浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

刷り込み(1) 空白の記憶

木下清一郎『心の起源』(12)

いま検討しているのは、神経回路内の「情報の刻印の進化」である。木下はこれを、「本能、刷り込み、条件反射」という3つの行動に着目して説明している。今回は2番目の「刷り込み」である。まず事例から(たぶん、どこかで聞いた話だと思うが)。

刷り込み

サケには母川(ぼせん)回帰という行動がある。サケは海へ下って成長した後に再び産卵と授精のために川に戻るが、その時には必ず母川を探し当てて遡行してくる。これは幼魚の時期に母川の水の匂いが刷り込まれており、これに惹かれて自分の生まれた川へ遡行してくるのであるという。もし、幼魚を別の川へ放流すれば、放流された川へ遡行してくる。つまり、母川へ遡行してくるための刺激は生得的ではなく、後天的に刻印されていることになる。

また、ハイイロガンについてはローレンツの有名な実験がある。ハイイロガンは孵化後の早い時期にたまたま目にしたものの後を追う。普通にはそれは親であるのだが、もしそれが人間など他の動物であったり、極端な場合には単なる物体であっても、その後につき従う。これも何かの後を追うという本能行動を解発する刺激が、後天的に刻印されている例である。

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この話のポイントは、「本能行動を解発する刺激が、後天的に刻印されている」という点にある。アンダーラインを引いた刺激が、後天的に刻印されているということである。

刷り込み行動では、動物は予め生得的にプログラムされた行動パターンを持ってはいるが、これを解発する誘因となる刺激は生得的には与えられていない。その代り、外来の刺激が受け入れられてリリーサーの役目を担うことになる。つまり、リリーサーは後天的に獲得されるのである。但し、獲得が可能であるのは幼児のある時期に限られている。

本能行動を解発する刺激(リリーサー)は、後天的に獲得されるが、それは「幼児のある時期に限られている」というところに留意しておきたい。

 

負の記憶から空白の記憶へ

これらの例を先に検討した単純な本能行動と比較してみると、本能行動では特定のリリーサーが予め生得的に決められていたのに対して、刷り込みではリリーサーの枠が空白のままに残されていて、後天的に与えられたものがそのまま空白の枠に納まるという特徴を持っている。先の場合が「負の記憶」であるならば、今度の場合は「空白の記憶」ということになろう。空白とは、そこに何事かが書き込まれるようになっており、それを何の目的に使うかまでは生得的に定められているが、書き込まれる内容についてはまだ定められていないという意味である。しかし、生得的・内在的な情報が組み込まれていた領域を、なぜ進化の途中でいったん空白にすることができたのか、そこへ代わりに経験的・外来的な情報をはめ込むなどということがどうして可能になったのか、その理由はまだよくわかっていない。

本能行動では特定のリリーサー(解発因)が予め生得的に決められているが、刷り込みでは特定のリリーサー(解発因)が予め生得的に決められていない。「負の記憶」とか「空白の記憶」とかは言葉としては面白いが、別に覚えていなくても良いだろう。

「生得的・内在的な情報が組み込まれていた領域に、経験的・外来的な情報をはめ込むなどということがどうして可能になったのか」、その理由を「進化」とか「環境適応」とかで分かったような気になるのではなく、「その理由はまだよくわかっていない」として探求する。科学的に分かるとはどういうことかに関わる話だが、「進化」とか「環境適応」とかで分かったような気にならないことが大事だろう。(社会科学の諸概念についても同様である。安易に分からないこと。「なぜ」と「問い」を提出すること。)

 

幼児のある時期の情報が神経系に刻印され、それが成長した後の行動に影響を与えるのであるから、ここで刻印された情報は一見したところすでに「正の記憶」となったかにみえるが、この情報はもはや他の情報に置き換えることは出来なくなっている。つまり、刻印は不可逆的であって、いったん刻印されると固定されてしまう。刻印が可塑的でないという点では、先に見た単純な本能行動とまだ同じであって、これはやはり「負の記憶」と「正の記憶」との中間にある「空白の記憶」とよぶのが適当であろう。

幼児とは何歳までのことをいうのか、100%不可逆的な刻印なのか、成長した後の行動にどの程度影響を与えるのか、他の要因をどう考えるのか、というような詳細を検討しなければならないとしても、「幼児のある時期の情報が神経系に刻印され、それが成長した後の行動に影響を与える」というのは、直観的に「そうだろうね」と思わせる。