浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

価値観の壁を乗り越える その先は?

伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(18)

第4章 「価値観の壁」をどう乗り越えるか の第8節は、結局「生きる意味」とは何だったのか である。ここで伊勢田は、生きる意味の問題について、ここまでで紹介してきた手法がどう使えるのかをおさらいしているようだが、重要なことを述べているとは思われないので省略する。代わりに、自分の頭の整理のために、第4章の要点をメモしておこう*1

 

価値主張の無限連鎖

  • 価値主張(「価値」にかかわる主張)は、「~は善い」「~は悪い」「~するのは正しい」「~するべきである」「~してはならない」などの言葉で表現される。
  • 価値主張には、倫理的主張(善い、悪い)や政策的主張(~するべきである、~すべきではない)や美的主張(美しい、美しくない)などいろいろある。
  • さまざまな価値主張に共通するのは、なんらかの価値基準に照らして評価を下しているという点である。
  • 価値基準は、ものごとの善し悪しを測る「ものさし」として働く。
  • 「価値観」という言葉も、そういう「ものさし」に他ならない。
  • 倫理的な基準は「幸福」や「平等」に関する判断を含むことが多いし、美的基準は「均整」や「心地よさ」に関する判断を含むことが多い。
  • 薄い記述というのは、ある言葉のさす対象についての骨組みだけの描写のことであり、分厚い記述というのは、豊かな内容を伴った描写のことである。
  • 薄い記述の典型は言葉の定義(辞書的定義、哲学的定義、操作的定義など)であり、定義にもっと具体的な内容を足したものが分厚い記述になる。
  • 一見価値主張でないように見えて、実は、価値主張を背後に含んだ言葉がある。(暗黙の価値主張を前提としている)
  • 価値主張は、理由付きでなされる主張と理由なしでなされる主張を区別することができる。
  • 最終的結論が価値主張であるような議論を価値的議論と呼ぶ。
  • 価値的議論は、結論、前提、及び推論の3つの要素から構成される。
  • 価値的議論は、つねに、前提に価値主張を含むかたちに再構成できる。
  • 価値的議論は、必ず価値的な前提を持つかたちに整理することができる*2
  • 価値的議論における妥当な推論形式として、実践的三段論法と呼ばれる推論形式がある。…(大前提)有意味な生活を送るのは望ましい。(小前提)Xという生き方は有意味である。(結論)Xという生き方をするのは望ましい。[大前提:隠された価値主張、小前提:事実主張、結論:価値主張]
  • 実践的三段論法の大前提も価値主張である以上、それを正当化する議論を組み立てようとすれば別の実践的三段論法が必要になる無限連鎖)。

 

「生きる意味」のクリティカルシンキング

  • 倫理的懐疑主義は、何が善いか、何をするのが正しいかに関する主張に対して、本当にそれが善い(正しい)のかどうか疑う。その価値主張を、なぜそう言えるのかと問う。
  • 回答1:普遍的である。いかなる文化でも、それが善い(正しい)と主張している。(人を殺してはいけない)
  • 回答2:合理的である。利他的な行動やお互いの権利を尊重する行動を要請する規範は、一般に社会契約による正当化が可能である。
  • 回答3:そのような疑い(問い)をまじめに受け取ることはできない。(なぜ、人を殺してはいけないのか)
  • 回答4:私(たち)は「それが善い(正しい)」と考えている。「それが善い(正しい)とは言えない」というなら、なぜそう考えるのか、君の方が先に答えろ。
  • 価値主張のクリティカルシンキングには、基本的に4つの視点が必要である。…①基本的な言葉の意味を明確にする。②事実関係を確認する。③同じ理由をいろいろな場面にあてはめる。④出発点として利用できる一致点を見つける。
  • ①基本的な言葉(生きる意味)の記述を、タマネギの皮を一枚一枚むくようにすこしずつ薄くしていって、一致できる記述を探す。薄い記述は、どういう分厚い記述が受け入れ可能かを決定するための出発点としての役割を果たす。一致できる薄い記述がいったん決まったら、だんだんそれを厚くしていく。この過程のどこかで意見の食い違いが出てくる。

 

「価値観の違い」で済まして良いのか?

  • ②言葉の定義が確定すれば、三段論法の小前提、すなわち「Xという生き方は有意味である」という主張が正しいかどうかは、Xがその記述を満たしているかどうか、という事実の問題なる。価値前提で合意できれば、後は事実問題であり、感情的な議論になることはない。
  • ③同じ大前提が当てはまるけれども、一般的価値主張は適用範囲が広いので、結論が異なる場合も存在する。いろいろな事例に適用してみる(あてはめてみる)ことが必要である(普遍化可能性テスト)。
  • ④違う文化に属する人や違う価値観を持つ人であっても、二人の人間があらゆる面で意見が食い違うということは普通はない。倫理問題について一番一致がとりやすいのは、「人を殺すな」「ものを盗むな」といった、具体的すぎずかといって抽象的すぎもしない中間レベルの主張である(道徳的直観)。そうした一致点は、一種の確実性を備えた出発点として扱うことができる。
  • だんだん一致点を増やしていく方向で整合性を求めていけば、討論の参加者全員にとって納得のいく価値主張の体系を築くことができるだろう。一般的な方針としては、「すでに一致出来ているところにはできるだけ手をつけず、それでも不整合が生じたら、できるだけ無理の少ない方向で修正を加える」ということになる(反照的均衡)。

 

ダブルスタンダード 妊娠するアンドロイド

  • 妥当でない価値的推論に、(1)二重基準の過ち、(2)自然主義的誤謬、(3)自然さからの議論 がある。
  • 妥当でない価値的推論の指摘は、攻撃したり、却下したりするためではなく、「よりよい価値的推論を組み立てる共同作業をするための通過点」と考える。
  • (1) 二重基準ダブルスタンダードとは、「Aだから」という理由でBを非難しながら、同じ「Aだから」という理由の当てはまるCは非難しない、という態度のことである。大前提が妥当かどうかをいろいろな具体例にあてはめて考えるという手法は、この二重基準の過ちを検出しようとしている
  • 二重基準ダブルスタンダード)は、意外に多くの人が侵す過ちで、結論が最初からあってその結論にたどり着くために後から理由をつけるような場合によく起きる。 

 

自然主義的誤謬 女性は第1子を出産したら、退職すべきである?

  • (2) 自然主義的誤謬とは、倫理的概念を事実で定義するという過ちである。奴隷制度を容認する規範を人々が受け入れているからと言って、奴隷制度を容認する規範が正しいということにはならない。
  • (3)「Xという行為は自然なので、やってよい」というのが、自然さからの議論である。ここでいう「自然」というのは「みんながいつもやってきたことなので違和感がない」、あるいは「人間の体の仕組みが生物学的にそうなっている」というくらいの意味である。

 

実践的三段論法の威力

伊勢田は、実践的三段論法が、価値的議論における妥当な推論形式であるとしている。次の例を考えてみよう。

大前提)安全で平和な生活を送るのは望ましい。(小前提北朝鮮の弾道ミサイル発射は、安全で平和な生活に対する脅威である。(結論)このような脅威の事前防止のため、北朝鮮に対し、先制攻撃をかけるべきである

「生きる意味」の例と異なり、この例では、価値前提(大前提)の合意は得られやすい。しかし、事実認定(小前提)や結論には、さまざまな異論が出るだろう。問題は、事実認定(小前提)に「価値判断」が紛れ込んでいないか、「価値判断」なしに「事実認定」できるのか、そして、価値前提と事実判断から結論を導き出すのに、論理の飛躍がないかどうかである。…私がここで言いたかったことは、価値前提(大前提)に合意がみられても(価値観の相違がなくなっても)、何をすべきかの結論に合意を得ることは難しいということである。社会問題のほとんどは、こちらに該当するのではないかと思う。

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倫理的懐疑主義と立証責任

伊勢田は、倫理的懐疑に対する回答4を、「文脈主義と立証責任」という小見出しをつけて説明している。「生きる意味」のクリティカルシンキング では引用を省略したので、ここでみておこう。

文脈によっては、そもそも現存する倫理的規則は正しいのかという問題を正面から考える必要があるだろう。また文脈によっては大原則にあたるような倫理的規則だけ認めて、より具体的な規範について吟味することもあるだろうし、別の文脈では、かなり実質的な倫理的規則まで前提として受け入れて話をするのが理に適っていることもあるだろう。また、認識論的文脈主義の場合と同じく、日常生活における決定なのか、それとも多くの人に影響を及ぼすような政策決定なのか、というような差で文脈は変わってくる。政策決定の場合には、主張の根拠がより厳密であることが求められるだろう。

「~しなければならない」とか「~すべきではない」というようなルール(法)を定めようとする場合、主張の根拠(価値前提)を、明確にすることが求められる。それは通常「目的」として規定される。

 

伊勢田は、立証責任という概念を使って、文脈主義を説明する。

立証責任とは、二つ以上の対立する主張があるときに、自分の立場が正しいということを積極的に示す責任のことである。…かつての四大公害訴訟で、有害物質を排出した企業の側とその有害物質で病気になったと思われる住民の側のどちらに立証責任があるかが問題になったことがあった。この場合、「その企業の排出物が病気の原因になった」という主張と、「その企業の排出物は病気の原因ではない」という対立する主張があって、共に十分な証拠がない場合、どちらの主張に沿って考えるかが問題となった。普通に考えると「原因だ」という積極的な主張のほうに立証責任がありそうに思えるが、事態の重大さや、住民には立証のための手立てが少ないことから、一連の裁判の中で「原因ではない」と主張する企業の側に立証責任が移っていった。

AとBという二つの立場が対立していた場合、どちらにも決め手がないときでも、全体的に見てAのほうがもっともらしい、ということはあるだろう。これはBに立証責任を帰する理由となる。また、特殊な主張をしている側や特別な行動を要する主張をしている側に立証責任が生じるというのも、一般に使われる基準である。

立証責任(説明責任)が法的にどのように考えられているのかの話は興味深いが、別途検討するとして、ここでは伊勢田の述べるところをみていくにとどめる。

 

伊勢田は、倫理的懐疑主義への回答として、立証責任という考え方を利用する。

ある共同体で現在受け入れられている倫理規範が正しいかどうかという問題では、間違っていると主張する側のほうが特殊な主張をし、大幅な改革を要求していることになる。したがって、一般論としては、現存する倫理規範を批判する側が立証責任を負うことになる。もちろん、その他のさまざまな要因を考慮すると、現存する規範の側に立証責任が生じることもあるだろう。いずれにせよ、ある文脈である倫理規範に立証責任がないということになれば、その規範は倫理的懐疑主義の手を逃れることになる。これで、倫理的懐疑主義を全体としては維持しつつ、日常的な文脈での行動不能も避けることが可能となる。

これはどうだろうか。ある共同体で現在受け入れられている倫理規範が正しいかどうかが問題とされるのは、「間違っている」(A)と主張する場合だけでなく、「ちょっとおかしいんじゃないか」(B)と疑問を呈する場合も含むだろう。(B)の場合があることを看過すべきではない。まずは「懐疑」なのである。つまり「ある共同体で現在受け入れられている倫理規範が正しいかどうか」が問題とされている局面というのは、「間違っていると主張する側のほうが特殊な主張をし、大幅な改革を要求している」とは言えない。「懐疑」の局面では、「現在の倫理規範」を支持しているものが、なぜ支持しているのかを説明できなければならない。「間違っている」と主張する者は、なぜ間違っているのかを説明できなければならないが、これを「立証責任」があるというのはどうだろうか。倫理規範が正しいかどうかを問題とするということは、有罪・無罪を決める、白黒決着をつけるという問題ではない。お互いに話し合って(議論して)、合意をめざそうというのである。「立証責任」という言葉は、「対立意識」が強すぎて適切ではない。「立証責任」云々以前に、お互いがそれぞれ自説の根拠を説明して、話し合って、より妥当なルールを決めればよいのである。伊勢田の「立証責任」という考え方には賛同できない。

 

生きる意味についても、「意味がある」ことを示すほうに立証責任を求め続けるなら「生きる意味などない」ということになりそうだが、「生きる意味などない」と考えるほうに立証責任を求めるなら状況は大きく変わる。その場合、生きる意味についての常識的見解(多くの業績を残して死ぬような人生は少なくとも有意味な人生である等)は、反対する証拠が出ない限り維持されることになるだろう。

「生きる意味」の問題にしても、「立証責任」の考え方を採るのは適切ではない。「私はこう思う」と互いの意見を話し合えばよいではないか。またこの問題に関しては、合意を得なければならない、というものでもないだろう。

*1:私は「まとめ」というものがあまり好きではない。他人の文章を短く言い換えるということは、微妙なニュアンスや行間の「思い」を、捨象することになる。それは、チャーミングな女性の「レントゲン写真」を見るようなものである。「あばた」も「えくぼ」も写らない。…同様に、自分の文章の「まとめ」であっても、微妙なニュアンスや行間の「思い」を伝えられない。思いを込めた表現にすれば、理解されない。

*2:伊勢田は、このスローガンは、「である(事実主張)から、べき(価値主張)は導き出せない」というスローガンよりは弱い、としている。