気の向くままに

井蛙は以って海を語るべからず、夏虫は以て冰を語るべからず、曲士は以て道を語るべからず

各人は自由に自らの幸福を追求できる ???

平野・亀本・服部『法哲学』(35) 

いま読んでいる箇所は、第4章 法と正義の基本問題 第5節 共同体と関係性 である。

平野は、共同体論者の言う「自由社会の病弊」を紹介した後、次のように書いていた。

このような自由社会の病弊は、共同体論によれば、他でもない平等な自由を保障する自由主義的な法秩序の一つの帰結なのであり、その根本原因は、そうした秩序を支える自由主義的な正義の理論によるところが大きいとして、それが批判される。正と善の区別、「負荷なき自我」の観念、関係性の欠如という3つの点について、批判論の要旨をみておきたい。

今回は、3番目の「関係性の欠如」である。例からみていこう。

表現の自由は、表現内容にかかわらず、権利として広い範囲で保障されなければならない。…差別的な言論[ヘイトスピーチ]が問題になる場合においても、権利[表現の自由]を権利として保障することが本当に適切であると言えるのかが問われる。…共同体論によれば、そのような場合に重要であるのは、自由な表現行為とその行為(つまり差別的表現)が対象としている相手方との関係を考慮する必要があるという。表現の対象とされている人々が差別的表現によってどれほど傷つくか、それを社会がどの程度重要な問題として受け止めるか、が重要である。そうした関係性にかかわる実質的な考量を抜きに、権利[表現の自由等]を権利として保障しなければならないとするのは問題が多いというわけである。 

 自由主義者はどう考えるのか。

自由主義的正義の理論は、正の原理が権利を記述し、前提となる人格概念が「負荷」のない自我であるから、基本的に権利基底的理論であるという性格をもつ。権利は個別化された政治的目的として相当の重みを持ち、安易に公共的な利益との比較衡量に付されてはならない。したがって、多くの場合には権利が権利として優先されるということになる。 

 

こも表現は難しいが、これまで平野が述べてきたことからすれば、次のような意味だろう。

  • 自由主義者は、「個人の善(幸福)の最大化」が「正しいこと」であるとする。
  • 自由主義者は、共同体(コミュニティ)における責務を負わされることのない、つまり何ものにも拘束されず、自由に行動が選択できる主体を前提する。(その行動は、個人の善(幸福)の最大化を目的とする)
  • それゆえ、共同体(コミュニティ)における責務に関係した「公共的な利益」ではなく、個人の自由の権利が、権利として優先される。(このような権利[自由権]を基礎とした理論が、権利基底的理論である)

 

では、このような自由主義者の立場からは、ヘイトスピーチはどのように考えられるだろうか。「表現の自由」を最大限に尊重しようとすれば、「表現内容の如何にかかわらず」、つまりヘイトスピーチであろうが、何であろうが、表現の自由は尊重されなければならない。韓国(朝鮮)、中国、ロシアに対するヘイトスピーチは、「表現の自由」として尊重されなければならない、規制すべきではない。

しかしヘイトスピーチは、表現者の単独の行為ではない。韓国(朝鮮)人、中国人、ロシア人といった相手のいる行為である。そういった相手のことを考えないで(あるいは、相手を排除すべきものとして考えて)、行動することが、すべて「表現の自由」の名のもとに許されるとすることは、共同体論者いわく「関係性の欠如」である。私は、そんな難しい言葉を使わなくても、「相手のことを考えない利己主義者」と言っておけばよいのではないかと思う。

 

ところでリバタリアンでなくても、「表現の自由」尊重の立場から、ヘイトスピーチ規制に反対する弁護士がいる(表現の自由 二枚舌 角を矯めて牛を殺す 参照)。

  • 表現行為は、個人の自己実現であると共に、民主主義の前提である
  • 近時、特定秘密保護法をはじめとして、表現の自由に対する規制が強まっている。
  • 表現の自由に対する規制根拠(法令)を作った場合、それを拡大解釈して取り締まりが横行することにより、表現の萎縮効果が起こる危険性がある。(ヘイトスピーチの定義は、抽象的で曖昧不明確なものとなるので、拡大解釈される)

この危惧は理解できる。但し、これはヘイトスピーチを放置しておいて良いというものではなく、既存の法で対処できるので、「新たな法規制」は必要ないというものである。私は専門家ではないので、既存の法で対処できるのかどうか分からないが、既存の法で対処できなかったり不十分であれば、角を矯めて牛を殺さないよう留意しながら、法規制すべきものであろう。

リバタリアンは、「アメリカ」や「自由主義信奉者」に対するヘイトスピーチを、「表現の自由」を理由に認めるだろうか。認めるなら首尾一貫しているが、「異なる基準」を持ち出して認めないならば、これは二枚舌(二重基準)となる。

 

報道の自由に対する規制や特定秘密保護法については、いずれ詳しく考えてみたいと思うが、自由主義者」なら、報道の自由に対する規制を行ったり、特定秘密保護法を制定したりしないのが本来であろう。

しかし現実には、法制定に関わる者に、上述のような、「本来の(極端な)自由主義者」はいないはずである。とすれば、「表現の自由」「報道の自由」等に対して、「公共の利益」を考慮に入れた法規制は可能であり、議論は成り立つと考えたい。

 

自由主義共同体主義 (1) (後日再検討)

平野は、以下のように、自由主義共同体主義の主張をまとめている。「自由主義」とは、何であるのかよく理解しておきたい。

1.秩序原理

共同体論が主張するのは、善と区別される正の秩序ではなく、共同善の秩序であり、中立的に規定された権利ではなく、関係性を視野に入れた実質的な考慮に基づいた秩序づけである。

自由主義は、善と区別される正の秩序を主張する。これは、「善に対する正の優越」(the priority of the right over the good)という標語であらわされる。(共同体論(2) 共同体論者の自由主義(リベラリズム)批判 参照)

これは、自由主義の中心的な考え方である。

  1. 各人はそれぞれが善き生について自分なりの意見[善の構想]を持っている。
  2. 自由主義は、善の構想の複数性(多元性)を認める。
  3. 各人は、他人の自由を侵害しないかぎり、自分の善の構想[幸福]を追求することができる。
  4. 社会的正義は、ある一定の善の構想に依存しない。[他人に善の構想を強制されることはない]

(児玉聡、https://plaza.umin.ac.jp/kodama/ethics/wordbook/priority.html による)

この1~4の主張を、「善に対する正の優越」と言い、自由主義の中心的な考え方であると言われると、説得される人が多いのではないかと思う。誰でも、他人から指図されたり強制されたくはないので、「自由に、自分の望むように生きればよい」と言われると、自由主義を信奉するようになる。しかも現実には、指図されたり強制されることも多いので、ますます「自由」を叫ぶことになる(ex.規制緩和

この1~4の主張は、「個人主義」と呼ぶのがわかりやすいのではないかと思う。この「個人主義」は、「自律的で創造的な生を生きる」という意味では妥当である。しかし、個人は社会の中で、他者と共に生きているのである。このことを忘れて(よく認識できず)、「自分が望むように生きればよい」と考えれば、これは「利己主義」である。「個人主義」には、このような両側面がある。1~4の主張では、この「利己主義」を排除できない、というところが問題である。

「他者の生」を考慮に入れるならば、「自由主義」とか「個人主義」とかという言葉で一括するのは、誤解を招くであろうし、特定集団の利益のみを追求する者のイデオロギーとして利用されるだろう。(ここでイデオロギーとは、「誤解を悪用する」という悪い意味で使っている)。「自由主義」が、「利己主義」のイデオロギーになっていないかどうか、注意しなければならない。

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1~4の主張を少し詳しく考えると、次のような疑問/反論が浮かぶ

  1. 善き生について自分なりの意見[善の構想]を持っていない人もいる。ひょっとすると、こちらが多数派かもしれない。「私は何のために働いているのだろうか?」とか、「人生の目的とは?」とか、「どうしていいかわからない」と感じている人は、自分なりの意見[善の構想]を持っているとは言えない。あるいはまた、善き生について自分なりの意見[善の構想]を持っているとしても、それは既に実行可能性を考慮した安易なものであるかもしれない。これを同一のものとみなしてよいのか。
  2. 自由主義は、いかなる「善き生について意見」も認めるのだろうか。「日本人のような野蛮な人種は虐殺することが、我々の善き生につながる」というような意見を認めるのだろうか。それは「善き生」ではないというなら、善の構想の複数性(多元性)を認めるということにはならないのではないか。
  3. 「各人は自分の善の構想[幸福]を追求することができる」というが、実際には、そんなことは不可能である。「ごく恵まれた人だけが、自分の善の構想[幸福]を追求することができる」のである。そんなことは、ちょっとでも自分の生活を振り返ってみれば分かることである。ところが、自由主義者は、「誰もが自分の善の構想[幸福]を追求することができる」かのように言う。
  4. 「社会的正義は、ある一定の善の構想に依存しない」というが、ここで「社会的正義」という言葉を使うのは問題である。「ある一定の善の構想に依存しない社会的正義」とは、どういうものだろうか、見当もつかない。コミュニティの各メンバーが「善き生についての自分なりの意見」を出し合って、物事を決めていかないで、「社会的正義」がどうして達成できるというのだろうか。「社会的正義は、ある一定の善の構想に依存しない」というのは、「社会は何も善を定めないで、個人任せにする」と解釈される可能性がある。それは「私たちが共に生きている社会」の否定であるとしか言いようがない。

以上は、児玉の解説からのコメントであるが、平野は「正と善の区別」について、次のように述べていた。

自由主義的な正義論では、功利主義理論によるのであれ、リバタリアニズムによるのであれ、あるいはまた平等主義的な福祉国家論によるのであれ、自由・平等の権利を保障する公共的な法の枠組みの下で、各人は自由に自らの幸福を追求できるとされる。すなわち理論的に言えば、公共的な枠組みとしての「正」の原理が、多様な「善」の追求を可能にする基礎的な条件を提供する。ここには、正と善の関係について次のような3つの想定が含まれている。すなわち、正は善から区別されること、正は善に優先すること、正はいかなる特定の善の観念にも依存せず、独立かつ中立的に規定できる、ということである。

自由主義的な正義論」というのは、上述4の「社会的正義」に相当しよう。私には、これは「各人は自由に自らの幸福を追求できる」という個人主義≒利己主義」が、「社会的正義」である、と主張しているように聞こえる。「社会的正義」という言葉の、意図的な誤用であろう。

「公共的な枠組みとしての正の原理」とは、実質的に「各人は自由に自らの幸福を追求できるという原理」以外の何ものでもないと思える。「公共的な枠組み」というのは、「各人が自由に自らの幸福を追求することを妨げないようにする」という意味だとすれば、そのような「公共的な枠組み」は、個人主義≒利己主義の主張によっては、成立しないだろう。

 

ところで「我が国」は、「自由主義」の国なのか、そうではないのか? 各人は、自由に自らの幸福を追求できているのか、そうではないのか?

自分の殻*1に閉じこもり、自己満足の言説(行動)を繰り返していて、それでよいのか? 井蛙、夏虫、曲士ではないか?

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*1:

自分の殻…グローバルではない限定されたコミュニティ。井の中の蛙の「井」。

井蛙(せいあ)には以て海を語るべからざるは、虚に拘ればなり。夏虫(かちゅう)には以て冰(こおり)を語るべからざるは、時に篤ければなり。曲士(きょくし)には以て道を語るべからざるは、教えに束らるればなり。今 爾(なんじ)は崖涘(がいし)を出でて、大海を観、及ち爾の醜を知れり。爾将に(まさに)(とも)に大理を語るべし。(荘子

訳…井戸の中の蛙(かわず)には、海のことを話してもわからない。それは蛙が狭い環境にとらわれているからである。夏の虫には氷のことを話してもわからない。それは彼らは季節というものは夏だけだと思いこんでいるからだ。視野・見識の狭いものには、真理を説いてもわからない。それはその人たちがありきたりの教えに縛られているからだ。今、あなたは狭い川の岸を出て、大きな海を見た。それであなた自身の愚かさを自覚したのだ。だからあなたには、大きな真理について語ることができるようになった。

http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp/2007/11/05/%E3%80%90%E4%BB%8A%E9%80%B1%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%8F%E3%81%96%E3%80%91%E4%BA%95%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E8%9B%99%E2%80%A6/