発するべく生得的に定められている知覚刺激がある(右の例では赤い模様)。その刺激が与えられた時に、これを引き金としてプログラムは実現に向かって動き出し、これが完結されるまでとどまることなく進む。しかし、まずはじめに誘因が与えられない限り、行動はいつまでも実現に向かって動き出すことはなく、ただプログラムとして組み込まれたままで、ひたすら定められた誘因のくるのを待つばかりである。生物学の用語では、プログラムが実現に向けて動き出すことをリリース(解発)といい、その誘因となる刺激の方をリリーサー(解発因子)という。

本能行動のプログラムの内容は生得的にあらかじめ刻印されており、一方このプログラムを実現させる解発刺激の内容もあらかじめ生得的に刻印されているが、これは実際のリリーサーが外界から入ってきて受容されたとき、検索され照合されるべき情報として格納されてあるというかたちになっている。

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http://movspec.mus-nh.city.osaka.jp/ethol/thumbnail/05/0507/momo050707ga01.jpg

 

辞書を見ておこう。

リリーサー(releaser)…解発因とも呼ばれる。動物の生得的な行動を発現させる刺激となるもので,動物の形態,色,発音,におい,動作などのあらゆる特性がリリーサーになりうる。この用語は,動物の行動には内的な動機づけがあり,それが外的な刺激によって解発されるという生得的解発機構の考え方と不可分のものである。具体的な例をいくつかあげれば,多くのガの雌が放散するにおい(性フェロモン)は,雄の配偶行動を促すリリーサーである。雌を求めて飛び回る雄は,このにおいを感ずると発生源に定位し,やがて雌を探し出す。(世界大百科事典)

リリーサーの具体的な話は面白いが、低俗な話になりがちなのでやめておこう。ただし、どういうリリーサーが「生得的に刻印されているのか」は知っておきたいところである。それが「心」をどう考えるかに関わってくるようだ。

 

負の記憶

外海から入ってくる刺激が果たしてリリーサーであるかどうかは、あらかじめ生得的に刻印されているリリーサーの情報を検索し、これと照合することによってまず確かめられ、それが一致したと判定されてはじめて、あらかじめ生得的に刻印されている行動プログラムを解発するように働きかける。

ここでは生得的と経験的という二種類の情報を交錯させたり、相互を接続したりすることが可能になっている。これはまた、内発的・遠心的な情報と外来的・求心的な情報とが、ここで連結されていることをも意味する。

ここで記憶という言葉を使うのはまだ早すぎるが、あえて奇妙な言い方を許してもらうならば、生得的な情報の刻印は「負の記憶」、あるいは「未来の記憶」ということになる。過去に起こったできごとではなく、未来に起こり得べきある事柄を、あらかじめ記憶しているという意味である。神経回路の中には、ことによると使われないでしまうかもしれない記憶が、実際にはまだ何も起こっていないうちに、刻印されているのである。

 繰り返しになるが、赤字にしたところが重要だと思う。…「負の記憶/未来の記憶」とは、うまい言い方をするものだ。