浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

ビッグブラザーがあなたを監視している 1984年より、2+2=5 である

稲葉振一郎立岩真也『所有と国家のゆくえ』(19)

第4章 国家論の禁じ手を破る の続きである。

立岩は、「フーコーは、近代社会がどういう仕掛けでできているのか、どういうふうに仕組まれているかをよく記述している、権力と主体の関係についても、こういうふうな装置が作動すると、こういうふうな主体が形成されるということはうまく書けている」と高評価している。これを受けて、稲葉は、

稲葉 では、フーコーの議論をどう批判するか、という問題に移ります。

と言い、話を始めている。稲葉は、フーコーの事実認定に誤りがあると考えているのか。あるいはフーコーの価値判断に異論を唱えようとしているのか、話を聞いてみよう。

 

その前に、西研の「生-権力」の解説をみておこう。

生-権力…フランスのポストモダンの哲学者フーコーの用語。近代以前の権力は、ルールに従わなければ殺す(従うならば放っておく)というものだったが、近代の権力は、人々の生にむしろ積極的に介入しそれを管理し方向付けようとする。こうした特徴をもつ近代の権力を「生-権力」とフーコーは呼ぶ。具体的には2つの現れ方があり、1つは個々人の身体に働きかけて、それを規律正しく従順なものへ調教しようとする面である。学校や軍隊において働くこの種の権力は「規律権力」とも呼ばれる。もう1つは、統計的な調査等々にもとづいて住民の全体に働きかけ、健康や人口を全体として管理しようとする面である。こうしたフーコーの権力論は、近代になって個々人の自由が広く認められるようになったという一般的なイメージを覆し、近代を個々人を巧妙に支配管理する権力技術が発達してきた時代として捉えるものだった。またこれは、政治権力を奪取しさえすれば理想社会が到来すると見なす、マルクス主義的な権力観に対する根底的な批判でもあったフーコーの権力論は、いまも社会学や社会運動に大きな影響を与えつづけているが、他方で、権力の正当性の基準を欠き、どういう法律や政策ならば正しいかを決定しえないという批判もある。(西研、2007年、知恵蔵)

極めて簡潔に、フーコーの権力論をまとめている文章に思える。フーコー権力論のキーワードは「生-権力」(調教と管理)であるようだ。

 

2足す2は5である(2+2=5、Two plus two makes five)

f:id:shoyo3:20170716173412j:plain

https://tardislock.files.wordpress.com/2015/02/9-1984.jpg

 

 稲葉は、次のように述べる。

稲葉 「権力」という概念を使う時に、そこには「権力者」の概念は必要不可欠なものではない、と認識することには、ある種の神話崩しというか異化、相対化の効果がある。権力者を権力にとって不可欠なものとして自明視してしまうと、権力というものが過剰に一貫して(ある限定された意味で)合理的なもの――デザインされ、意図的に動かされているもの――として思い描かれる、あるいは権力者が神のようにイメージされてしまう、というところがある。

稲葉がここで言う「権力者」とは、近代以前の「国王」や「専制君主」の意味だろうか。近代以後においては、このような権力者を、「権力にとって不可欠なものとして自明視してしまう」者はいないだろう。では「強力な指導力を発揮する政治家(独裁者)」を「権力者」とみなしているのだろうか。この意味であれば、稲葉の話も何となく理解できるような気もする。

このような「強力な指導力を発揮する政治家(独裁者)」を、(神のように崇拝し)その言動を「合理的なもの」として思い描くという話なら、ありそうな話である。

 

稲葉 「権力の効果を受けている人々が、その欲望や価値観までもが権力によって作られている」などと言ったときに、権力の焦点、力の発する原点みたいなところに権力者がいて、権力の行使に対して責任を負っている、というふうにイメージしてしまうと、まさにその権力者の意図で人々がイデオロギー的に誘導されたり、先導されたり、価値観までもが形作られているかのように思ってしまう。それをまずは追い出す。「権力者」と呼べるような特定の誰かがいたとしても、そいつは状況を創造し支配している神ではない、と追い出す。いなければなおのこと、状況を合理的意図的に配置して設計するやつはいない、ただ単に力の流れとして権力というのがあって、その結果、こういう価値観や思いや欲望を抱いている人間が生まれてきてしまうと描いていくことができる。

稲葉はここでフーコーを批判しているのだろうか。

先ほどの西研の解説を思い起こそう。「生-権力」(調教と管理)がキーワードであった。これは「人々の欲望や価値観」までもが「権力によって作られる」ことを指摘するものであろう。具体的には、学校、家庭、会社、役所、マスコミ、自治会、同好会、病院等々により、「人々の欲望や価値観」が作られることが多いだろう。これらをすべて「近代の権力」と称するのは語弊があるかもしれないが…。フーコーは、「近代が生み出した軍隊、監獄、学校、工場、病院は、規則を内面化した従順な身体を造り出す装置として同一の原理に基づいていることを指摘した」(Wikipedia)

稲葉は、「権力者の意図で人々がイデオロギー的に誘導されたり、先導されたり、価値観までもが形作られているかのように思ってしまう。それをまずは追い出す」と言う。言い換えれば、「権力者の意図で人々がイデオロギー的に誘導されたり、先導されたり、価値観までもが形作られることはない」と主張しているようである。ならば「人々の欲望や価値観」はどのようにして作られるのか。

稲葉は「ただ単に力の流れとして権力というのがあって、その結果、こういう価値観や思いや欲望を抱いている人間が生まれてきてしまう」と言う。これはどういう意味なのか、全く分からない。また「こういう価値観や~」の「こういう」とは「どういう価値観」のことを想定しているのかも分からない。「私は金持ちになりたい」とか「私は有名になりたい」とか「私は死にたい」とか、こういう思いや欲望は、「ただ単なる力の流れとしての権力」があることによって生まれてくる???

 

稲葉 そうするならば、人々が権力の作動の結果、ある価値観を抱きながらも、そういう自分の価値観に照らして現にある――まさに自分の価値観を作った――権力のありようを不愉快に感じたり、何とかしたいと思ったりすることは別におかしくはない。おかしいと感じるのは、それは「人々がこういう欲望や価値観を抱くのは、合理的な神さまのような権力者が設計したからだ」と思うからである。人々はあらかじめ社会の枠の中にはめられた価値観や欲望しかもてないと思うのは、冷静に考えたらおかしいんだけれども、そう考えてしまう理由は、権力者を権力の中心に置いてしまい、権力者を神のようなデザイナーに表象してしまうからそうなる。

この文章は分かりづらい。補足してみよう(誤解しているかもしれないが)。

私稲葉が、おかしいと感じるのは、それは「人々がこういう欲望や価値観を抱くのは、合理的な神さまのような権力者が設計したからだ」と、権力のありようを不愉快に感じたり、何とかしたいと思ったりする人が、考えてしまうことである。 

 この補足が正しいとすれば、私が疑問に思うのは、「権力のありようを不愉快に感じたり、何とかしたいと思ったりする人」が、「人々がこういう欲望や価値観を抱くのは、合理的な神さまのような権力者が設計したからだ」と考えるだろうか、ということである。稲葉は「マルクス主義者」を想定して、このようなことを言っているのではないかと推測するが、いまどきこのようなことを考えている「マルクス主義者」がいるだろうか。

私は、「権力(政治や社会)のありようを不愉快に感じたり、何とかしたいと思ったりする人」がどういう人かというと、「私は金持ちになりたい」とか「私は有名になりたい」とか「私は死にたい」とか思っている人が大部分ではないかと想像しているのだが、そのような人が「人々がこういう欲望や価値観を抱くのは、合理的な神さまのような権力者が設計したからだ」と思っているとは考えられない。そんな実証研究はないから、何とでも言えるのかもしれないが。

上述の人以外にも「現在の権力(政治や社会)のありようを不愉快に感じたり、何とかしたいと思ったりする人」は、数多いだろう。現在の政策や法律やルールや仕組みを改変し、よりよいものにしようと努力している人は数多いだろう。しかし、これらの人々が、「人々がこういう欲望や価値観を抱くのは、合理的な神さまのような権力者が設計したからだ」と思っているとは考えられない。

 

稲葉 しかし実際には、権力者はいたとしても神ではないし、しばしばいない。権力は、権力にとって都合のいいものだけ作るのではなく、ただ単に事実として成り立っている。ただ、定常的に再生産されていくことに成功した権力配置においては、人々が不満を持たなかったり、その問題性に気づかなくなり、権力によってその存続に都合が良い感性や価値観や欲望が生み出され続けている、というようなことがありうる。だけどそれは可能性の問題であって、必然的なことじゃない。

「権力者~しばしばいない」とは、どういう意味か。「権力は、権力にとって都合のいいものだけ作るのではなく~」というが、「権力は、権力にとって都合の悪いものを作ることもある」という意味か。「ただ、定常的に再生産されていくことに成功した権力配置」とはどういう意味か。「その問題性に気づかなくなり」というが、どのような問題性なのか。

「権力によってその存続に都合が良い感性や価値観や欲望が生み出され続けている、というようなことがありうる。だけどそれは可能性の問題であって、必然的なことじゃない。」と言うが、ならば「事実はどうなのか」と問うべきだろう。フーコーは事実として、「権力によってその存続に都合が良い感性や価値観や欲望が生み出され続けている」と言ったのではないか。「それは可能性の問題であって、必然的なことじゃない」というのは、フーコーに対する反論にはなっていない。「事実は違う」というように反論しなければならないだろう。「それは可能性の問題であって、必然的なことじゃない」という言い方は、「現実には、そんなことは起こっていない」という含みがある。

 

稲葉 現実問題として既存の社会秩序に不満を持つような人々が大量生産されてしまうこともあり、そういうような人々が増えたら既存の秩序を変革しようとする。とくに自分を生みだした社会の配置に対して「おかしい」と思うことは事実問題として当然ありうるし、自分に価値観を与えた社会に反抗することを「恩知らず」とか、「規範的に不整合だ」とか責める必要はない。そういうふうにしてフーコーの隘路は突破される。

続けて稲葉はこのように言う。「~事実問題として当然ありうる」というのは可能性の話である。そのように考えるなら、事実を究明しようと思わないのだろうか。また「自分に価値観を与えた社会に反抗することを~責める必要はない」と言うが、それは「事実としてあるならば」という条件付きである。なお、先ほど「その権力者の意図で人々がイデオロギー的に誘導されたり、先導されたり、価値観までもが形作られているかのように思ってしまう」そのような考えを「追い出せ」と言っていた。

「そういうふうにしてフーコーの隘路は突破される」と言うが、フーコーの隘路[隘路とは、物事を進める上で妨げとなるものや条件]とは何か。「そういうふうにして」と言うが「どういうふうにして」なのだろうか。

(学者同士の)仲間うちの議論ならまだしも、一般読者に公開しようというなら、もっと「丁寧に説明」してほしいものである。

 

稲葉 問題はそう考えたときに、国家のイメージがどう変わるかということだが、国家はある種、洗練された権力配置で、なおかつどうしても人が人格的にイメージしてしまうような権力配置である。

国家が、「洗練された権力配置」であるとはどういう意味だろうか。何か独自の国家観があるのだろうか。

 

立岩 あの人[フーコー]は、一つの力が単一に働いて隙間なく覆っているイメージを否定したわけで、実際否定されてよい。いろんな力が働いていて、そしていろんな局所にそれに伴う摩擦や齟齬や抵抗もまた当然に起こる。権力が遍在すると、そこに抵抗や摩擦がなくなるなんて話には一切ならない。フーコーが出てきたときに、どん詰まりじゃないかという批判があったけれど、ここでも、批判そのものが間違っていたと言う話はできる。

これは稲葉の「権力者」論にたいする批判のように聞こえる。

 

立岩 ただ、どこまで力が散乱し分散していて働いているか、これは一概に言えない。力が一つに収斂しないということは言えたとして、しかし、大きくは一まとまり、まとめることができるような力が働いていると言えることはかなりあるのだろうと思うし、フーコーが実際に記述する歴史、社会は、むしろそんな感じの歴史、社会だと思う。「生-権力」ってずいぶんすっきりしたものである。そしてその見立てにもぼくは同意する。ぼくは近代と言う社会にそれなりの筋は通っていると思い、それを相手にしてものを書いてきた。…その筋というのは、複数の異質の、ときに背反する部分もあるような諸戦略が組み合わさって束になっているようなものだったりする。例えば、生得説と環境説とが対立しながら、共犯関係にあるような場面があるといった具合に。

「生-権力」については、冒頭の西研の解説参照。「複数の異質の、ときに背反する部分もあるような諸戦略が組み合わさって束になっているようなもの」というのは、抽象的過ぎてよく分からない。「生得説と環境説」とは何だろうか。

 

稲葉 だから国家と権力は、同一視することはできない。できないとしても、人が国家と権力を語る時のレトリックにはある種の並行性があった。そもそも国家ってものは、神秘的な大きな主体としてあった。それを「悪魔祓い」して、「単なる道具だ」といってその素性を解除しようとした努力として、社会契約論などのリベラルな国家論があるし、マルクス主義の階級国家論もあった。しかしそれがいきすぎて、人が往々にして国家や権力を実体視せざるを得ないように事実できてしまっているのを否定しつくそうとすると、またバランスを失してしまう。だから国家というのは単一な実体ではなくて、さまざまな制度とか権力なりの寄せ集めであって、具体的に見ていけば、道具であったりなかったり、自然環境のようなものであったりするんだけれども、人が人格的に扱ってしまうということもないわけではない。

国家とは、

国家とは、国境線で区切られた領土に成立する政治組織で、地域に居住する人々に対して統治機構を備えるものである。領域人民に対して排他的な統治権を有する政治団体もしくは政治的共同体である。 政治機能により異なる利害を調整し、社会の秩序と安定を維持していくことを目的にし、社会の組織化をする。(wikipedia)

一般に,一定の領土と国民と排他的な統治組織とをもつ政治共同体をいい,また一定の地域 (領土) を基礎に固有の統治権によって統治される継続的な公組織的共同社会ともいうことができる。…。国家の起源に関する主張には,イデオロギーとしての意味をもつものと,その歴史的説明とがある。前者には神権説や社会契約説が,後者には征服説,搾取説,原始存在説などがある。(ブリタニカ国際大百科事典) 

 稲葉が「国家というのは単一な実体ではなくて、さまざまな制度とか権力なりの寄せ集めであって、具体的に見ていけば、道具であったりなかったり、自然環境のようなものであったりする」と言うのはいいとして、「人が人格的に扱ってしまうということもないわけではない」と言うのはどうだろうか。「お国のために」という軍国主義なら、国家を人格的に扱っているのかもしないが、現代ではそんな人は稀有な存在だろう。*1

 

立岩 ぼくの人格に欠陥があるのかもしれないけれど、国家を人格として想定することがぼく自身にはない。国家主体って人が思っちゃうよね、ということに対するセンスが欠けているのかもしれない。そういうふうにしばしば想定され、そのようにして存在することを否定するのではないが。なぜそう思うのかは、そんな実感があり、そういうセンスに長けている人が言ってくれればいいのかなと思う。

立岩は、実にうまい応答をしていると思う。

 

立岩 ぼくは国家は何するのという話は、現実の国家を説明するための道具というよりは、仮想というか、こういうふうにも国家というのはありうるんじゃないのかを言ってみようとしていて、そうするとそれは、いま現にある国家とか、われわれが国家と思っているものと違っている。そうするとその差分が出てくる。今度はその差分が説明の対象になってくる。あくまである見方だけれども、ある見方からすれば、この程度のものでしかないはずなのに、現実にはこうなっている、その差がどこから出てきているのだろうという問いは、分析的に立つ。答えにも具体性が出てくる。だから、国家、強制力がどこで働くのかとぼくが問うときには、さしあたり現にある国家、われわれが生きている国家そのものの存立を説明しようということにはダイレクトには結びつかない。むしろそうじゃないものを一方に仮想する。するとそこに現れる現実とのその差分を説明したい人は説明することができるということである。

一定の領土と国民と排他的な統治組織とをもつ政治共同体」としての国家は、どのようにあるのが望ましいのかを構想し、現実の国家との差分を分析するというのは、学説の解釈論争をするよりは、有意義なものであるだろう。

 

立岩 自分の路線としては、国家はなくてもいいという話はしないし、あんまりしないほうがいいと思っていて、それは「分配する最小国家」みたいなものになってしまうんだけれど、そっちのほうがいいな、という気持ちである。それをいったん言った上で、でもこれも足さなくてはいけないじゃない、みたいな話になるかもしれなくて、その可能性は否定しない。ある程度大きくなってしまうだろうと思う。それがどこまで着ぶくれせざるをえないのか、ということをぼちぼち考えていきたい、というのがぼくの国家についての議論の構想というかもっていきたい方向である。

「国家」を考えるということはどういうことであるか。まずは「領土」と「人民」と「統治」を考えることである(他にも多々あるだろうが)。グローバルな視点で、それぞれ具体的に考えていかなければ、よりよき社会は実現しない。

 

(追記)

稲葉が、「「権力」という概念を使う時に、そこには「権力者」の概念は必要不可欠なものではない」と言うとき、「ビッグブラザー(独裁者)が、国民(人民)を監視している」というフレーズを思い出した。

*1:国家を人格的に扱うのではないが、軍需産業に群がる軍国主義者は、稀有な存在とは言えないようだ。