浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

自然主義的誤謬 女性は第1子を出産したら、退職すべきである?

伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(17)

今回は、「妥当でない価値的推論」としての「自然主義的誤謬」と「自然さからの議論」である。ただし、倫理的概念としての「自然主義的誤謬」の専門的な議論にはふれないでおこう。

自然主義的誤謬

倫理とは、定義により今の社会における決め事なのだから、決め事に従うのがとりもなおさず倫理的であり、それ以上の議論など必要ない、と考える人もいるだろう。しかし、もしこれが「倫理」という言葉の定義によってそうなる、という議論であるならば、「自然主義的誤謬」を犯していることになる。

自然主義的誤謬とは、ムーアという倫理学者の導入した考えで、倫理的概念を事実で定義するという過ちである。「人々がその規範を受け入れている」というのは、社会的事実についての事実主張で、そのことと「その規範が正しい」という価値主張は、等値ではない。

 伊勢田は、奴隷制度の例をあげている。奴隷制度を容認する規範を人々が受け入れているからと言って、奴隷制度を容認する規範が正しいということにはならない。…この説明は分かりやすい。他の説明もみてみよう。

 

①私達はこれまでずっとこの土地で協力し合って暮らしてきた。だからこれからもそうするべきだ。

②Aさんはホットケーキが好きだ。だからホットケーキを食べさせてあげるべきだ。

この発言は、記述文(「XはYである」という形式の文)の前提から規範文(「XはYすべきである」という形式の文)の結論を導いている。このような形式の推論を「自然主義の誤謬」(自然主義的誤謬)と呼ぶ。この推論はあらゆる場合に間違い(偽)というわけではないが、あらゆる場合に正しい(真)わけでもなく、この種の論法が論理的な推論法としてもし有効であるなら、あらゆる改革や変更は許容されなくなる。この発言は「人類は多くの戦争と殺戮を繰り返してきた。だからこれからもそうするべきだ」という主張と論理構造が等しい。「である」という観察事実から「べきである」という指針を引き出すことはできないとの主張はヒュームの法則という。(wikipedia

上記①②のような主張は、ありそうな例である。ただし、「~すべきだ」というような直接的な言い方をしないで、「そうしたほうがいいと思うよ」とか、「食べさせてあげようよ」というような言い方になる。

事実判断から価値判断を導き出せないという例としてはいいかもしれないが、現実問題としては、誰も(普通の思考力があれば)事実判断から価値判断を導き出していないのではないかと思われる。例②について言えば、Aさんがホットケーキが好きだったとしても、いま現在食べたいと思っているかは聞いてみなければ分からない。また食べたいと思っていても、ダイエット中で控えているかもしれない。こんなことは普通の社会生活を送っていれば、(事実判断や価値判断の言葉を知らなくても)誰でも分かる。例①について言えば、慣習Aを廃止するか否かについて議論している場合、「これまでずっとこの土地で協力し合って暮らしてきたから」というのは、慣習Aの廃止論者に反論する根拠にはなりえないのは、普通の社会生活を送っていれば誰でも分かる。

従って事実判断から価値判断を導いているようにみえて、実は隠された価値前提に基づいて価値判断をしているのであり、それが話し合い(議論)で明らかになることによって、合意が可能になると言えるだろう。

 

自然さからの議論

自然主義的誤謬」は、もう一つ別のタイプの議論、すなわち「自然さからの議論」と混同されていることが多い。両者は確かに重なる場合も多いのだが、本質としては別物である。「Xという行為は自然なので、やってよい」「Xという行為は不自然なので、やってはならない」といったような議論が自然さからの議論である。…ここでいう「自然」というのは「みんながいつもやってきたことなので違和感がない」、あるいは「人間の体の仕組みが生物学的にそうなっている」というくらいの意味であろうか。もしこれが、「違和感がない」とか「生物学的にそうなっている」という事実で善が定義できる、という趣旨の議論であるならば、これはまさに自然主義的誤謬である。しかし、「違和感がないからやってよい」とか「生物学的にそうなっている」というのは別に定義ととらえる必要はなく、実質的な道徳的主張かもしれない。その場合にはこれは自然主義的誤謬ではなく、別のタイプの反論が必要になってくる。

「自然さ」からの議論は、「事実」から価値判断するのではなく、「自然だ」から価値判断するものである。

ここで一つ例をあげよう。「クーリッジ効果」という生物学・心理学用語がある。

哺乳類のオスが、新しい受容可能な性的パートナーと出会うと性的欲求を回復させる現象を指し、これは既に馴染みの性的パートナーとの性交渉が絶えた後にも起こる。行動神経内分泌学者のフランク・A・ビーチが1955年に著書で言及したのが初出であり、彼の学生のうちの一人が心理学の研究会でこの言葉を提案してくれたのだという。彼はこの新語の元ネタを以下に求めている。

カルビン・クーリッジが大統領だった時の古い小噺がある … 大統領とその夫人が(別々に)官営の実験農場を見学した。夫人は鶏舎に来て、雄鶏が何度も盛んに雌鶏とつがっているのを見た。夫人は随行員にその頻度を尋ねたところ「毎日、何十回とです」と聞かされ、「主人にその話をしてやってちょうだい」と言い置いた。さて大統領はその話を聞かされて尋ねた。「毎回同じ雌鶏とかい?」「ああ違います、大統領。毎回違う雌鶏とです」「家内にその話をしてやってくれ」(Wikipedia)

 

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クーリッジ効果は、新しい受容可能な性的パートナーと出会うと、ドーパミンの分泌が増加し、動物の大脳辺縁系に作用することで引き起こされるらしい。

ドーパミンとは、外部から受けた刺激を神経細胞ニューロン)に伝える神経伝達物質です。アドレナリンやノルアドレナリンになる前段階の物質で、快楽や意欲、多幸感といった感情に深く関わりがあります。ドーパミンセロトニンノルアドレナリンとともに「三大神経伝達物質」と表現され、感情や精神のコントロール、記憶や運動、睡眠など人間の体内の重要な機能に深く関わっています。快楽や多幸感をもたらすドーパミンと不快感や恐怖をもたらすノルアドレナリン、そしてこの2つ神経伝達物質の分泌をコントロールし、落ち着きと満足感をもたらすセロトニン。三大神経伝達物質のバランスを保つことで心身のバランスが保たれます。(https://lady-2.jp/dopamine-increase

大脳辺縁系…ここを刺激すると,体性運動系および自律系に広い範囲の影響がみられ,また食欲,性欲に伴う摂食行動,性行動,集団行動などが起る。(百科事典マイペディア)

男性優位の職場で、若い女性が歓迎されるのは、クーリッジ効果で説明できる。男性社員のドーパミンの分泌が増加し、「職場が活性化する」のである。そこでは「仕事の能力」ではなく、「存在そのもの」が職場を活性化する。しかし一定年齢を過ぎれば、仕事はできるようになるかもしれないが、男性化が進行し、職場全体としては果たしてどうかということになる。それゆえ、一定年齢を過ぎたら(あるいは出産を機に)退職するという雰囲気(慣行)を作り、新陳代謝を図るのである。つまり「男性とは、こういうものである」(生物学的根拠がある)から、「男女雇用機会均等法を遵守しつつ、かかる人事政策を採用すべきである」ということになる。

以上、私はできるだけ合理的に「~である」から「~べきである」を導いてみた。これが、「自然主義的誤謬」か「自然さからの議論」か、どちらでもよい。上述の論理に反論することは、頭の体操になるだろう。